第一話「花粉の季節」
あぁ、眠いしムズムズするし痒いし……。
あー、かゆいカユイかゆいカユイ痒いっ!
私は眼鏡を外してぐちゅぐちゅの目と鼻をコシコシする。
私は今、バス停の列に並んでいる。
そして最悪なことに今日は寝坊してしまい、家を慌てて出て来たせいでマスクを忘れてしまったのだ。
この季節、花粉症の私にはマストなアイテムである。
本当だったら家に取りに戻りたいところだけど、バスが来る時刻は遠に過ぎている。
そんなものだからいつバスが来るかわからないので、マスクは学校近くのコンビニで購入するつもり。
先ずはこのバスに乗って学校へ。いやコンビニへ。
それまでの我慢である。
しかし、なんで春ってこんなに眠くて痒いんだろう。
春と言えば、植物も芽吹き、動物だって食べものが増えてわーいわーいな季節でしょ?
ムズムズなんかじゃなくって、もっとこう、ウキウキとかワクワクするんじゃないの?
そうよ。クラス替えして新学期が始まるんだし、ドキドキとかハラハラがあって然るべきよ。
ましてや入学式や卒業式ってイベントもあるんだし。
卒業式かぁ……。
卒業と言えば井伊先輩……。
もうすぐ卒業しちゃうよなぁ。
寂しくなるな……。って、一度も話したことないけどね。
井伊先輩は入学式の日に見かけて以来、私が密かに憧れ続けている先輩だ。
とは言え、私は一年生で先輩は三年生。
授業で交わることなんてないし、先輩は剣道部で私は帰宅部だから尚更接点がない。
本当、時々見かけるだけの憧れの人なのだ。
井伊先輩の名前だって、二ヶ月くらい前にお友達が呼んでるのを聞いて知ったくらいで、下の名前も知らないくらいの認知度。
本当に本当、ひっそりと憧れてるだけ。
もっとも、私がもっと可愛くて目立つタイプの女の子だったら、積極的に声をかけたりしていたかも知れないけど、生憎と私は非積極的派。ようは消極的ではないけど、無闇に行動して傷つくくらいなら妄想して楽しんでいたい派。と言うカテゴリーに身をおいている。
まあ、ネット小説や図書館の本を読み漁るのが好きなだけで、他に人の目を引くような趣味などない私は、結局は目立たないタイプに分類されるのだろう。
今日の寝坊も遅くまで異世界もののネット小説を読み耽っていたのが原因だ。
私も異世界行って本気出したい……。
ちなみに、顔は決して可愛くない訳ではない。
いや、可愛い方だと思う。
だって良く可愛いと言われる。お父さんから。
まあ、あくまで身内判定だけど、中の上と言ったところ。あくまで身内判定だけど。ここ大事だから二回言っとく。
そう言う訳で、普通だから余計に目立たないタイプに分類されるのだろう。眼鏡だし。
あ、そうそう。眼鏡女子がモテるってアレ、嘘ね。
正確には“可愛い”眼鏡女子がモテるってだけ。
「ぁックションっ」
気をそらそうとあれこれ考えてだけどダメだった。
ムズムズの限界だ。
あ、これダメだ。今のくしゃみが呼び水になって……
「ックションックションックションックション」
ほわわわぁ……。
咄嗟に前の人に気を使って横を向いたのに、いつのまにか列は二列になっていて思いっきり隣の人にくしゃみを浴びせてしまった。
花粉用マスク&花粉用眼鏡男子。完全武装した男の人だ。
しかも私と同じ学校のブレザーを着ている。
「す、すい……ックション……ックションクション」
謝ることすら許されないよ……。
「これやるよ」
そんな私を見兼ねてか、男の人は鞄からマスクを取り出して私に差し出してくれる。
「ありクションっ!」
お礼すら失礼な事になってしまうよ……。
「この季節最悪だよな?」
と言いながら、更にポケットティッシュまで差し出してくれる。
私はくしゃみ寸前のマヌケな予備動作をしつつ、奪うようにそれを受け取ると、流れるような動きで鼻をかむ。
もうティッシュを目にしたら、チーンまでが一つの流れである。
そして、やってしまってから後悔する。
人前、しかも同校の男子生徒の前でのチーンだ。
恥ずかし過ぎる。
「あ、ありがとうございました……」
鼻をかんだことで平静を取り戻した私は、お礼とともに残りのポケットティッシュを手渡す。
「いいよ、やるよソレ」
「私も鞄に入ってますので大丈夫です。ありがとうございます」
私は眼鏡をかけ直して鞄からポケットティッシュを取り出すと、これが証拠とばかりにポケットティッシュをかざして見せた。
「えっ……井伊先輩?」
先輩がマスクに花粉用眼鏡だったのと、今の今まで眼鏡をかけていなかったから分からなかった。
花粉用眼鏡の奥に見える目、そして全体のシルエットが密かに憧れ続けていた井伊先輩のソレだったのだ。
「良く略されるんだけどさぁ。俺、井伊加瀬だから。まあ、どっちでもいいんだけどな?」
「………」
うわうわうわうわうわうわぁああ、中途半端に名前間違ってたしチーンしちゃってるしクシャミ浴びせちゃってるし……。
私は一連の流れを遡りつつ、恥ずかしさのあまり言葉を失ってしまう。
「お前も関商だろ? 一年か?」
関商とは私達が通う高校、関東商業高校の通称だ。
私を見る先輩の目が花粉用眼鏡の中で笑っている。
「は、はひっ、い、一年の稲田依音です……」
「はぁ。俺、井伊加瀬航平。って、遅刻決定だなって思っただけで、なにも名前聞きたかった訳じゃなかったんだけど……しかもフルネーム。まあ、航平なだけに不公平にならない為に俺も言ってみた」
「………」
先輩の花粉用眼鏡の中の目は、自分で言っていて苦笑いといったところだ。
先輩、確かに笑えないよソレ。
それにしても私、完全に空回りしてるよ。
「あ、ち、遅刻ですよね…やっぱり」
「遅刻だな、間違いなく。俺は代返頼んでるから問題ないけどな?」
道理で余裕があると思った。
それに、同じバス停なのに今まで会わなかった謎も解けた。
私は普段、授業の20分前には教室へ入って読書しているのだ。会えない訳だ。
「あ、私、忘れ物しちゃったみたいです…。どうせ遅刻決定だし、これから取りに行って来ます! ティッシュありがとうございました!」
とにかく仕切り直しだ。
今は突然過ぎるのと恥ずかし過ぎるので、日を改めてまたこの時間のバスを使おう。
私は開いたままだった鞄の中を覗きながら言うと、逃げるように全速力で駆けだした。
道路を渡って2ブロック先が私の家だ。
そして。
「おい、危ねぇぞ!」
先輩だろう声をかき消すような大きなクラクションの音。
目前に大型トラックが迫っていた事に、私は全く気づいていなかった。