例えばこんな学園祭
彩藤叶湖:ヒロイン
桐原黒依:ヒーロー
彩藤和樹:叶湖の兄
もしも話です。
ヴーヴー、
先ほどから耳障りなバイブ音が鳴り続けている。
自分だけの時間に邪魔など不要である。そんな叶湖でも、家族や学生生活がある中で、すべての人間との関係を断絶することはできていない。
要するに今鳴っているバイブ音は、叶湖が自分への連絡を許した数少ない相手からのものである。ディスプレイには、彼女の次兄である和樹の名前があった。
おおよそ用件の予想がついていたので、1つ深いため息を吐いて電話に出た。
「はい?」
『あ、やっと出た! おせーよ、叶湖!』
「たまの休日にいきなり電話をしてきた割には随分な挨拶ですね、和樹さん」
「それどころじゃねーんだよ。オレさ、昨日お前の家に行った時、財布忘れてなかったか?」
「…………えぇ、ありましたよ。月曜日にでもお返ししようと思っていましたけど」
叶湖はちらりと、キッチンカウンターの上に乗っている茶色の財布を見上げる。
返事を返すのに少し間が空いたのは、叶湖が誤魔化そうとしたのではない。
そもそも彼女の兄は、財布を叶湖の家に忘れたのではないのだ。マンションを出たところで、間抜けにもズボンのポケットから落としていった。もちろんその姿は、叶湖の監視下に置かれているため、叶湖には直ぐに察知できる。
もし、落としたのが赤の他人であったなら、叶湖は当然のように放っておくことである。と、いうより、彼女の兄のものであったとしても、兄のためにそれを拾って助けてやろう、という思考は、叶湖は持ち合わせていなかった。
ではなぜ、叶湖の部屋に兄の財布があるのかと言えば、第三者に棚ボタさせるのが不愉快だったから、という理由に他ならない。そんなわけで、わざわざ拾いに行ったのだ。叶湖が。その手間が圧力となって、無言の時間に込められていた。
「俺、学校来るまで……っていうか、昼飯食うまで気付かなかったんだ。で、今、大学で食い逃げ未遂なわけ」
「それは大変ですね。ご自分の大学なんですから、事情を話せばなんとかなるでしょう?」
「そんなこと言わずに頼むよー。今日が学園祭なのはお前も知ってるだろ? 俺、まだしばらく大学離れられないし、この後も打ち上げとかで入用なんだって!」
叶湖が無言で押し黙る。不満なのを隠しもしていない。
「悪い! お詫びに今度のバイト代入ったら、お前が揃えてる、あの、なんだっけ? どっかのメーカーのカップ? 買ってやるから!」
「この間もう買いました。それに、和樹さんのバイト代なら、3カ月分が吹き飛ぶ値段ですが、本当に買ってもらえるので?」
「え、マジで? そんなもんポンと買ったの? うわー、やっぱ金持ちだなー」
「とにかく。……今から伺いますから。できる限り校門付近まで来て、私の負担を軽くするくらいはしてくださいね」
「お、おう、分かった。ホントに悪い」
「近くまで行ったら電話をします。まさか人を呼びつけておいて、電話に気付かなかった、なんてことがないように」
「も、もちろん」
和樹の上擦りだした声を最後に電話を切ると、叶湖は上着を取りに私室へ向かった。
「どうしてわざわざ質の悪いものを、ちゃんとした店よりも随分とふっかけられた値段で、しかも、いつ埃をかぶるともしれない屋外で食べる必要があるんでしょう」
大学に近づくにつれ増える人並みに、機嫌を悪化させながら和樹に電話をかけたのは、つい先ほど。叶湖の機嫌の悪さに気付いていないはずはないだろうが、今、特に店が混雑して離れられないとかで、大まかな店の場所だけ伝えられた通話は直ぐに切られてしまった。
もっとも、和樹の出店している店の繁盛具合は、電話の後ろで聞こえる声からも分かるくらいだったので、そんな中、電話をできただけでも奇跡なのかもしれない。
しかし、今から自分がそんな混雑の中に行かねばならないのかと思うと、今すぐにでも踵を返したくなるのが叶湖という人間である。
口で、そしてそれ以上に内心でぼやきながら、群れる生徒の間を抜け、ようやく近づいた彼の店は。ここに番犬が居れば、当り散らしただろうと思われるほどに人で溢れていた。
店としては繁盛しているのだろうが、叶湖にしてみれば近づきたくないだけである。
「この位置から財布を投げたら……。いえ、どうせ私じゃ届きませんね。本当に、こういう時に限って、あの犬は居ないんですから……」
幸いにも和樹の店は連なる出店ブースの末端に位置しており、大勢の人が列を作っている正面からでなくとも、ブースの側面や裏側から、和樹を呼ぶことはできそうだった。
仕方なく出店の周囲を大幅におお回りして、ブースの裏から近づいていくことにした。
が。
「ちょっと、キミ! 正面に並んでくれないと、商品は買えないよ。それに、彩藤先輩のファンだっていうなら、先輩は曲がったことが嫌いだから、こういうの良くないよ」
聞きわけのない子どもを諭すような言葉に、声がかかった方向を見れば若い男がいた。なるほど、さすが女に不自由しない整った顔を持つ和樹である。他にも叶湖のようにブースを回り込んででも、ひと目見ようとした客……和樹のファンが居たのだろう。
叶湖も、確かに和樹の位置を把握するため、その方向ばかりを見ていた。とはいえ、叶湖は、和樹の顔面に用事があるわけではない。
自らの意図を誤解された上で説教のような言葉を受け、叶湖は無意識に手を髪へ伸ばす。それは、叶湖の機嫌が悪くなったときの1つのサインである。
心底、気に入らなかった。なぜ自分がわざわざ来てやったにも関わらず、こんな扱いを受けねばならないのか。
見れば、列に並んでいた女たちが叶湖を見て嘲笑している。普段ならば他人の目など、気にする叶湖ではないが、今の精神状態ではそれすらも気に障った。
「それは大変失礼しました。ご迷惑のようなので帰ります」
せっかく来ておいてなんだが、叶湖は自分の性格をよく知っている。これほど気に食わないことだらけの目にあって、それでも和樹のために行動するなど、もうできない。
財布がない? なら困ればいいのだ。
視線の先の和樹は、先ほどから脇目もふらずに目の前の鉄板と客の女たちの相手をしていた。
帰ろう。そう決めて、和樹から視線を外して身を翻す。その背後に声がかかった
「叶湖!?」
和樹の後輩と思われる学生との話し声に気付いたのか、客の女たちが嘲笑する相手が気になったのか、和樹が叶湖が居る方向へと振りかえったのだ。
それまでせっせと働いていたのに、近くにいた男子学生に一言声をかけながら、自分が握っていた道具を手渡すと脇目もふらずに叶湖に近づいてくる。
「悪い! 居たのに気付かなかった! ……店まで来たなら、もう1度ケータイ鳴らしてくれりゃよかったのに。それか、呼ぶとか」
「……」
調子よく喋りながら叶湖へ歩みよった和樹の前で、叶湖はただただ、キレイな笑顔で突っ立っていた。無言の叶湖に近づく度、和樹もどんどんと顔色を悪くする。叶湖がかなり腹を立てていることが、よくよく伝わっているのだろう。
「すまん! 本当なら休憩時間だったんだが。結局昼飯代を立て替えてもらってよー。その恩をたてに、散々こき使われてたんだよ……って、言いわけだよな。ほんと、悪い」
和樹は例え相手が妹であっても、自分が謝るべきと思ったところでは謝ってくる男だ。しっかりと頭を下げて来る。叶湖の兄2人はこういうところで筋を通しており、だからこそ、和樹が外でヤンチャに過ごすことを、直も止めはしないのだろう。
とはいえ。
「そうですか。では、お忙しそうなので、私は失礼します」
「え、え!? 叶湖!?」
叶湖は謝られたからと言って、はいはいと許すほど筋の通った生き方はしていないのだ。残念ながら。
さっと身を翻して立ち去ろうとした叶湖を、和樹は焦って引き止める。腕や肩などを掴めば局所に力が偏るため、叶湖に痛みを与えることを酷く恐れる和樹にはできない。結果的に、叶湖は身体全体を引き寄せられ、後ろから抱き締められる形で和樹に拘束されることとなった。
「和樹さんでなければ暴れているところです」
「お前が暴れると心臓に悪いから辞めてくれ」
主に、叶湖の怪我を心配するという意味で、だ。
「何でそんなに機嫌が悪い? 一応、納得した上で来てくれたんだろ? 渋々とはいえ」
嫌ならテコでも、例え兄の頼みでも動かない。そんな叶湖をよく知る和樹であるので、最初はダメ元で電話をしてみたのだ。気分よく飲めはしないが、この後の飲み代くらいなら立て替えてくれる友人は大勢いる。
「私、アナタのファンだと思われました。アナタは曲がったことが嫌いだから、素直に列へ並べと。私をここまで呼ぶのなら、他スタッフに言付けておくべきでは? それとも、アナタの財布を渡すためだけに、あの行列へ並ばせようと思っていたので?」
「う、すまん。一応妹が来るとは言っておいたんだが……」
「や、やっぱその人が先輩の!?」
今まで黙って叶湖と和樹のやりとりを追っていた後輩学生が、この段になって漸く驚きの声をあげる。
「……私が判別できないのであれば、意味ないですよね」
「全然似てないんだから仕方ないだろ。お前、撮らせねぇから、写メもないし」
「外見的特徴を細かに伝えることはできたでしょう。似てないなら似てないとでも。とにかく、遣わされたにも拘わらず追い返されましたので、そのとおりに帰ります」
放してくれと和樹の腕をゆする叶湖に和樹は焦る。
「いや、ちょっと待って。詫びはするから!」
「……」
少しばかり後ろを振り返り、和樹を仰ぎ見た叶湖の、本日2度目のキレイな笑顔を食らって、和樹はさらに顔色を悪くする。
叶湖の性格など黒依の次に兄2人が知っている。特に和樹は教育実習をとおして叶湖の学校生活を聞き及ぶ立場にいたこともある。つまり、裏生徒会の噂を知っているのだ。
機嫌の悪い叶湖を放っておけば、何が起こるか分からない。
「別に、いいんですよ? 今、この場で私の鞄からアナタの財布を抜き取って、そんなに帰りたきゃ帰れ、と言ってもらっても」
「お前な……」
そんなことをすれば、いつか絶対に地獄を見ることになる。和樹はそれが分かっていて、自ら地獄へ足を踏み出すことなど、できるはずがなかった。
「俺は曲がったことが嫌いなんだろ? 大事なお前をパシリにしておいて、機嫌を害させたまま帰すようなこと、したくねーんだよ」
和樹の、叶湖を抱きしめる腕に少しばかり力が入る。
「アナタのエゴに巻き込むと? 私の意思は?」
「お前なぁ、財布だけ抜き取って追い帰すようにお前を帰して、なんて。お前だって、そんな扱いを受けたいわけじゃないだろう?」
「今、私がアナタに財布を渡したとして、私の機嫌が直るわけではありませんが?」
「分かってるよ。だから、ちょっとそのあと、俺に罪滅ぼしのチャンスをくれ」
叶湖の耳元に囁くように、和樹が懇願する。
そんな和樹の様子に、結局は叶湖が折れることになった。
どちらかが折れなければ、話が堂々巡りすることが分かったのだ。叶湖が折れずに和樹に抱きつかれたままになるよりも、さっさと帰りたい思いが勝ったのだ。
しかし、もはや叶湖がすんなり財布を渡したとしても、和樹は叶湖を帰すつもりはないだろう。……叶湖が機嫌を直すまでは。
「店は?」
「だいぶ延長して働いたし、立て替えだってすぐ返せる。ちょっと遅くなったが休憩とったって悪くねーだろ」
「あら、ファンの方は?」
叶湖がにやりと意地の悪い笑い方をして、和樹が女を抱きしめている、という光景に明らかにテンションを落としている女たちを指す。
「お前とファンなら、お前をとるけど?」
「そんなだから、まともな彼女ができないんですよ。遊びばっかりで」
叶湖は和樹の拘束から漸く抜けだすと、溜息をつきつつ彼の財布を取り出して手渡した。
「次からは気をつけてくださいね。私、同じ間違いをする人間が嫌いなので」
「よく肝に銘じておくよ。あ、ちょっと待ってて」
和樹はそう言うと、財布を片手に小走りで出店の中へ戻っていった。金を返しに行くのか、荷物でも取りに行ったのか。仕方がないので、叶湖はその場で待機である。
「あ、あの」
と、そこで、今まで突っ立ったままだった和樹の後輩が声を上げた。叶湖は、彼こそ店で働かなくていいのか等と考えながらも、とりあえず返事を返す。
「すみませんでした。その……先輩の妹さんだと知らずに、失礼なこと言ってしまって」
「謝罪は結構です。彼は、アナタに私の身体的特徴を説明をしていなかったことまで自分の責任として私に謝罪し、私の機嫌を取ろうとしています。彼のそういう性格を、アナタもよくご存知なのでしょう? ですから、アナタからの謝罪は受け取れません。」
「アナタのお話、よく聞いてます。先輩の語り口がとても上手くて、いつかお会いしたいと思ってました。他のサークルのメンバーもです。……いいですね、兄弟の仲がいいって。俺にも先輩みたいな兄がいたら、なんて思います。男から見ても素敵な人なので」
「私には勿体ない兄だと思っていますよ。男性から見て素敵だというのも、なんとなく理解できます。……女難の相でもあるのか、いい女性とは巡り合えていないようですが」
「女難の相? 先輩、すごくモテますよ。それこそ、ファンクラブがあるんじゃないかと思うくらい、いつも女性に囲まれています」
「モテているように見えるのは、彼が1人の女性に絞る気がない証拠ですよ。彼の性格は知っているでしょう? 本気で大事にしようと思う女性がいれば、それ以外の女性に愛想を振りまいたりしません。今は本当に好きになれる女性を選び兼ねているのでしょうね。とはいえ、今の様子ではまともな女性の方がしり込みするでしょう。まぁ、恋愛に慎重になりたい気持ちも分からなくはないですが」
「叶湖、お待たせ!」
叶湖が後輩学生と話している内に、和樹が戻ってきた。
「……なんですか、それ」
どうやら休憩時間はもぎとれたらしい。恨みがましい、しかし面と向かって近づいてはこれない女たちの視線をひきつれ、手にはたこ焼きの皿を持っていた。
「叶湖にも食わせてやろうと思って! 美味いんだぞー。あ、もちろん奢りだから!」
「和樹さんが料理をお上手なのは知っていますが、それは要りません」
笑顔でたこ焼きを見せてくる和樹を叶湖はにべもなくつっぱねた。
店を裏から覗いたときに見えたのだ。作業が完全な流れ作業であることを。
切る係、混ぜる係、焼く係、トッピングをする係……。ちなみに、客の行列の真ん前で、焼く係をしていたのが和樹であった。
「えー、いいじゃん。こういうとこで食うから雰囲気でるんだって。どーせ、普通より高い金だして、素人が作った大して美味くないモンを並んでまで食うなんて馬鹿みたい、なーんて思いながら来てただろ?」
「……馬鹿みたい、とまでは思っていません」
和樹の横で後輩学生が目を丸くしているが、無視する。
「まぁ、確かに俺ひとりで作ってないけど、焼いたのは俺。パックに入れて、ソースだのなんだのをかけて来たのも俺。だから、火が通ってからは、全部俺。……な、食って?」
叶湖が顔も知らない人間の手料理を食べたがらないことは知っている。高校に入って1人暮らしになった叶湖が、弁当を自作しているのを見て驚いたものだった。
和樹自身、戸籍上の母親が血迷ったとして作った料理を食べてやろうとは思わないので、叶湖の気持ちもなんとなく理解できた。
かつて、直と和樹の料理を食べてくれていたのを嬉しく思ったくらいだ。
「ちょっと待ってな。まだ熱いかなー。焼けどすると危ないから」
叶湖が返事をしていないにも関わらず、勝手にふーふーとたこ焼きを冷まし始める。よっぽど叶湖の焼けどが怖いのか、差し出された時には、どう見ても冷めきっていた。
「……さすがにもう少し温い方がおいしいのでは?」
和樹の手ずから差し出されたそれを、しょうがなく食べて感想を述べる。
「味は? 不味かったか?」
「普通です。市販のソースの味ですね」
「そーだろーそーだろー、俺が愛をこめてぶっかけてきたからな!」
「……そんなだから、女性とまともに付き合えないんですよ」
妹に向ける過保護を、1人くらい別の女に向けてやればいいものを。
「本当は構内を案内したいんだが、お前、人多いの駄目だしな。裏手に回ってカフェにでもいくか。穴場で、いつ行っても客がいねーんだ。今日も大丈夫だと思う。紅茶が美味いから、いつか案内してやろーと思ってたんだよなー」
「機嫌がよさそうですね。こっちはおかげさまでそれほど良くはないのに」
「だって、俺は学校でのお前を少しは知ってるけど、お前は俺の学生生活知らないだろ? 家での俺以外も、知っておいて欲しかったわけよ、おにーちゃんとしては」
「そろそろいい加減にしないと、シスコンの噂がたちますよ」
相変わらず人通りが多く、叶湖と和樹の様子を遠目から伺おうとする視線は絶えない。
「ぜんっぜんオッケーだね。事実だし。俺は、俺の妹も可愛がってくれる女じゃねーと、絶対無理」
言い方は拗ねた子どものようだが、目は真剣だ。和樹の妹、つまるところ叶湖に優しくない女。誰のことか想像するのは簡単である。
「あー、どっかにいねーかなー、香里さんみてーな人」
「なんですか、それ。もしかして、初恋の人?」
「ばっか! お前、黒依に絶対言うなよ?!」
顔を真っ赤にして和樹が否定する。
「誰にでも小さい頃はありますから。おかーさんと結婚するー、なんて」
「お前、馬鹿にしてんだろ!?」
「してませんよ……ねぇ?」
「そうですね。彼女は僕から見ても良き母ですから。むしろ、女性を見る目があって何よりじゃありませんか」
「うぉぉお!? 黒依! お前、いつからそこに!?」
急に背後に現れた黒依に、和樹は大きく目を見開いてから顔をひきつらせた。
「先ほどです。……困りますよ。いくらお兄さんだからと、叶湖さんを勝手に連れ出されては」
「お前は旦那かよ。ってか、兄もダメって、すっげー心狭くね?」
「大事な女性なんですから、当然でしょう?」
黒依にあっさりと惚気られて、和樹は深い溜息をついた。
「よくここが分かったな。叶湖が連絡してたわけじゃねーんだろ?」
「普段なら何の問題もなく追って来れたんでしょうが、今日はこれだけの人ですから。……久しぶりに香水なんてものをつけました」
「あ、そういえば、叶湖にしては珍しいと思った」
「珍しく叶湖さんが香水なんてつけてお出かけなんで、浮気かと思いましたよ」
「本当に浮気なら、アナタにバレるような場所で香水をつけるようなことはしませんし、なにより、アナタの自由を奪ってからにしますので、ご心配なく」
「くっそー、相変わらずイチャつきやがって」
叶湖と黒依のやりとりに、和樹が悔しがる。彼自身、自分が真剣に恋愛していない自覚があるのだろう。それが分かっていて、ファンの女性たちも近づいているのだろうから、一概に和樹だけが悪いとも言えないが。
「羨ましいのなら、真剣交際すればいいんですよ。そういう意味ではシスコンの噂も役に立つかもしれませんね。和樹さんがちゃんと他人を思いやれる人間だということが伝わるでしょうから。もっとも、妹にしか目が無いなんて誤解が広がるのは困りますが」
「それにしても、珍しいですね。叶湖さんがこんな人混みの中にいらっしゃるなんて」
「アナタの所為ですが?」
思い出したように叶湖の機嫌が僅かに降下し、黒依の首筋に爪をたてた。
「こういう雑用はアナタの仕事でしょうに、居ないから」
「すみません」
そんないつも通りの妹とそのパートナーを見て、やはり羨ましいなんて思いながら、和樹は叶湖の背を叩いて促した。
「ほら、カフェ、行くんだろ? 黒依も特別に奢ってやるから」
「あら、妹だけじゃなく、弟にまで優しいんですか?」
和樹の言葉に、面白いことでも聞いたように叶湖が喉を鳴らす。
そんな飄々とした叶湖の様子に辟易したように、和樹は溜息とともに吐き出した。
「手のかかる弟妹なんざ、お前だけで十分だよ」
とはいえ、そんな妹のことを、和樹はとても大事にしているのだった。
なぜ、もしも話か、というと、本編では決してあり得ない話だからです。
お分かりいただけましたでしょうか?
本編では、和樹の大学在学中は、叶湖と黒依は絶賛絶交中なんですよね。
ただ、こんな兄妹が、妹カップルを羨む兄が、いてもいいかな、という小話でした。