02
「――ん……」
懐かしい声。でもお父さんとお母さんの声じゃない。
もっと近くて遠いところで出会った、誰かの声。
「ふあ……」
カーテンの隙間から零れる陽の光で目覚めた土曜日の朝。
やや気だるげな様子でベッドから降りた少女は真っ直ぐに洗面所へ向かうと顔を洗い、髪を梳かしながら未だにぼんやりとする頭で夢のことを思い返していた。
「……なんて言っていたかな」
夢にしては声がはっきりとしていた。でも不思議と言われたことは覚えていない。夢だから仕方ないって言えばそれまでだけど、何だか――。
「何時もとちょっと、違っていた気がする」
寝間着から不思議な夢を思い返しながら紺色のブレザーと揃いのスカートに着替え、ふと目に入ったのは棚の上にあるひとつの写真立て。
“優姫お誕生日おめでとう”と書き込まれた写真には、小さな子どもを囲むようにその両親と祖父母が映っている。そのまま近くに掛けているカレンダーへ目を向ければ、赤丸で囲われている日があった。
「……」
子どもの頃に両親を亡くしてからずっと伯父さんたちにお世話になっていたけど、住んでいた家に戻ってきてもう一年になるんだ……。
「そろそろ進路をどうするか決めないと……」
何をしたいのか、自分に何が出来るのか……答えは出ないままだけど、不思議と焦ったり不安になったりはしていない。
他の人に話すとそんなことあるはずないって言われるけど――昔からずっと、自分が必要とされている場所が何処かで待っているような気がしていたから。
「補講に行く前に本選んでいこうかな」
補講前の暇つぶしに読む本を選ぶために両親が残した書斎へ足を向けると、いくつも並ぶ本棚の前を歩いていく。本好きの両親の影響で優姫もまたよく本を読んでいて、この部屋の本はほとんど読みつくしてしまった。
整然と並ぶ見慣れた本の中、背表紙を辿るように横に動いていた指がぴたりと止まる。
「……あれ?」
この本、前からあった?
「見覚えがないけど……」
革張りの見覚えのない本は百科事典ほどの厚さがあり、箔押しの装飾がされている。美しい装飾で人目を惹くには十分だが優姫はその本に見覚えがない上に、定期的に掃除をしているにも関わらずその本はうっすらと埃を纏っていた。
「題名は……書いていないのかな」
埃を払った本には題名らしい文字は見当たらない。元々書かれていた形跡もなく、掠れてしまったというのも考えにくかった。
見覚えがない上に題名が書かれていない本。気味の悪さよりも好奇心が勝った優姫は、迷うことなくその表紙を指先で捲る。
「装丁からしてファンタジーかな……?」
厚みのある表紙を捲り紺色の中綴じに指先が触れた瞬間、書斎の空気が震えた。
妙な空気に気付いた優姫が顔を上げると突然本から風が吹き上がり、優姫の手から本が離れ宙へと浮き上がる。風は次第に勢いを増して優姫の周囲を囲うように渦を作り、本棚の本を吹き飛ばす。
「な、何……!?」
何が起きているのか分からないまま風に足元を掬われた優姫は、目の前で派手な音を立てながら項を捲りあげている本を見つめることしか出来ない。
だがこの現象に危機感や恐怖を覚えるより早く、妙な感覚が彼女の心を占めていた。
「――私、此処に呼ばれている」
どうしてそう思うのかは分からない。でも、心の奥から強く感じている――そう思うことはおかしくない、当然のことなんだって。
「っ!」
不思議な風は勢いを増し、不思議な感覚と共に優姫の意識は其処で途切れた。
――ね……。
温かい、懐かしい声。でも不思議と聞き覚えはない。
「ねえ……」
この声が聞けるのを、ずっと待っていた気がする。
「ねえったら」
「ん……」
微かに聞こえる声に導かれるように優姫の途切れた意識は戻り、ゆっくりと瞼を開けた。
周囲は薄暗く水面のように揺らいでいて、地面の境がはっきりとしない上に何処まで続いているかも分からない場所だった。
「此処は……何処?」
「おはよう」
「?」
ゆっくりと体を起こして声のかけられた方へ顔を向ければ、其処には一人の少年が優姫の傍にしゃがみこんでいた。十代の半ばほどの少年は、茶髪に括られている長方形の髪飾りを揺らしながら首を傾げた。
「気持ち悪くない? 大丈夫?」
「だ、大丈夫だけど……」
「それなら良かった」
セーラー服によく似た服の裾を払い短い丈のズボンを履く腰を上げた少年は、未だにその場に腰を下ろしている優姫に手を差し出した。
「取り敢えず立てる?」