第二話 3 Dream
3 Dream
悠一だけに任せて良かったのだろうか?
一人で居ると不安が膨らんでいくばかりだった。
夢奈は高校へ続く道のりを自転車で走っていたが、ブレーキを握り、すかさず方向転換した。
「やっぱり、悠一にだけ任せておけない!」
意を決した夢奈は、とある場所を目指して自転車を漕ぎ出した。
街中からどんどん景色は移り変わっていく。見慣れた畑ばかりの風景が少しずつ変化していき、小民家が立ち並ぶ住宅地へと入って行く。昨日目にした光景となんら変わらない。
家が立ち並んでいたかと思いきや、すぐさま廃墟と呼べる建物だらけになる。
やがて、白い靄“もや”のようなものが視界を閉ざしていく。昨日と違い恐怖心は無い。一人の男性の顔が頭に浮かび、その人物のことを考えるととても頼もしく思えた。
マスターなら、なんとかしてくれる。
しかし、ここで昨日とは違う場面に遭遇する。薄らと、誰かが自分の名前を呼ぶのだ。
それは聞きなれた悠一の声でも、マスターの甘い声でもなかった。まだ喫茶店に着くまでは多少距離がある。では、こんな辺鄙な所で一体誰が自分の名前を呼ぶのだろうか?
空耳だろうと、少し緩めたスピードを再び加速させる。
「夢奈!」
今度ははっきりと聞こえた。
声の主は、普段から見知った人物だった。
白いワイシャツが所々煤か何かで汚れて黒くなっている。
頬には鋭い刃物で切り付けられたような跡が小さく残っている。
「翔!無事だったのね」
自転車を降りて、翔に駆け寄る。
翔は夢奈を見ると、ほっと一息ついて安堵の表情を浮かべる。
「なんとか逃げて来れたぜ。だけど、俺以外の奴はどうなったかわからねぇ。とにかくこんな気味の悪い所は去ろう」
「いい場所があるの!きっと助けになる人が近くの喫茶店に居るからそこに行こうよ」
「ダメだ!こっから先にはヤバい化け物がうようよ居る。アイツらに捕まるのはもう御免だ。さっさと逃げるぞ」
翔の声に呼応するかのように、不気味な重低音が辺りに響く。それは何かの獣の声のようで、段々とその音は大きくなっていく。
翔に手を引かれて、夢奈はもう少し先に見えるであろう喫茶店に視線を送りながらその場を去って行った。
境界を越え、いつもの通学路まで戻ってきた。険しい顔をしていた翔もやっと顔を緩める。
「ここまで来ればもう大丈夫だな」
「今まで一体どこに居たの?」
「俺にもわかんねぇよ。変な化け物が出てきたと思ったら、真っ黒な部屋に閉じ込められた。必死に道を探しながら手当たり次第に歩いて居たら、薄気味悪い廃墟が立ち並ぶ場所に来たんだ。そこを彷徨っていたら夢奈とばったり会ったってわけ。本当に死ぬかと思った……」
「他の三人は?」
「さぁ。わからん」
再びため息をつくと、翔は顔を上げぎゅっと目を瞑った。
「化け物に喰われちまったか。それとも、俺みたいにどっか別の場所に逃げていればいいけどな……」
「そんな……」
こうして何も無く無事に帰ってきたことを素直に喜ぶべきなのかもしれないが、他の三人を助けなければならない。
悠一は任せろと言って、恐らくあの喫茶店に一人で向かったはずだ。やっぱり、あそこで翔の手を振りきってでもマスターに会いにいくべきだったのではないか。
夢奈の心の中で、もやもやと後悔の念が膨らんでいく。
「やっぱり私……」
「ダメだ」
何かを察した翔は、一も二もなく返事をした。
「それより、少し安全な場所で休みたい。ここからだったら高校が近い。人が多い場所で落ち着かせてくれ」
頬の傷の手当てもできるだろう。彼は予想もできない事件に出くわしたのだ。休みたくなるのもしょうがない。そわそわした心を落ち着かせることができるのは、“いつもの場所”だ。
逸る気持ちを抑え、夢奈は翔と共に高校へ向かった。
丁度昼休みになった頃。
夢奈と翔は何事もなかったかのように校内に入った。
担任の先生に見つかれば、二人とも大目玉をくらうことは避けられないだろうが、今はその説教すら優雅なクラシックジャズに聞こえることだろう。
行き交う生徒達は談笑していたり、次の授業が面倒だなんだと文句を言いながら過ごしている。
これこそがまさに普通の光景。あんな化け物を見ることが日常茶飯事では身が持たない。
「お前ら、廊下は走るんじゃない!」
勢いよく廊下を駆け抜ける男子生徒が二人居た。その生徒を注意しているのは、夢奈と悠一のクラスの担任だった。
「まずい。このままだと説教されるな」
「いいわよ別に。今はちっとも怖くないから」
教科書や筆箱を両手に持って歩いて居る教師。彼の視線が、じっと二人の生徒を捕えて見つめだす。
「おぉ、淺倉じゃないか」
夢奈を見つけた担任の声は平坦で、怒りという感情が見当たらない。
激怒されると思っていただけに、拍子抜けした夢奈は思わず翔の顔を見た。
「さっきの授業で言い忘れていたんだが、来週の当番はお前だった。悠一と交代したのをすっかり忘れてた。そいじゃ、よろしく」
ぽんと肩を叩くと、先生はそのまま廊下を歩いて行った。
何の話かさっぱりわからない上に、言っている意味が理解できない。
朝のホームルーム直後から学校を出て行った。それも悠一と共に。なのに、何故そのことに一切触れないのか。それだけではない。さっきの授業で言い忘れていたというもの言いは、まるで夢奈が授業に出席していたかのようだった。
「おい、一体どうなってんだ?お前授業抜け出してきたんじゃないのか?」
「居ないに決まってるじゃない。私は希ちゃんの家に行ってたんだし、それからは翔と会うまで学校になんか来てないよ」
先生の話に矛盾がないよう状況を整理すると、“淺倉夢奈”と“妻久詠悠一”はクラスで授業を受けていた。ということになる。
だが、それは有り得ない。
夢奈も悠一も、霧島希の家に行き、神社で起った出来事を聞いていた。
それから悠一はどこかへ向かって行ったし、夢奈も途中までは学校に向かっていたとはいえ、クラスに戻って授業なんか受けているはずもない。裏の世界の境界に入り、翔と会ってから学校に戻ってきた。
「ねぇ。私一人で夢を見ているわけじゃないよね?」
「何言ってんだ。俺だって見たんだぞ。あの恐ろしい化け物を」
夢奈一人が変な夢を見ているというのならば、そのうち目が覚めていつもの日常がスタートするだろう。だが、隣に居る友人も、同じ境遇に在る。
「こうなれば、確認するしかねぇだろ」
「何を?」
「もう一人“夢奈”が居るかもしれねぇってことだよ」
有り得ないことだ。
そう思ったが、考えてみれば“有り得ないこと”なんていうのは自分が知らない知識であったり、見たことがないものに対してよく使うことであって、実は知らぬ間に起きているなんていうのはしばしばあるものだ。
昨日までの出来事がまさにそうで、自分が“有り得ない”なんていう風に思うことが、現実で起りえている可能性は100%無いとは誰も断言できない。
つまり、翔の言うようにここで今何が起きているのか確認する必要がある。
どうしてこんなことになったのか、根本的な理由なんて夢奈にはわからない。わかるはずがない。
ただただ、とある“願い”を叶えるために喫茶店へと向かっただけなのだ。それなのに、この世界の歯車がどこかでかみ合わなくなってしまったかのように、不思議なことや想像もつかないことが起き始めている。
それはもう、自分達が知る前から既に起きていたのかもしれないけれど……。
「悠一と夢奈のクラスに向かってみよう。この時間だったら、お前はいつも悠一と一緒に微笑ましい夫婦の昼食時間を過ごしているだろう」
「誰が夫婦よ。気絶させられたいの?」
「気絶ならしてたぜ。少しの間だけど」
居る筈のない“自分”を探しにクラスへと向かって行く。
周りを通る友人や先生達は、午前中居なかったはずの自分に対して何も言わないし声も掛けない。明らかに不自然だ。
四階の一番端。
1年A組の教室の扉を開き、窓際の一番奥の席、クラスの隅へ視線を向ける。
すると、そこには誰も座って居なかった。
その前の席が夢奈の席だが、そこにも自分らしい姿は見えない。
自分と同じドッペルゲンガーが、勝手に授業を受けていたなんていうのは、やはり可笑しな話だったのだ。
自分と対面することがなく、ほっと胸を撫で下ろした。
「やっぱり私と悠一が別に居るわけなんてないじゃない。……あれ?翔?」
すぐ近くに居たはずなのに、突然姿が消えた。それどころか、辺りを見渡しても、クラスの中を再び覗いても、長い廊下に視線を移しても人っ子一人居なくなった。
先ほどまでは、がやがやと喧騒に塗れていたというのに。
きょろきょろと四方を見渡しているうちに、背後に何かが居る気配を感じた。凍らされたかのように、背筋がぴんと伸びる。
背中に感じる視線。それは、人間が放つ気配とは明らかに違うものだった。
ゆっくり後ろを見ると、顔を引き攣らせた。
“それ”は、話に聞いたことがあった。
つい先ほど聞いた話だ。恐怖で震えながら話をしてくれた。それを思い出し、夢奈も同様に顔を強張らせた。
犬と呼ぶには大きすぎるし、虎と言うにも体表が黒すぎる。絵具の黒をべったりと塗り込んだような色をしており、暗闇に居るとどこに居るかわからなくなってしまいそうだった。だが、瞳は人の血を吸って形成されたかのように紅く、瞳孔が無いためどちらを向いているのか判断が付かない。
「素晴らしい魂を持っているな。淺倉夢奈」
その生き物から発せられる音は、紛れもない人の声と同等のものだった。英語でもスペイン語でもない、間違いなく日本語。
声質から考えて、性別で言うならば男性。成人男性の低い声に似ていた。所々エコー修正が掛けられたように聞こえるのは、この場所の所為では無さそうだ。
自分は教室近くの廊下に立っていたはずなのに、ふと気づいてみれば辺り一面真っ白な世界。
一色も白以外交わっていない世界は、自分がどこに立っているのかすら覚束なくなる。
その世界で異質な色を持つ黒。
宙でふんわりと浮いているようにも見える。
「この時を待っていた。どんなに待っていたのか、お前にはわかるまい」
「一体何なの……」
「私が一体何か?お前の瞳にはどう映っている?」
獰猛な狂犬も、この生物の前ではかわいいチワワと同等になる。
夢奈が対峙する巨体は、熊すら小さいペットに見える程だった。
「この姿は恐ろしいか?こうすれば、お前の愛しい男の姿になれるぞ」
奴は黒い霧状に変化していくと、その中から見慣れたぼさぼさ頭が出てくる。ワイシャツはズボンからだらしなく出しており、気怠そうな顔で夢奈を見つめる。その顔は、どう見ても悠一だった。
「この声と顔だったら、気にならないか?」
「悠一はそんなにかっこよくないわ。もっと残念な顔よ」
「お前の望む姿だと思ったんだけどな。だったら、もっと恐ろしい妖魔の姿にもなってやろうか」
悠一に似た人間がどろどろと溶けて黒い水のように床へ散らばると、その水はどんどん積みあがっていき、再び悍ましい四足歩行の化け物へと形作られ変化する。
「人の視界で入ってきた情報というのは常に変化する。その中で真実を見極めるためにはどうするんだろうな?」
「そんなの知らないわよ!一体、私をどうする気なの!?」
「お前の魂が欲しい。だが、それ一つでは意味を為さない。もう一つ必要なのだ。そのためにも、私と一緒に居てもらうぞ」
「嫌よ!」
「逃げようとしても無駄だ」
一面真っ白で覆われた世界は、深い霧に包まれる廃墟が立ち並ぶ場所へと変わって行った。
霧でどちらへ向かっているのかまったくわからないが、夢奈は無我夢中で走り出した。どれだけ走っても、何も見えてこない。やがて、黒い影が霧から顔を表す。
「どこへ逃げようと言うのだ?逃げでも無駄だぞ。ここは私の空間だ。例えこれが現実だと思えなくても、私は存在していることに違いは無い。頭で理解しにくいことは、こう考えれば簡単だ。全ては“夢”なのだよ。お前にはわかるだろう?淺倉夢奈」
右手で体を掴まれ、血の様に真っ赤な瞳を顔に近づけられる。
「宴は、これから始まるのだ」
「い、いやあああ!!!」