第二話 2 Mortal Enemy
2 Mortal Enemy
たったの一秒ずれただけで、二度と元の世界に帰ることができない。そんな恐ろしい話を聞いて足が竦まない筈がない。
マスターは悠一の手を握ると、ゆっくり深呼吸する。
「ここは現世と冥界を隔てる境界です。つまり、その道を間違えれば果てしない煉獄へと飛ばされてしまうのです。ですが、私がそのタイミングをしっかり見極めるから大丈夫ですよ。では、参りましょう」
見た目は普通の神社の鳥居にしか見えないが、マスターから見れば紫色の結界が張られた魔力の高い場所だと言う。冥界への入口は、意外と身近にあるものだ。
裏の世界に来ているのにまた別の場所へ飛ばされるだなんて、一体どこまで異次元を旅することになるのやら。
「せーので入りますよ」
せーの!と、マスターの掛け声で、一緒に前へジャンプする。鳥居の境界を越えて神社の敷地へと入り込んだ二人。
だが、景色は外から見たままで何も変わっちゃ居ない。
一体どうなったのかさっぱりわからなかった。
せめてワープ音か、もしくは視界でわかりそうな何かが欲しくなる。決してゲーム脳なんかじゃなくて、異次元を移動している実感が欲しいものだ。
「無事に入ることができましたよ。結界の狭間で一生迷うことが無くて良かったですね」
「本当に良かったよ。マスターはこの世界に居て体に支障は無いのか?」
「えぇ、まったく問題無いです」
「それは何よりで」
マスターの肩をぽんと叩くと、悠一は神社の全貌を見渡した。天気が良く晴れ渡った空の下、神社を歩いて居ると小さなこどもの頃にお祭りで楽しんでいたことを思い出す。
夜でも多くの人で賑わい、美味しい食べ物を頬張りながら歩いていた。この神社に居ると、気味悪い雰囲気が境内の至る所からどことなく伝わってくる。目に見えて何かが怖いという感情ではなく、本能が“ここはヤバい”と訴えかけてくるのだ。
こんな所に翔達が居るならば、一刻も早く助け出して逃げたい。
「マスター、翔達はどこらへんに居ると思う?」
「恐らく、話に出ていた御社の中に閉じ込められたままでしょう。まずはあそこを探索します」
指差す先にあるのは、希からも話を聞いた御社だった。
一体どんな恐ろしい化け物が潜んでいるのだろうか。話に聞いた通り、黒い虎のような生き物が、涎を垂らしながら襲い掛かってくるのか。
考えたところで自分に何ができるわけでもないし、やれることといえば友人に「助けに来た」と言うだけ。悠一はゆっくりと歩みを進める。
その歩みが、異様な寒気で止まってしまう。
どうして寒気を感じたのか。それは、“何か恐ろしいもの”を見てしまったからだ。
恐ろしいと感じるのは、明らかにこの世のものではないものだという認識をしているから。
御社に向かう道の途中で、小さな目ん玉がぎょろりと二人を睨みつける。目ん玉の周りに蛸か烏賊のような触手があり、色は紫色だった。これはどう見ても虫や動物の類などではなく、“妖怪”の類じゃないだろうか。
「そんな……有り得ません」
何かに驚愕して立ち尽くすマスターに、目玉のお化けが飛び掛かる。
まったく動いたように見えないのだが、目玉のお化けは不可視の壁にぶち当たったかのように、べちっと地面へと叩き落とされた。
考えるとぞっとする話なのだが、マスターはこの一瞬で、あの目玉のお化けを地面に叩きつけたのではないだろうか。
あまりの早業で、悠一の目にはまったく映らなかった。そう考えると、マスターの超人っぷりはまたもや拍車をかけていくことになる。この人は、一体どこまで恐ろしい所業を行なえるのだろう。
「これはまた、厄介なことになりましたね」
「どういうことだ?俺はさっきから口を開けたままで顎が痛くなってきた。そろそろ常人にわかる話をしてほしいな」
「悠一。ここは“裏の世界”ではなく、表の世界です」
「つまり、俺達が住む世界ってことだよな?なのにどうしてあんなものが」
何を馬鹿なことを言いだすのかと思いきや。
そんなわけがない。現実世界であんな気味の悪い生き物がふよふよ浮いてたまるか。
左頬だけを吊り上げて笑う悠一に、追い打ちをかけるようにマスターが説明を続ける。
「私達の世界に住む魔物達は、表の世界では通常の生活はおろか、行動することすらままなりません。できるのはごくわずかの強大な力を持った一握りの者のみ。ですが、ここの世界はまるで裏の世界であるかのように、魑魅魍魎が蠢いています」
「あの境界を越えたら表の世界に入るって話だったろう?間違って変な異世界に辿り着いたってことはないのか?」
「あの妖怪を見た時、魂の見え方があまりにも不可思議でした。表の世界に居る人間と同じ魂の見え方をしていたのです。そこで気付いたんです。ここが、悠一の世界と同じだと。裏の世界に居る時の魔力より微弱ではありましたが、間違いないでしょう。考えられることは、この神社の中で表と裏の世界の次元を重複させる道具か、強大な力を持つ“妖魔 ヨウマ”が居るのかもしれません。原因を探るためにも、御社の中へ急ぎましょう」
わかるような、わからないような。
マスターの説明を無理やり鵜呑みにして、悠一は彼の後ろを付いて歩いた。
御社の中は外から入る明かりで薄ら見える程度で、全容を見渡すことはできない。まっすぐ歩いて行くと、小さな祠が見えた。赤黒い配色が印象的で、人を襲う悪霊がその中に居るんじゃないかと考えてしまうのは自然であった。扉を開く取手が黒で、その他は全て血の色を連想させる赤一色で染まっている。
その祠を見た途端、マスターは動きを止める。
「この祠、見覚えがあります」
扉が開かれたままの小さな祠。外から入る明かりが、丁度その祠を照らすように御社の中ではっきり見える。
この御社に、人が数人押しこめられそうなスペースは無い。つまり、ここに翔達は居ないということになる。
ヒントはこの祠の中か。
マスターは祠の中をゆっくりと眺めた。見たままであれば、そこには何も無く、一面白い壁が見えるだけだ。
悠一には見えないが、マスターには何か得体の知れないものが見えているのかもしれない。もしくは、異世界に繋がる何かがあって、翔達はそこへと吸い込まれていったんだろうか。
「マスターは初めてここに来たんだろう?」
「えぇ。ですが、この祠はとある時に目にしました」
顔を上に向け、マスターは目を瞑って記憶を辿り始めた。
「遥か昔、現世で大きな戦争がありました。“天魔世界大戦”という大きな戦でしたが、現世の人はそれを知りません。何故ならば、その時に表と裏の世界の次元が分断されたからです。私もその戦争に参加していました。戦争中、私はとある妖魔を退治した事がありました。妖魔とは、古来から居る堕落した神達のことを指す名称で、西洋の悪魔とはまた異なる存在です。私はこの祠にとある妖魔を封印し、二度と目覚め無い様にしました。ですが、誰かがここの封印を解いてしまったようです……」
遥か昔のことだが、つい最近あったかのように感じるのは、マスターが話をしているから。
遥か昔といえば、何千年も前を指すような言葉だ。
その言葉を選ぶには、少し時代錯誤しているようにも思える。
20代の男がそんな前の戦争に参加できるはずはない。
悠一は、祠を指差してマスターに問う。
「普段はその祠を自由に開けられるのか?」
「“鍵”が無ければ開けることができません。ですが、その“鍵”というものは、表の世界の人間が使える代物ではありません。つまり、裏の世界に潜む“何か”が、扉を開けたのです。悠一のご友人方は、誰かが鍵を開けた後に扉を開いてしまった」
「どうすれば翔達を見つけられる?このままだと、どこを探せばいいのかさっぱりわからない」
「本来、裏の世界にしか存在し得ないものが、表の世界にもある。私にもわからない何かが起きているに違いありません。それを探りながら、ご友人方を見つけましょう」
化け物が現世に居るとして、裏の世界に居た奴らがこの神社を起点に動けるようになっているとしたら、考えもしなかった恐ろしいことが起きるに違いない。
悠一の頭の中で、友人を救うどころかもっと恐ろしいことが起きるのではないかという懸念が生まれる。
マスターと悠一は御社の外へ出た。
連れ去られたメンバーを探すには、妖魔を見つけ出す必要がある。
異世界に居るのか現実に居るのかわからないこの不安定な世界で、人間である悠一には何ができるわけもない。
マスターの力に頼って、翔達を探していくしか宛がない。
「情報を辿れば、必ずご友人達を見つけることができるでしょう。この神社の祠、それとその中に封印されていた妖魔が重要なポイントになることは明白です。まずは、その妖魔を探します。さもなければ……」
「どうなるって言うんだ?」
「このままでは、表の世界が無くなってしまいます」
息を飲んだ刹那、一人の男がこちらへ向かってゆっくり歩いてくる。
紫色の髪をしたその男は、烈火と同じ紺色のズボンを履いていた。
「おや?マスターじゃないか。どうしてこんな所に?」
そのセリフは久しぶりに知人と出会った時に吐くものだと思っていた。
物腰も柔らかく、言葉に棘が無い。
初めて烈火と出会った時と大違いであったが、デジャブと思えるシーンが一つあった。
人の首に掴みかかるということである。
「おやおや、ダメですよ黒城“コクジョウ”君。彼は私の大切なお客様ですから」
「コイツを連れて来いって命令されてるんだ。悪いけど、大人しく渡して貰おうか」
悠一に掴みかかったその腕は、マスターの左手がしっかりと直前で止めた。
仰け反った状態のまま二人の会話を聞く悠一は、ようやくある程度頭の中で状況を把握できてきた。
この男は、俺を狙っている。
マスターはこの男の知り合いである。
この男は俺をどこかへ連れて行こうとしている。
その場所は翔達の場所と同じかもしれない。
箇条書きにされた情報を改めて見なくても分かることだが、この男は裏世界に居る住人で間違いない。そして、翔達をどこかへ連れて行った“何か”と繋がっている可能性が高いということだ。
戦闘に参加できない悠一はマスターを見守るしかないのだが、彼らはあまりにも目まぐるしい速さで拳を繰り出しているため、結局の所何が起きているのかわからないことに違いは無かった。
そうなると、ぼんやりこんなことを考える余裕すら出てくる。
裏の世界の人達って、どうしてイケメンばかりなんだ?
マスターを筆頭に、悠一が出会った裏世界の男達は皆顔立ちが良い。
現世で同じ現状が起きているのであれば、自分も同様にイケメンだったはずだと、要らぬ悔しさを噛みしめることとなった。
黒城と呼ばれたその男子は、あのマスターと同様の速さを持ち合わせている。それだけでも十分人離れしている。
もしくは、もののけか何かの類かもしれない。
「やれやれ。昼間じゃマスターの速さに適わないな」
「“狼男”と徒競走をしたことがありますが、私は夜でも勝てましたよ?」
「それじゃ、こういうのはどうだい?」
黒城は地面を蹴りあげて砂埃を起こした。更に素早い動きによって粉塵を巻き起こし、辺りの視界を閉ざしていった。
離れた所から見ている悠一も何がどうなっているのか把握できない。
「目が見えなきゃ、マスターの速さなんて意味無いだろ?俺はこんな状態でも、敵を捕らえることができるんだよ」
背後から突然現れたかと思いきや、手の爪を鋭く尖らせて背中を切り裂く。
一度攻撃をするとすかさず粉塵の中に身を隠し、再び予測し得ないタイミングで攻撃を仕掛けてくる。その方向は一定ではなく、頭上からも、背後からも、正面からも襲い掛かってくる。
マスターは頬、背中、右腕に傷を負わされながらも、静かに何かを待っていた。
細くて開いているのかわからない目を、静かに閉じながら。
「そろそろ終わりにしよう、マスター!」
一振りの攻撃。
人の体を切り裂いた感覚というのは独特だ。
柔らかなものや堅い物とはまた違う。
その感覚を黒城は何度も味わってきた。一度たりともその感覚を忘れたことはない。
身動き一つしないマスターは、常に粉塵の中心で立っていた。
的確に首を狙い、次の瞬間には地面に生首が転がっているはずだった。
それなのに、何も手応えがないのだ。
爪ではなく、手に感触がある。
それは、温かな人のぬくもりだった。
ぎゅっと握っているそれは、誰かの手。
黒城が目にも留まらぬ速さで動いていたことによって形成されていた砂の粉塵は、彼の手が誰かに捕まれると共に消え去っていく。
地面に砂がさらさらと落ちていく中、黒城は目を丸くした。
自分の手を掴んでいるのはマスターの手では無かったのだ。
鋭く伸びた爪がマスターの首筋近くで止まっており、彼の表情を伺うと、何事も無かったかのように微笑んでいた。
ぱたりと思考ができなくなった黒城は、ただただ自分の手を掴んだ何かの正体を知るべく、自らの右手を掴んでいるものの腕を辿って行った。
そして、その顔を確認した瞬間、自分の視界が一瞬真っ暗になる。
強烈な打撃音。その音の後に感じるのは鈍い痛み。
顔面の温度が瞬時に上がったようだった。体が何度か地面に叩きつけられながら転がっていき、鼻から血が出ていることも鏡を見ずともわかった。
ようやくして慣性の法則の力が弱まると、転がっていた体は地面にぐったりともたれかかった。
そして聞こえてきた。自分をこんなにずたぼろにした張本人の声が。
「湿った雑巾を被った犬っぽい匂いがすると思って来てみれば、テメェだったのか。なぁ、黒城さんよぉ。ぶっ殺す」
その男は自分と同じ紺色のズボンを履いていた。
誰よりも殺したい対象。
お互いある意味で相思相愛だ。
この世で最も死に際を見たい相手。
「妹とイチャイチャしていたらどうだ?シスコン鬼野郎」
「うるせーんだよ。このロリコン狼野郎」
罵詈雑言の嵐。
言い合っている二人を見て、悠一は心のことでこんなことを思った。
翔や夢奈との言い争いなんていうものは、まだまだ優しい世界だったのだと。