第二話 1 60 frames
第二話
1 60 Frames
「お帰りなさいませ、ご主人様!」
「おやおや。今日は夢奈を連れてきていないんですか?」
「アイツと俺はいつもセットじゃないよ」
「てっきり二人は恋仲にあるものだとばかり思っていましたが。まだそういう仲じゃないんですねぇ」
「まだじゃなくて“一生”無いよ」
「そうですか」
優しい笑みを浮かべ、軽く返事をする。その心中は誰から見ても明白である。
どういう訳か、またあっさりとこの喫茶店に足を踏み入れることができた。化け物と遭遇しなかったのは運が良かったのか、やはり昨日見た悪霊というのはただの幻だったのか。
どうやらマスターの言った通り、魂の中にフリーパスチケットが埋め込まれているらしい。
通常はこの“裏の世界”に訪れることができるのはほんの一握りの人間しか居ないという。それが本当ならば、悠一と夢奈はほんの一握りに数えられる希少な存在だ。それを当人達が喜ぶかどうかは別として。
悠一がこの喫茶店に訪れたのは、マスターと他愛もない会話をするためでも、綾に「お帰りなさいませ、ご主人様」と言われてにやにやするために来たのではない。
いや、綾に「お帰りなさいませ、ご主人様」と言われたいという願望に偽りは無い。
そんな悠長に構えている時間は、決してなかった。
「実は、マスターに一つ頼みごとがあって来た。聞いてくれないか?」
「えぇ、聞きますとも。このNという店は、お客様の悩みを聞くためにあるのですから」
マスターの笑みを見てほっとした悠一は、事の発端から説明を始めた。
「友人がクラスメイトを数人引き連れて、とある心霊スポットに向かったんだ。そこで、見たことも無い化け物と遭遇してしまったらしい。その化け物とやらが一人を除く他の四人をどこかへ連れ去って行ったって言うんだ。その残った一人の家に行って話を聞いた」
マスターはこくこくと頷きながら、悠一の話に耳を傾けている。
「彼女から話を聞くと、その直後に変な化け物が襲ってきた。母親だと思っていた人物が俺達を捕まえようとしたんだ。“魂を寄越せ”って。部屋の中に取り残された最後の一人も、恐らく他の四人同様どこかに連れ去られた。彼女を助けることができなかった。俺は、連れ去られたメンバーを取り返したいんだ。マスター、お願いだ。力を貸してくれないか?」
「えぇ、ご助力させていただきますよ」
頬に手を当て、マスターは小さく唸った。
まず最初に「そんなもの居るわけないでしょう」という否定から入らないあたり、マスターは“そういう事”に精通している人物だと伺える。悠一からしてみれば、この状況下で一番頼りになるのはマスターしか居ない。
だが、マスター程凄まじい力を持った者でも、幽霊沙汰は解決できないのだろうか。
昨日の化け物退治を見せられた悠一としては、どんな怪事であってもマスターに任せれば全て解決してくれる。悠一にとってはそんな風に思えた。
「しかしながら、これは困りましたね。手遅れにならなければいいのですが」
「何か、考えがあるのか?」
「断言はできませんが、その神社に行ってみないと助けられるかどうかはわかりません。悠一と同様に、裏の世界に来てしまっている可能性もあります」
「裏の世界に?」
「はい。もしそこに巣食う悪霊が皆の魂を狙っていたのだとしたら、一人も残さず襲うつもりだったでしょう。ですが、一人だけ残していたということは、何らかの意図がある筈です。それを突きとめなければなりません。その鍵は、悠一がお話してくれたご友人の証言です」
マスターの物言いは、ある程度の推測が経っているようだった。悠一はのめり込むように姿勢を前に出して話を続ける。
「表の世界なのに、化け物が襲ってくるなんてことは有り得るのか?あれは間違いなく、希ちゃんの母親じゃなかった。いきなり俺と夢奈に襲い掛かって来たんだぞ」
「それは、間違いなくご友人の自宅なのですね?」
「あぁ、間違いない」
深刻そうな表情を浮かべると、マスターは洗っていた白いティーカップを食器棚へと戻し、出かける準備を始める。
準備を始める、と言っても彼の格好はいつもと変わらない。鞄を持つこともなく、傍から見ればただの手ぶらである。
「急いでお話にあった神社に向かいましょう。綾、お留守番をお願いしますね」
「はい、かしこまりました」
綾が笑顔で返事をする。その後に、何かを思い出したかのように話を続けた」
「マスター、今日はお兄ちゃんが来るのですが、喫茶店内は自由に使わせていただいてよろしいでしょうか?」
「おっと、そうでしたね。今日は“彼”が遊びに来るんでした。喫茶店の中は自由に使って頂いて構いませんよ」
「ありがとうございます!」
麗しい笑みでマスターへお礼を言った側から、鈴の音が店内で鳴る。
そこに立っていたのは、悠一と似たような恰好をしている学生服の男だった。
一つ違う点と言えば、ズボンが紺色だということだ。
その男子は悠一の顔を見るや否や、突然首を掴んでボックス席のテーブルへと体を押し倒す。彼の顔は、血管が切れそうなくらい顔が真っ赤になっている。あまりの力強さに悠一は手足をじたばたしているが、抜け出すことができない。
「テメェ……俺の妹に手を出そうとしてるだろ」
「ちょ、ちょっと待てよ……そんなつもりはないって……ぐるじぃ……」
「待ってお兄ちゃん!その人はお客様だから手荒なことはしちゃダメっ!」
男の手を取り、めっ!と叱りつける。
途端に男の顔は穏やかになり、赤かった顔も普通の白色へと戻る。
「すまねぇ。つい勘違いした」
「いてて……。どんな勘違いだよまったく……。それに、お兄さんて」
首を擦りながら男の顔を改めて見るが、綾と彼の顔は似ているように見えない。
落ち着きを取り戻した男は、軽くお辞儀をして紹介を始める。
「先ほどはすまなかった。俺は綾の義理の兄。名前は桜木烈火。お前は?」
「俺は悠一。妻久詠悠一だ」
握手を求められたので渋々手を握った。いきなり掴みかかってきた男と何事もなかったように過ごすとは。人生とはいついかなる時も何が起こるか予想できないものだ。
こうして普通にしていれば、なんてことはない普通の学生に見える。人は見かけによらない。この喫茶店にぶらりと来られるのだから、何か恐ろしい力を備えているに違いない。
義理の兄ということを鑑みても、綾と烈火の間には複雑な関係がありそうだ。
「それで、烈火は何をしに来たんだ?」
「学校が今日から休みなんだ。久しぶりに綾と顔を合わそうと思って」
「え、今日から休み?まだ夏休みには早いんじゃないか?」
「何言ってんだ。妖怪の学校はどこもこの時期から休みだぞ」
常識が通じない世界で、変哲もない事を言っても通じるわけがなかった。
夏休みまでは後一ヶ月もあるというのに、裏の世界じゃ学生は皆夏休み。悠一としては羨ましい限りだ。
「それじゃあ綾。私と悠一は神社に出向いてみます。烈火、店のメニューは好きに飲んでいいですよ」
「ミルクティーしか置いてないのに、好きなものを選べって?」
烈火の言葉に苦笑するマスター。
綾と烈火の二人に店を任せ、マスターと悠一は店を出た。
「綾さん一人で店を任せていいのか?烈火は居るけど、勘違いしただけで客を殺しかねないぞ」
「こういう“特別なこと”をしに出掛けるのはそう珍しくありません。それに、烈火も綾も見た目以上に強いですから。店のことは何も心配要りませんよ」
華奢な体をしているのはマスターも同様だが、綾も烈火も見た目は筋肉質ではないし、どちらかと言えば悠一のように家に籠っているタイプに見える。
人は見かけによらないというのは、どこの世界も同じらしい。
神社までの道のりは少し時間が掛かる。学校から近くだが、喫茶店からとなると歩いて行くには骨が折れそうだ。化け物に襲われたら文字通り折れるかもしれないが。
どうやらマスターは車を持って居ないらしく、神社へは徒歩で向かわざるを得ない。
「神社に行くまで、何が出るかわからない恐ろしい化け物道を歩かないといけないのか。お化け屋敷が怖くなくなる」
「大丈夫ですよ。私が居ますし、神社までは近道を使いますから」
マスター曰く、近道とやらを辿って行けばすぐに着くらしいが、この視界を覆う霧が晴れることはなく、いつ化け物が襲い掛かってきてもおかしくはない状況だった。何もできない一般人は常に緊張感を持たされる場所だ。
何事も無く数分歩くと、視界を覆う霧が薄らと晴れだした。
霧が完全に無くなって最初に見えたのは、大きな鳥居。所々茶色く薄汚れており、心霊スポットと言われれば何かが出そうなオーラは漂っている。
近道らしい近道を通ったつもりはないのだが、あっさりと神社に着いた。
裏の世界の地理と、表の世界の地理はどうやら必ずしも一致するわけではなさそうだ。
「ここが、お話に聞いた神社と同じ地点です。ここから表の世界に行かなければなりません。どうやら、鳥居がその境界になっているみたいですので、早速移動しましょう」
「普通に跨げばいいのか?」
早々に渡ってしまおうとすると、マスターに腕を取られて静止した。
「私と一緒に行かなければダメですよ?」
裏の世界に行くとき、悠一や夢奈は特に意識せずとも入ることができる。なのに、どうしてこの鳥居を跨ぐことは許されないのか?
空は晴れており、雨が降る気配はまるでない。こうもいい天気だと、妖怪が出てくるなんて思えないし、別に危険は無さそうだ。
マスターは、何もわからない悠一に注意を促す。
「いいですか。入れるタイミングはたったの一秒だけです。このタイミングを逃すと大変なことになります」
普段にこにこしているだけあって、説明する時眉間に皺を寄せていると緊迫感がある。
「どれくらい大変な事になるんだ?」
「元の世界に帰れなくなります」
確かに、そりゃ大変だ。