第一話 1 At First
1 At First
「私、好きな人出来たかも!」
季節は夏。そして金曜日の放課後。陽気な一幕の始まりだ。
徐々に高まる期待、興奮。
どんな心持ちかと聞かれれば、それは宙に浮いて世界一周できそうな気分と言うだろう。
いや、もしかしたら心だけは世界を二周くらいしているかもしれない。この気分は何者にも代えがたい。何故なら、明日から休みだから。
土曜日を越えれば日曜日。つまり、夜更かししてゲームをしようが、ベッドから起こしたくない体を無理やり起こす必要もなくなる。朝早く起こされて気分を害することもないのだ。この一連の流れを頭上で構築し、それらを実行に移すことを楽しみにする。
あぁ、素晴らしき哉、金曜日の放課後。
高校1年生というのは、人生の中で一体どれくらい楽しいとされる位置づけになるのだろうか。
まだ16年しか生きていない高校生にとって、人生最高の瞬間ベスト3を決めるにはまだ早い。だが彼は、常々こう思っている。
楽しみながら生きなきゃ、人生は損だ。
余計なことをくよくよ考えてもしょうがない。だったら必要なことは、嬉しいことや楽しいことを考えて生きていくこと。
はて、それでは彼にとって楽しみや嬉しいとされるイベントは一体何なのだろうか?
「私、好きな人出来たかも!」
「二回も言わなくていい」
一生抜け出すことのできない迷路に潜り込んだ時と同じ気持ちになった。
何故ならば、この幼馴染の心中がまったく理解し難いからだ。
机の中にある授業道具を一式鞄に詰めた所で、1人のクラスメイトから声を掛けられた。長い黒髪を可愛らしい赤いリボンで結んでいる。普段は長髪をさらさらと靡かせながら歩いているこの幼馴染。
今の彼女は所謂ポニーテールという髪型をしているが、普段から髪を結んだりすることは決して無い。
だが、幼稚園の頃から彼女と共に過ごしてきたためか、遠目でポニーテールの女子が3人後ろ姿で並んでいたとしても「あぁ、アイツだ」とわかるだろう。雰囲気というのは年を追っても変わらないものだ。幼馴染という関係は意外と深い繋がりであると感じる一面である。
それにしても、一体どういう風の吹き回しだろうか?
女性がこういうおめかしをする時は大抵何かがあるものだ。男子学生が多少色気づいたところで、大人へ背伸びしたくなっただけか、『俺かっこいい』と自画自賛したいだけなのだ。
女性に関する知識が疎い彼は、あれこれ考えを巡らせた。最近あったことや、これからありそうなこと。
そうこうしているうちに飛び込んできた台詞が、「私、好きな人できたかも!」だった。
男も泣き出すというMan May Cryな女子が、どうしていきなり好きな人を作ることができたのか。それもできた“かも”ということはまだ可能性でしかないわけで、確定事項ではないということだ。
長年一緒に居た身として、幼馴染は女子としての魅力が無いか?と問われればそれはノーと答えるだろう。顔はかわいいと思える部類だし(余計なことを言わなければ)、活発的で行動力もある(人を殴る行為が無ければ尚良し)。
いつもと違う髪型にするということは何かそれなりの意味があるのだろうし、突然の台詞の意図も汲み取ることができるようになるだろう。
推測が事実を求め、求める事実を得るために行動に移る。
“彼”こと、妻久詠悠一の目は、自然と彼女の髪ばかりを追っていた。
「何よ、変な目でじろじろ見ないでくれる?気色悪いんだけど」
「被害妄想だ。俺は何も見ちゃ居ない」
「見てたでしょ!」
「見てねぇって!」
見た、見てない、見た、見てない。
不毛な会話が永遠に続くかと思われたその時、大袈裟なため息が会話の連鎖を断ち切ってくれた。
「ここは高校の教室だぞ。お前らの夫婦漫才を披露する演芸ホールじゃない」
「誰が夫婦よ!」
見た目は多少関わりにくいかと思ってしまう印象を与えるが、話してみると非常に気さくで楽しい奴。
それが、この草薙翔という男子の良い所だ。
幼馴染と言い合っていた所で、横槍を入れるように言葉を掛けてきた翔。この構図はいつものことで、珍しいことではない。
「何じろじろ見てるんだよ悠一。気色悪い」
「お前のことなんか見てないって。おい、夢奈と同じ輪廻に突入する気はないからな?」
親友からのツッコミと幼馴染である女子との会話。
悠一にとっては、この構図が一番楽しい環境だ。例えそれが月曜日で起ろうとも、土曜日に起ころうとも変わらない。
「なぁ悠一。今日の夜に肝試しに行こうぜ!最近高校生の間で話題の心霊スポットがあってな。ちょっと覗いてみたいんだ」
「またいつもの知り合いから仕入れた話か。嫌だね。俺はそういう所に興味本位で行って憑りつかれたくない。触らぬ幽霊に祟り無しだ。翔一人で行ってこい」
「何言ってんだよ。一人で行ったところで何も面白くないだろう?ほらほら、夢奈も一緒に連れて行けばかっこいいところ見せられるぜ?もしくは、普段は見られない夢奈の可愛らしい乙女な部分が見えて益々惚れちゃうかもな」
「普段も何も、こいつの乙女な部分なんてないぞ。どっちかっていうと男勝りな部分の方が……」
閑話休題。
これ以上話をすると淺倉夢奈という名の幼馴染兼悪鬼に首を絞められてしまうので、悠一は何事も無かったかのように別の話題を翔に振る。
「とにかく、心霊スポット巡りなんか止めて家でゲームしようぜ。新作の格ゲーが出たし、対戦したくてしょうがないんだ。アツいバトルを繰り広げた方が、よっぽど健康的だと思わないか?」
「家でぬくぬくゲームをやってるのが健康的とは言わないだろうが!足腰を少しは動かした方がいいに決まってるだろ」
「幽霊から追っかけられながら顔面蒼白ランニングなんて勘弁だ」
「あ~もうつれない奴だな。いいよいいよ、別の奴誘って行ってくるから」
じゃあな、と頬を膨らませながら軽く手を振って教室から去って行った。
ごく一部の友人としか遊ばない悠一とは対照的に、翔は大勢の人と話をしたり遊んだりする。社交性で言えば翔の方が断然上だ。そんな彼のことを時折羨ましいと思うこともあれば、そんなに誰彼と一緒に居ても疲れるだけだろうと思うこともある。
活発なだけに、変な噂に興味を持って行動してしまうのは翔の悪い癖だ。知り合いが多いだけに、耳にする情報も格段に多い。
心霊スポットなんて遊びで行くところじゃない。近寄っちゃいけない禁断の場所だ。
やれやれとため息をついて、悠一は今度こそ華の金曜日を楽しもうと席を立つ。
その出鼻は、呆気なく挫かれた。
「私は途中寄る所があるから、ちょっと付き合って貰える?」
「は?何で?」
翔の付き合いを断ると、今度は別の所から誘いが来た。言葉の圧を考慮すると、それは命令に近いものだったが。
「何で?じゃないわよ。どうせ暇でしょう?」
「暇じゃない。大忙しだ。例の好きになった人とでも行けばいいだろう」
「そう言われても……」
少しばかり頬を染め、下を俯いた。
こういう反応をする彼女を見るのは、悠一としてはとても新鮮だった。新鮮な上に、心の中がくしゃくしゃに丸めた紙みたいになっている。
はて、これはどういうことか?
夢奈は首をぶんぶん振り、少し逸れた話題を振り出しへ。
「アンタのゲーム攻略が忙しいってのいうは無し!いいから一緒に行こうよ」
「世界を救わないといけないんだぞ?大忙しに決まってるだろ」
「だからそれはゲームの話でしょ!」
数人の掃除当番からの視線がやけに痛く突き刺さる。これ以上は流石に夫婦漫才(翔の言葉を借りただけで、悠一と夢奈はそういう関係では勿論無いし、恋仲になったことはこれまで一度も無い)をしていると本気で怒鳴られそうなので、教室を出ることにした。
高校の玄関を出てほんの少し離れた所にある自転車置き場。
自分の自転車に跨りそのまま家へ全力で走りたい所だったが、夢奈の用事に付き合わないと何か嫌なことが毎日のように起きそうなので、悠一は渋々ながら彼女と同じ道を漕いで行った。
金曜日の放課後。
甘美な響きが高校生の鬱憤を晴らすのだが、どうにもそれを邪魔する存在が纏わり付いて離れない。
ゲームをしてのらりくらりとだらだらと。
それが、悠一にとっての幸福であり、金曜日の放課後何者にも代えがたい時間として使用したい聖域“サンクチュアリ”だった。残念ながら、その聖域は地獄から舞い降りた魔王の金棒一振りで崩壊してしまうのだが……。
心の中で憂いている悠一の心境を、夢奈は知らない。そしてまた、夢奈の心境を、悠一も知らない。
悠一の自宅付近の細い道では、話ながらの並走が厳しい。高校周辺は大きな道路が多く、車の交通量もそれ程無いので、気軽に会話を盛り上げながら自転車で走れてしまう。
今日も今日とて、二人は夕日を背景にして、横並びに自転車を走らせていた。
「それで、どこに行きたいんだ?まさか、翔が言っていた心霊スポットに行きたいとか言うんじゃないだろうな?俺は絶対に行かないぞ」
「私だって行きたくないわよそんな所。喫茶店に行きたいの」
「喫茶店?美味しいコーヒーが飲める店の情報でも仕入れたのか?」
「それがね、翔が風の噂で聞いたっていうんだけど、そこにはとても美味しいミルクティーがあるらしくて。でも、廃墟近くにあるらしいから一人で入るにはちょっと勇気が必要だし、暇そうで手頃な奴捕まえて一緒に行こうかなって」
女子ならもう少し言葉を選べ。
と、説教にも似た憤りを心の中で吐くが、その言葉は夢奈の耳に届くことは決してない。例え届いたとしても、素直に受け入れられることは無いと分かっている。分かりきっていることだった。
「喫茶店だろ?別に一人で入るのにわざわざ勇気を必要としないだろう。お前一人で行けばいいじゃないか」
「それがね、その喫茶店に纏わる面白い話を聞いたの。それを確かめようと思ってね」
「例えば?」
「そこの喫茶店にはミルクティーしか置いていないとか、店長が尋常じゃない強さだとか。何の強さかはわからないけれど、“その手のもの”が見えるんだってさ」
結局心霊系じゃねぇか!というツッコミを入れたい気持ちよりも、別の問いかけの方が先に口から出てくる。それは零れるように、というよりは、危機が迫る自分の身を案じるかのような言葉だった。
「どうしてそんな怪しい店に興味が湧いたんだ?ミルクティー愛好家じゃあるまいし」
「その店員さんに恋愛相談をすると、絶対に成就するらしいの。本当か確かめてみたいと思わない?」
「へ、へぇ」
悠一と夢奈は決して恋心をお互い持ったり持たなかったりという関係だったことは一度もない。
これは先ほどもお伝えした通りなのだが、夢奈の言葉は悠一を動揺させるには十分だった。
幼稚園から幼馴染として高校まで一緒に居た身としては戸惑いを隠せなくなってしまうのも無理はない。
小さい頃から男っ気が強く、喧嘩をしても男子に負けることはないことから、“恋愛”という感情が夢奈の中で湧き上がることがまったくと言っていい程無かった。
にも関わらず、恋愛相談をすれば恋が実る等という噂を信じる彼女を進歩したと喜んでやるべきか、親心にも似たジェラシーから素っ気なく反応するべきか、幼馴染としては難しい選択肢をチョイスしなければならない。
ミルクティーしか置いていないなんていう怪しげな喫茶店に行くからには、夢奈なりの考えあっての行動だと悠一は推察する。
あまりにも男絡みの話が無さすぎるから、恋愛をしなければマズいと思ったから噂を鵜呑みにした。
そう考えると、悠一の中では合点がいく。単純な発想だが、それがまた夢奈らしい思考だ。
だが、そんなどこの馬の骨ともわからぬ奴のために喫茶店へ行って、彼女の恋愛は本当に成就するのだろうか?
そもそも、好きな人ができたかもということは、まだ告白をしていないということだ。だからこそ噂話を信じたというのも理由の一つだろうか。
いきなり「好きになりました!」って言うのも唐突すぎる上に、告白を受けた相手も口がぽかんと空いたまま塞がらなくなるだろう。相手が誰なのかわからない以上、考えても仕方がないことではある。
ここはやんわりと考えを正すように口を添えてやるのが十年程一緒に居た友として、幼馴染としての務めだろうと、小さく咳払いをして話を始める。
「でも考えてみろよ。そんな人の気配が無さそうな場所に恋愛相談の達人が居るなんて考えられるか?翔が言うイケメンなんてものは1000年前の幽霊かもしれないんだぞ」
「大丈夫!そんなに怖がることないって」
怖いからとか面倒だから、という心境ではない。
それとなく夢奈をその喫茶店の話題から遠ざけたいという気持ちは、悠一個人として強かった。
例えその喫茶店の店員が幽霊じゃなかったとしても、裏社会に通じる何かの匂いを感じる。危ない薬を密売しているとか、人身をどこかへ手を振って売買しちゃうとか。
このまま喫茶店を目指しながら畑しか見えない田舎風景の中を、じとっと汗を掻きながら自転車を漕いで行くのは危険である。考えなくても明白であった。
だが、何かに突き動かされるように行きたいと言い張る夢奈。こうなると絶対に自分の意思を曲げないのも悠一は知っている。
先行きは不安だが、物事の決定権を現段階で持ち合わせていない悠一は、自らの意図や行いたい行動とは裏腹に、どんよりとして尚且つじめっとした空気を切り裂きながらペダルを必死に漕いで行くのが関の山だった。
十数分自転車を漕いでいるだけで、ワイシャツが肌にぺとっとくっつくのを感じる。そんなに大した距離ではないが、いい運動をした気になる距離でもあった。
夢奈を先頭にして、後を追う様に悠一は着いていく。畑ばかりの風景が少しずつ変化していき、小民家が立ち並ぶ住宅地へと入って行った。こんなところに喫茶店があるのだろうかと、誰しもが思うであろう疑問を悠一は抱いた。
しかし、家が立ち並んでいたかと思いきやすぐさま廃墟と呼べる建物だらけに風景が変化していった。明らかに人が住んでいるとは言い難い状況。窓は割れ、下手をすれば玄関の扉も薙ぎ倒されている。こんな所に人が居るなんて有り得ない。居たとしてもそれは“人だったもの”だろう。
これは確実に“そっち系”じゃないだろうか。
教室で翔から聞いた心霊スポットの話が脳裏に浮かびつつも、「引き返そう」とは言えずにそのままペダルを漕いで行く。
やがて、白い靄“もや”のようなものが視界を閉ざしていく。このまま別世界へ飛ばされてしまうんじゃないかという懸念すら出てきた。
心のパラメータが100%家に帰りたいと点滅した頃に、夢奈は自転車にブレーキを掛けた。
「あったよ。あそこ」
確かにその建物は、喫茶店と言われれば喫茶店のような雰囲気を醸し出している。どこらへんがと聞かれても、直感から出てくる「雰囲気がそれっぽい」としか言えないのも事実であった。
外には小さなブラックボードが置いてあり、店のメニューを紹介している。筆記体でミルクティーと書かれており、店の入り口にもオープンと書かれた表札が掛けてある。扉の上には店の名前『N』とアルファベットで表記された木製の看板が掲げてある。
ここまで用意されていると、なるほどこれはただの廃墟には見えない。小綺麗でおしゃれな花瓶に色とりどりの花も活けている。レンガ造りということもあって西洋風。それだけで西洋というのもその地域の人達からすれば「そんなことねぇよ!西洋ってのはもっとこういうもんだ!」と文句の一つでも飛ばされそうだが、細かい事は割愛だ。
楽しそうに店ばかり注視していると、当然のことを見落としてしまう。
この辺りの立地を考えると、やはり喫茶店があるというのはまったくもっておかしな話だ。人里離れた場所で尚且つ廃墟が立ち並ぶ場所に、わざわざ喫茶店を経営する酔狂な人がこの世に存在するとは思えない。
朝まで討論している人達並みに頭の中であれよこれよと議論を交わしても自分が正しいという結論だけが続々と湧いてくる。
異世界と現実の境界線を越えてしまったのであれば、奇妙な怪物が出てきても不思議ではない。
「ねぇ悠一。あれって……」
夢奈が指差す先に、何か黒く蠢く何かが“ある”。
悠一と夢奈は自転車から降り、じっくりその影を見つめた。目を細めても蠢く影の全容がわからないので、それが“何か”を確認できない。影は段々大きくなると、霧を引き裂く様にして銀色の尖った物体が3本姿を表わす。これは、何かの爪に見える。その爪は恐ろしい程に大きく、夕暮れの太陽に反射して鈍く淡い光を二人の高校生に見せた。
爪から手に掛けて徐々に見えてくる体。
それは、明らかに人では無い“何か”だった。
これは、絶対にヤバい……!
体が凍りついたようだった。
夢奈も悠一も、恐ろしさのあまり身動きが取れなくなってしまっていた。
足音がどんどん大きくなる。それはまるでゾウが辺りを踏み荒らしながら歩いてくる時の音に似ていた。
巨大な瞳が霧の中で妖しく緑色に光ると、耳を塞ぎたくなる野太い咆哮が辺りに鳴り響く。
その次に聞こえてきたのは、叩けば割れてしまうような、繊細な声だった。
「大丈夫ですよ。私が止めますから」
それは夢奈の声でも、悠一の声でもなかった。
優しく耳元で囁かれるような甘いトーン。
夢奈と悠一は顔を見合って、一体誰が喋ったんだろう?という疑問を視線でぶつけあった。
いつの間にか、一人の男性が悠一と夢奈の前に立って掃除用の藁箒を構えていた。それはまるで剣士が刀を抜く時に似ている。
「これはこれは。久々の悪霊退治に腕が鳴りますねぇ」
恐怖で足が竦み、目を丸くしている二人に比べ、この男は楽しそうに喋っている。
大体、なんでこんな所にホストみたいなイケメンが居るのか。それも黒いエプロンを着て箒を持っていることを考えると、この近くにある喫茶店で働いている人にしか思えない。
こんな所に喫茶店なんて……。
自分の頭の中で生まれた言葉は、一つの建物へ視線を向ける標識となった。
その建物の入り口上部に書かれている“N”という文字。
もう一度低く唸るような獣の咆哮が辺りを劈くと、霧が吹き飛ばされていくかのように晴れ、化け物の全体像が見えた。
全身黒い鱗にトナカイよりもトゲトゲしい角。全長は5mを超える巨大な体。四足歩行で、ゆったりと歩いているが、箒を持つ男を睨むとチワワよりもネコよりもライオンよりもチーターよりも早い俊足で男へ走り、強靭な爪で切り裂こうとする。
次の瞬間には、箒を持った男の体が血まみれになることを想像してしまい、思わず目を背ける。数秒経っても辺りに血が飛び散る音も、人の骨が砕ける音も聞こえない。
その代わりに聞こえてきたのは、楽しそうに現状をレポートする男の声だった。
「う~ん良い眺めですねぇ。毎日これくらい晴れてくれたら、お客様ももっと来てくれるかもしれませんね」
店の未来を案ずるよりも、自分の身を案じろ!
というより、彼はどうやって“化け物の頭の上”によじ登ったのだろうか。
「さて、おやすみの時間です」
手に持つ箒を勢いよく頭に突きたてると、天井の明かりを付けた時に似た青白い光が箒から発せられ、その光に化け物は悶えだした。目を覆う程の光ではないが、箒の先端がどうなっているのか伺い知ることはできない。頭の上に乗っている男を振り落とそうとするも、男は余裕の笑みを浮かべながら、「今日の夕飯は何にしましょうか」等と悠長に独り言を喋っている。
どう考えてもそんなこと言ってる場合じゃないだろ!
50口径のマシンガンに幾つものツッコミを装填して乱射したい所だが、呆気にとられて口から出て行くのは吐息くらいだった。
光に呑まれるかのように、化け物の体はみるみる小さくなっていき、最終的にはハムスターサイズにまでコンパクトになった。
男は一、二回宙で優雅に舞いながら地面に着地し、小さくなった生き物を掌に乗せ、優しく頭を撫でてやった。
「やっぱりこのサイズが一番ですよ。さぁ、家族の元へ帰りなさい」
掌からゆっくり地面に逃がしてやると、小さくなった化け物はたかたかと走ってどこかへ消えて行った。
「お二人さん。大丈夫ですか?」
「あ、えっと、はい」
唐突に声を掛けられ、思わずしどろもどろな反応になった。
夢奈は今も呆気に取られたまま、案山子のように突っ立っているだけだった。
「あれは悪霊に憑りつかれた鼠でして、悪霊を引き剥がしてしまえばかわいい鼠ですから。もう大丈夫ですよ」
「悪霊っていうか……貴方は一体」
「私は『N』の店長です。マスターとお呼び下さい」
マスターと自称する男の顔はモデルかトップアイドルの様に顔が整っていた。近くで見ると、こんなにもかっこいいのか。
ひょっとして、夢奈から話を聞いた、恋愛相談すれば恋が実るという喫茶店の店員の人って……。
自己紹介をするマスターを見て、夢奈の頬が少し赤く染まったのを、悠一は見逃さなかった。




