奏者日誌 後篇
後篇です。
◆弘治二年二月
筑前守様にダレが見え隠れしてきた。
ここらでひとつ、喝を入れるべきか。
翌朝筑前守様が少しやつれていたが、私は何も知らない。
◆弘治四年二月
改元の勅。
永禄元年となる。
◆永禄元年十一月
将軍様と筑前守様が和睦。
筑前守様は「これで面倒が減る」と喜んでおられた。
額面通りに受け取って良いものか、少し悩む。
◆永禄二年吉日
筑前守様の御嫡男・孫次郎様が将軍様より一字「義」を賜り義長様となられた。
世間では三好の天下だ絶頂だと噂されているようだ。
御嫡男・孫次郎義長様には当家より従弟をつけておこう。
筑前守様に似なければ良いのだが……。
◆永禄三年一月
筑前守様が幕府の相伴衆に任命され、修理大夫となられた。
元の筑前守の官位は義長様へ譲られ、任官された。
◆永禄三年三月
修理大夫様は、その居城を飯盛山城へお移しなされた。
それまでの居城は、筑前守義長様に譲渡。
三好家の本領である阿波国。
これに堺を経由して素早く移動できるというのが理由だ。
間違ってはいないが、隠居志向とか楽に楽にというのはどうかと思う。
船に乗ると、御髪は靡きますなぁ
囁いておいた。
◆同年五月
松永弾正の修理大夫様と筑前守義長様に対する視線が相変わらず暑苦しい。
政長の厭らしい眼差しよりはマシだが、面倒さは大差ない気がする。
◆同年十一月
松永弾正が大和北部を制圧。
修理大夫様は、そこを恩賞として与えた。
弾正は感涙に咽いでいたが、動きたくないことが一番の理由なのは間違いない。
しかし暑苦しい奴が遠くに行って涼しくなった気がする。
◆永禄四年五月
修理大夫様の弟御・十河様が急逝。
ショックの余り寝込んでしまった。
優秀な弟がいなくなると、自分の仕事が増えると思ったようだ。
でもショックで抜ける御髪がなくて良かったですね。
◆永禄五年三月
昨年に続き、またも不幸が襲う。
修理大夫様の弟御・実休様が戦死なされた。
とても悲しい。
修理大夫様を働かせるのが上手かっただけに、無念の極みである。
筑前守義長様が改名し、義興様となられた。
不幸続きを払拭するためと発表されたが、何か違和感がある。
◆同年八月
幕府政所と衝突。
最近は筑前守義興様が優秀なせいか、修理大夫様はヒキコモリ気味だ。
実際、義興様は優秀であり、支える松永弾正と共に余裕のご様子。
修理大夫様が前に出る必要性は薄い。
しかし喜んで城から出なくなるのは健康に良くない。
御髪はもう不要ですか、とお尋ねした。
修理大夫様は、連歌会に出かけることが増えたようだ。
他にも尻を叩く存在が必要だと思う。
◆同年十一月
筑前守義興様の酒量が多いようだ。
というか、御髪のご様子が……。
従弟も中々上手くやっているようだが、私の目は誤魔化せんぞ。
一体何時からだ。
修理大夫様は気付いておられないようだ。
◆永禄六年一月
和泉で騒動。
修理大夫様の叔父である山城守康長様が頑張っている。
ちらっと会ったが、よくよく見ると御髪が結構……。
我も若い頃は未熟で気付けなかったが、今思うと政長も存外……。
◆同年八月
訃報再び。
御嫡男・筑前守義興様が僅か二十二歳で儚くなられた。
従弟に話を聞くと、十の頃から危うかったそうだ。
若い身空で心が耐えられず、酒量が増えていったとか。
当家の技術だけでは義興様の安寧に寄与出来なかったと悔やんでいた。
私も見抜けずとても悔しい。
◆同年九月
修理大夫様が御養子として、甥御である孫六郎様を迎えた。
本家なので必須なのであるが、修理大夫様も今更働く気力はないようだ。
むしろ今だからこそ動くべきだとも思う。
しかし今更我がアレコレ言うのもどうかと思い、止めておいた。
今はただ、孫六郎様の御髪が無事であることを願うばかりである。
◆同年十月
山城守康長様が頑張った。
髪があれなので、入道になろうかなどと笑っておられた。
本家と違って随分明るいな。
こちらの方々は悉く隠し通してきたのに。
摩訶不思議なことだ。
◆永禄七年三月
修理大夫様の弟御・安宅様が御髪の秘密に気付いてしまった。
安宅様はコレといって問題視はしていない。
そう言えば、十河様も安宅様も御髪は無事だ。
実休様は入道していたので不明だが、三好姓が呪われているのだろうか。
先年養子になられた孫六郎義継様は、十河様の実子である。
今のところ御髪に問題はない。
しかし、三好姓となってしまったから或いは……。
◆同年五月
修理大夫様がやってしまった。
安宅様が修理大夫様の御髪について触れた際、突発的に刺してしまったのだ。
そして直後に後悔していた。
「仕事が増える」ってどうせ自分ではやらんでしょうが。
御髪の呪いがこんなところにまで。
◆同年七月
修理大夫様御逝去。
最期の言葉は「これで楽になれる」徹底してますね。
まだ五十に満たないというのに。
◆同年八月
修理大夫様の遺書が家中に公表された。
その中に、我に関するものがあったので以下に抜粋する。
「 右近は上手く使えば薬効宜し 過剰に扱えば却って毒となる 」
生まれる前から死んだ後までお仕え申し上げた我に対してこの申し様。
少々イマイチな評価ではなかろうか。
まあ良いとしよう。
御嗣子・義継様には我が嫡子を宛てがおう。
相伝の秘術は伝授済だ。
後見に従弟を付けるし、もしもの時も安心であろう。
◆永禄八年七月
修理大夫様の月命日となった。
そう言えば、修理大夫様が戦場に出たがらなかったことを思い出す。
今思えば、戦死を恐れたせいであろうか。
戦場に限らず出先で果てると、遺髪が戻ってくるからな。
当家秘伝のソレは、当人の御髪を使うからバレ難いのだが。
まあ推測でしかない。
◆同年十月
さて、本書は我が家督を継いだ時からつけていたもの。
図らずも、修理大夫様の一生に沿う日誌となってしまった。
ならばここらで区切り、筆を置くのもまた一興。
修理大夫様の御遺髪と共に、墓前に供えて供養と為そう。
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後書
本書は三好修理大夫様の一生に沿った、我が秘書の列記である。
当人の名誉を毀損する可能性があるため、禁書扱いとする。
出来うるならば、我の臨終の間際に焚書としたい。
無理であったならば、冒頭の端書の通りにされたし。
三好修理大夫奏者 右近允
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………これは酷い。
何と言うことだろうか。
三好修理大夫とは、かの三好長慶に相違ない。
とてもではないが表に出すことは出来ない。
しかし焚書することは躊躇われる。
恐らく、歴代の当主たちもそう思い仕舞って置いたのだろう。
間違いない。
これは、確かに禁書である。
しかし、彼の死後四百年は間違いなく経っているだろう。
ここは研究者の使命を前面に出すべきなのだろうか……。
いや、待てよ。
研究者としては、まずこれが偽書である可能性を疑うべきではないか?
うむ、そうだ。
まずは研究から始めよう。
これが偽書である可能性がある以上、まだ世に出すべきではないのだ!
こうして様々な要因で禁書となったものは、様々な要因で更に闇から闇へ葬られることとなったのです。
どんどはれ。