サバイバー【昇華できない愛の行方】
暗がりに潜む汚れて歪んだ愛を後生大事にしているなんて、どこまでも愚かで馬鹿な自分。こんな自分なんかいらないのに……。
◆
田中霧子の一日は、母親の罵倒から始まる。
「いつまで、そうしてるつもりなの!さっさと起きなさい!」
「うるさいなぁ……休みの日ぐらい寝させてよぉ」
霧子は少しだけ抵抗を試みる。それが成功したためしはないとわかっているけれど。
「まったく、そんなだからいつまでもしゃんとしないのよ。そんな怠け者に育てた覚えはないわ」
深いため息をつく母に、うんざりしながらも霧子は起き上がる。頭が痛い。日に日にひどくなる頭痛。このまま、脳が腐って死んでしまえばいいのにと霧子は思う。
「あたし、友達とでかけるから。お洗濯おねがいね。午後から雨だから濡らさのよ」
母はそういうと霧子の部屋をでていった。
(なんなんだろう……もう……)
もう怒りを通り越してあきれるしかないようなこんな状況でも、霧子は胸の奥からふつふつと湧き上がる罪悪感に苦しんだ。そして、いつものように剃刀を手にする。左手首にゆっくりと刃をあててざっくりと深くなりすぎないように無意識に加減しながら、一本のラインを引いた。赤い液体があふれてくるのをみて霧子は、ほっとする。頭痛も不思議と和らいだ。しばらく流れ出す血を見つめていると、はっと我にかえり、新たな罪悪感に苛まれた。
(こんなことしたって意味ないのに……)
繰り返す自傷行為のせいで、先月彼氏と口論になって別れた。誰もわかってくれない。誰も愛してくれない。そんな自分が嫌いで嫌いでたまらなかった。最初は、同情したり心配してくれた彼も三か月で自分を捨てたと霧子は思った。
◆
ただの躾だと言い続けた両親のそれは、ようやく裁判で虐待という判決を下された。西尾蜜は、親を訴えた罪悪感にしばらく苦しんだ。それでも、その決意をさせてくれた人を思えば、堂々と顔をあげて生きようと思った。
(ねぇ、先生。あたし、やっと自分が好きになれそうだよ)
月岡家と書かれた墓石の前で、裁判の結果を報告した。そして、その場を立ち去ろうとしたとき、みっちゃんと声がしてふりかえると、先生のお母さんが微笑んでいた。
「裁判起こしたってきいたから、もしかしたらと思ったの」
丸っこいくて人懐っこい犬のような雰囲気をもつ先生のお母さんは、先生の代わりに蜜を陰ながら支えてくれた人の一人だった。
「これから、報告に伺うつもりでした」
蜜がそういうと彼女はやわらかい微笑みを讃えて、近くにできた甘味処へ誘ってくれた。蜜は裁判の結果、戸籍を独立させることができたことを報告した。
「そう、もし困ったことがあったら、ちゃんと私に話してね。七緒のためにも、無理だけはしないでちょうだいね」
「はい、先生に顔向けできないようなことはしません。困ったことがあったら、必ず頼らせていただきます。ご迷惑かもしれませんが、あたしに頼れるのはおばさんだけだから」
「あらあら、迷惑だなんてそんなことないわ。私にできることなんて大したことじゃないもの。少しでもみっちゃんの助けになれれば、うれしいの。それだけよ。それに貴女は七緒の大事な生徒だもの。あの子の残してくれた宝物の一つなのよ、みっちゃんは」
蜜はありがとうございますと深々と頭を下げた。泣きたくなるほどうれしくて、恥ずかしくて。そのあとはお互いの近況を話して別れた。
蜜は両親を自ら切り捨てて、生きる自由を選んだ。だから、いつまでも両親に対する罪悪感に縛られている場合じゃないと、新しい職場と住まいを決めた。明日から、その職場で三か月の試用期間が始まる。不安はたくさんあるけれど、少しずつでいいから前へ進みたかった。
『みっちゃん、捨てる神あれば拾う神ありっていうのよ。私の命はもう長くないって医者はいうけどね。医者が投げた匙は自分で拾ってもいいの。だから、私が死ぬときは寿命よ。病気に負けるつもりも勝つつもりもないわ』
『みっちゃん、正しい生き方なんてないのよ。どんな人でも自分なりの生き方を手さぐりで悩みながら生きてるんだからね』
蜜は先生の言葉を何度も何度も思い出す。入院して弱っても会い続けてくれた先生。大事な生徒なのと言い続けてくれた先生。蜜はこの大事な思い出を守って、前を向いて生きるんだという気持ちが揺らがないようにと祈った。
◆
霧子は憂鬱な月曜日を迎えていた。今日から新人が来るのだ。中途採用らしい。年は一つ下だ。霧子は面倒くさいと思いながらも、朝のミーティングで紹介された西尾蜜の社内案内をする。
「営業事務って結構ハードよ。大丈夫?」
霧子はなんとなくそんなことを口にしていた。蜜は肩をすくめて試用期間で使い物にならなければ、おはらいばこですかねと笑う。霧子はそのどこか余裕のある蜜の態度が少し苛立たしかった。
「何かわからないことは、すぐに聞いてね。最初はだいたいの年間スケジュールを把握してもらう予定だから」
「はい、よろしくお願いします」
(素直に真っすぐ育ったって感じよね)
霧子は蜜をそう判断した。蜜のほうは、とにかくがんばろうという気持ちが大きくて、どこか蔑むような霧子の目に気が付かなかった。
蜜は三か月の試用期間を終えて、正式に社員になった。その三か月の間に、霧子はあまり積極的に仕事を教えてはいなかったが、蜜はわからないことがあるとよく質問してきた。霧子はうっとうしと思いながら、適当なことを言ったが、それでも蜜はたった三か月で十分に使える人材となっていたようだ。それがなんとなくしゃくにさわった。そして、霧子は自分の母親が疎ましく感じることが増えていった。
母は霧子の給与明細をチェックして、今月はもう少し家にお金をいれてくれないかとネコナデ声で言う。
「お母さん、無理言わないでよ。ただでさえ、安月給なのよ」
「あら、そんなこといったって冴子は独り暮らしなのに、あんたと同じだけ仕送りしてくれてるのよ」
そうやって姉が当然のようにしていることを言われることが、霧子にとって腹立たしくて我慢の限界をこえてしまった。
「いい加減にしてよ!あたしだってちゃんとやってるわよ!」
霧子は怒鳴った拍子に手じかにあった雑誌を母に投げつけた。驚いた母は、なんて子なのと泣き出した。霧子はその姿をみてとっさに謝った。
「ご、ごめんなさい。お母さん。ちょっと仕事でいらいらしてたの。ごめんなさい」
「ひどいわ。ご飯だってお弁当だって毎日つくってあげてるのに。感謝もしないで……」
「ごめんなさい。いつもありがとう。今日は会社で嫌なことあって……」
本当はそんなこと何一つなかったけれど、そうやって母をなだめるしか霧子には手がなかった。その後、延々といろんな愚痴を聞かされた。仕事人間の父のこと、近所の人の悪口。耳をふさぎたくなるようなそんな話ばかりだった。
(いつまでこんなことしているんだろう)
一人、自室でため息をつく霧子。確かに実家暮らしは楽だった。職場から真っすぐ家に帰れば、暖かい夕食がまっているし、洗濯や掃除もたまの休みに、ときどき頼まれるぐらいだった。それでも、母の態度に腹が立つ日が増えている。そして、そのたびに母に物を投げつけ、あやまり、自己嫌悪で手首の傷が増えていった。そんなときだった。中途採用された西尾蜜の評判を耳にしたのは。
社員食堂で一人昼食をとっていた霧子は、最初に担当していた営業の佐藤彰夫と同僚が話しているのを聞いた。営業成績が振るわないことをよく霧子のせいにしていた男だ。
「西尾さんには助けられっぱなしですよ。俺」
「へぇ、お前が事務方褒めるなんてめずらしいね。前はよくつかえねぇとか言ってたくせにさ」
「いや、なんか西尾さん、気が利くんですよね。俺のミスが減ったのも彼女のおかげっすよ。最初は新人なんか押しつけやがってとか思ってたんですけど」
「そういや、お前成績あがってきたもんな」
「俺も反省しましたよ。西尾さんにいわれました。きちんと状況を話してくれないと対応できないことが多いから、細かいことだと思っても言ってくださいって……そんなの察してよっていったら、無理ですって返されて、ちょっと喧嘩みたいになったんだけど。なんつうか、説得力ありますよ。彼女」
「ほぉ、お前が他人をほめるようになるとわなぁ。成長したじゃねぇかぁ」
そんな話を楽しそうにしていた。
(あたしのときは、気が利かないとか言ったくせに!)
霧子は吐き気がするような怒りを覚えた。たかが一つしたの蜜にたいしても、どうせうまく媚を売ってうまくとりいったんだと思った。そして、ふと気にかかっていたことを思い出す。課長の柴田郁美が、よく蜜に話かけているのを。
(きっと課長からノウハウを教わったんだわ。なんてずるいんだろう。あたしは三か月も面倒みてやったのに!)
◆
蜜は少し疲れていた。仕事は何とか順調だ。ただ、試用期間に面倒をみてくれた田中霧子がやたらと絡んできて、仕事に集中するのが難しくなってきた。
最初は、業務中の些細なおしゃべり。それからときどき昼ご飯をいっしょに食べようと誘われることが多くなった。そのたびに、彼女の愚痴が増えていく。
「あまり、気にしない方がいいんじゃないですか?嫌なら、ちゃんと話し合った方がいいとあたしは思うんですけど」
「でもね、人の話きかないのよ。成績がいいからってバカにしてるんだわ」
霧子の愚痴は、担当の営業マンが気を利かせていろいろ言ってあげるのにわかってるよと苦笑いしながら、彼女のアドバイスを無視するとか仕事のことから、同僚の悪口までさまざまだった。
そんなとき、課長の柴田郁美が大丈夫かと聞いてきた。
「ええ、仕事は上手くやれてると思います。佐藤さんとも足並みがそろってる感じしますから」
「そう、とりあえず、今は繁忙期でもないし、今度の金曜日に有給とりなさい。休むことも覚えなきゃだめよ」
「そうですね。ありがとうございます。あとで書類だしますね」
課長はうなずいて、自分の席へもどった。そこに話を聞いていたのか、聞こえたのか、隣の席からえらくなかがいいじゃないというつぶやきが聞こえた。そうつぶやいたのは霧子だった。
「そんなことないですよ」
蜜はできるだけ棘のある霧子の言葉に過敏にならないよう、そう答えた。
「そういえば、西尾さん中途採用だったわよね。縁故採用だったりするの?」
「それは……」
蜜は説明に困った。確かに求人の話をもってきてくれたのは郁美である。郁美とは虐待児互助会で知り合った。それを話すことは、彼女の過去を勝手に話すことにもなるので、蜜はとっさに言葉を詰めてしまった。
「どおりでみんなが褒めるわけよね。でもね、実力じゃないところで褒められてもあなたのためにならないわ。意地悪で云っているんじゃないのよ。また、駆け出しなんだから」
霧子はにこりと笑う。蜜はそうですねとあいまいに笑ってから、仕事に集中した。
(むかつく。なんて嫌なヤツ。なにがそうですねよ。あんたもあたしをバカにしてるんでしょ!)
霧子は表にこそださなかったが、蜜の態度に腸が煮えくり返るようだった。そして、その日家で暴れた。自分でもわけがわからないくらい。父にも母にも罵声をあびせた。モノを投げつけ、誰もあたしのことなんか考えないで、勝手なことばっかりしてと喚き散らした。父も母も暴れる霧子を呆然と見つめ、叱ることもたしなめることもできなかった。
翌日、霧子はひどい頭痛で会社を休んだ。それから、たびたび家暴れては会社を休むようになった。蜜に対しても、嫌みや小言をいうようになり、周りからたしなめられた。そして、三か月に一度の課長との面接の日が来た。
(どうせ、西尾にちょっかいだすなとか、そんなことでしょ……)
霧子は投げやりな気分で面談室へ入った。郁美が厳しい顔で席を進める。
「……急病による有給が多いのは、自分でわかってるわね」
はいと霧子はうつむいて答えた。
「病院には行った?診断書がでてないけれど……」
「いいえ……」
「そう、じゃあ、精密検査をうけてもらうわ。ただし、実費よ。病気が見つかれば、それは経理から返金があるわ。来週の水曜、十五日にこの病院で検査を受けなさい」
「どうしても、受けなきゃいけないんですか?ただの頭痛です。毎日痛いけど、それでもできるだけ努力して仕事してます」
霧子はイライラと声をあらげた。
「最近のあなたは、イライラしすぎてるわ。以前から神経質なところはあったけれど、それは短所じゃない。事務方にとって大事な資質の一つよ。けど、今の貴女は仕事になってない。それは担当の松本さんからも苦情がはいるほどよ」
霧子はなげやりにつぶやく。みんなあたしが悪いのよと。
「勘違いしないで頂戴ね。会社側だって、簡単に人を切れないの。今はどこも人手不足だし、競争もはげしいわ。だから、検査は仕事の一つだと考えて必ず受けてちょうだい。それから、これはプライベートなはなしだけど、あなた実家ぐらしよね」
「そうですけど?」
「家を出る気はない?」
霧子はむっとした。
「実家にいるから甘えた人間だと言いたいんですか」
「いいえ、家族円満なら、私は口出しはしないわ。ただ、貴女が一度だけお母さんに電話をさせたことがあったでしょ。あのとき、少し話をきいたのよ。仕事の量を減らしてほしい、仕事のストレスのせいで暴れててがつけれれないってね」
霧子はぎりっと奥歯を噛んだ。
(なんて恥ずかしいことをするのよ!)
「それは母の誤解です。別に暴れてなんかいません」
「そう、じゃあ、その傷は?」
郁美に指摘されたのは左手の自傷後だった。どんないいわけも効かないほど、無様な傷痕が袖からのぞいている。今までは少し切るだけだったのに、いつのまにかひどい傷後になっていた。霧子はとっさに腕を隠した。
「あなたが、なぜ自傷行為をしているのかわからない。だから、検診を受けて。私個人としては心療内科か精神科を受診してほしいけれど、体の病気の可能性が無いとは言えないから」
「わかりました。検査は受けます。あたしだって、好きでこんなことしてるわけじゃないわ」
霧子は知らず知らずに涙をこぼしていた。どうせ自分のことなど誰もわかってくれないのだと悔しさと腹立たしさに涙が止まらなかった。そのせいか、口から蜜の悪口が流れ出る。
「課長は西尾さんビイキですよね。そりゃ、中途採用だし、営業事務がはじめてだから仕方ないかもしれないけど。少し度が過ぎてると思います。みんなも、あたしに対しては冷たいのに……」
それを聞いた郁美の態度は、ほっとしたようなため息だった。
「そっか、西尾さんの言ってたとおりね。貴女が自分にあたるのは、たぶん、私が気遣いすぎるからだろうって。自分でも気を付けてたつもりなんだけどね。悪かったわ。ごめんなさい」
霧子は郁美の急な謝罪にとまどった。それに、蜜が理由に気が付いていたことにも驚いた。
「本人の許可があるから、貴女に教えるけれど絶対に誰にも言わないと約束できるかしら」
郁美はさっきまでの厳しい顔からは想像がつかないほど、穏やかな顔と口調だった。霧子はただうなずく。話を聞くまでは、態度の豹変に戸惑い、内容によっては吹聴してやろうとも思ったのだった。
「西尾さんは親からひどい虐待を受けて、何度か死にかけてるの。私も虐待を生き抜いた人間だから、ある団体でボランティアをしているわ。私たちはそこで出会ったの。彼女の状態も取り巻く状況もかわったし、丁度うちで中途採用者を探していたから、受けるように勧めたわ。彼女にとって何もかもが新しいことだらけなのよ。だから、懸命に働いてる。貴女が彼女をどう思っているかはわからない。だけど、辛いことがあるなら、彼女に八つ当たりしないで私に言ってほしいんだけど、それじゃあ駄目かしら」
霧子は言葉がでなかった。
「それ、本当のことなんですか?何度も死にかけたって……」
「ええ、正確にはなんども親に殺されかけてるの。彼女が私と出会ったのは虐待を受けた人たちが集まる虐待児互助会っていうNPOでなの。別の団体で彼女をサポートしていた人が病気になって、サポートが難しくなったのよ。それで私たちは出会ったの。私はサポーター。彼女はサバイバーとしてね」
郁美はやわらかな口調で続けた。
「誰もが虐待で生き残った人に、大したことなかったから生きているんでしょって平気でいうの。私たちが生きているのは、奇跡的だといってもおかしくない状況だったにもかかわらずね。だから、折角生き残ったのに自殺してしまう人もいるの。結局、誰もが誰かの助けを必要としている。これが虐待児互助会の理念でもあるの。貴女がどういう状況下にいるのかわからないけど、西尾さんはね、貴女には手助けが必要なんだと思うっていっていたわ。私も貴女のお母さんと話したとき、そう思った。だから、精密検査うけてほしいの。私個人としてもね」
霧子の止まっていたはずの涙が、またあふれる。霧子にはその意味がわからなくて、必死で拭ったけれど止まってくれない。
「泣くのはいいことね。頭が冷静になるわ。あのね、田中さん。過去は変えられないし、自分を変えるには時間も労力もいるわ。だけど、物事のやり方や受け止め方は誰にでも変えられるの。だから、もし少しでも何かを変えたいと思ったら虐待児互助会に行ってみて」
郁美は紹介カードと書かれた名刺のようなものを、そっと霧子の前にさしだし立ち上がった。
「お昼休みまで、ここでやすんでいていいわ」
そう言い残して面談は終了した。
◆
それから霧子は言われたとおり、検査を受けた。その結果、体に異常は見当たらず、心理カウンセリングをすすめられた。会社にもその報告があり、検査をうけた病院で月に一度、カウンセリングを受けるようになった。実費で払った検査費用も経理の方から、きちんと返金された。
「ねえ、お昼いっしょにたべない」
霧子は久しぶりに蜜を昼食に誘った。蜜は、にっこりと笑っていいですよと答えた。そして、そのとき霧子は、はじめて気がついた。蜜だけが最初から自分に対する態度を変えなかったことに。
「おごってあげるわ」
「え?いいですよ。あたし、いろいろ迷惑かけてばっかりだし」
「いいの。おごりたい気分だから。ただし、社食の定食だけど」
霧子がぶっきらぼうにそういうと、蜜は笑顔でそれじゃあ遠慮なくごちそうになりますと言った。
「ここって定食だけはおいしいのよね」
霧子はカウンセリングに通うようになってから、母親に弁当を作るのをやめてもらった。弁当にしたいときは自分でつくるようになった。
「確かにそうですね。お弁当作るの面倒なときとか、安くておいしいから助かります」
「なにそれ、安い物しかおごらないあたしへの嫌み?」
「あれ、ばれました?」
蜜はうれしそうにおちゃらけた。霧子は、ようやく蜜という人間の明るい表情を見た気がした。そして、面談の時の郁美の言葉を思い出す。
『過去は変えられないし、自分を変えるには時間も労力もいるわ。だけど、物事のやり方や受け止め方は誰にでも変えられるの』
今、それはをはっきりと理解できたような気がした。だからなのか、霧子はぽつりとあなたみたいになりたいとつぶやいていた。
「あたしみたいに?……うーん、そんな必要ないと思うなぁ。自分がどうしたら幸せになれるか考えた方がきっと楽しいですよ。田中さんは田中さんだし、あたしはあたしだから、自分のやり方じゃないと幸せになれないと思います。……なんて、生意気ですけど」
「ほんとね、生意気」
霧子は笑った。なんだか、とても気分がよかった。とても、とても久しぶりに気持ちよく笑えた気がした。
【おわり】
虐待児互助会は架空の団体です。もし実在していたとしても、本作とはまったく関係ありません。