4章 始まり 続き
*「――――――っ!!」
撫子は目を見開いた。
右頬に地面の感触。
湿った土の匂いが鼻をかすめる。
胸が、痛いほどどきどきしていた。
撫子は見知らぬ森の中…いや、薬草を採りに来た森の中で地面に身を横たえていた。
たしか・・…崖から落ちた。
きっと頭でも打って気絶していたんだろう。
その気絶している瞬間に、白夜の夢の術に囚われた。
ただの夢じゃない。
自分の魂の過去の夢だ。
は、と息が唇からこぼれた。
遠い昔、カエデであった頃の記憶。
のみこまれそうになった。
あの生々しく強い強い感情に。
カエデのじゃない。
レイヤの、カエデへの狂おしい想いにだ。
目を強くつむって、すぐに開いた。
無理に呼吸をならして起き上がろうとすると、右足首に痛みが走った。
顔を歪めて見てみると、見事に足首は腫れ上がっていた。
崖から落ちる際にひねったに違いない。
上を見上げたら、10mほど上空に切り立った崖が見えた。
おそらく落ちる際に途中に生えている草木に何度もぶつかって、
それがクッションとなって今、無事なのだ。
おかげで、腕も着物も傷だらけだが、そうでなければ死んでいた高さだ。
落ちたところも、岩ではなく、ふかふかの土だったことも幸運だった。
そのとき、撫子の上向いた鼻の頭に、ぴちゃりと雫が落ちた。
すぐにぱたぱたとおでこにも雫が落ち、あっというまにどしゃぶりになった。
そういえば、茜がもうすぐ雨だ、と言っていたっけ。
彼女は無事だろうか。
彼女のもとに行きたいが、この足じゃ歩くどころか立つことも困難だ。
少し動かすだけで痛みが走る。
「……っう」
うめきをのどの奥で殺した。
―――――――おまえの傍にいられるから。
レイヤの声が脳裏によみがえり、びくっと少女の肩が揺れた。
レイヤという名の若者の顔がよぎる。
どこでだろう。
あの緑の瞳、どこかで見たことがある。
それにあの二振の刀もだ。
けれど、彼女の疲弊しきった頭では思い出せなかった。
ズキンと頭が痛む。
思い出せるのは、レイヤがカエデを愛しているということだ。
けど、その想いを彼は伝えなかった。
愛しい者の幸せを守るため、心の奥底に封じ込めていた。
(そして、カエデは私の先祖であり、
私の魂のずっと前の器だった彼女は、そのことに……気づけなかったんだ)
楓。
遠き昔、皇子をも恋に狂わせたという美貌を持ち、
唯一絶対の青き力をもつ言霊を自在に操った白銀の巫女姫。
「私」はそれの生まれ変わり。
そもそも……「私」とはなんだろう。
伝説の巫女姫の生まれ変わり。
ただの魂の器。
「私は……誰……なの……?」
問うても、応える者はいない。
体に冷たい雨が叩きつけられる。
「私って……なに……?」
呼吸が知らず荒くなる。
目の前の景色がかすむ。
楓の生まれ変わり。
彼女の魂に、少し自我が芽生えていただけの。
「ち、違う……」
ただの魂の器。
「ちが、う……ちがう……」
顔をいくつもの雫が流れた。
雨粒なのか、涙なのか、もうわからない。
「わ、私……私は……」
「――――――撫子!!」
はじかれるように顔をあげた。
すさまじい速さでかけてくる若者が土砂降りの中、見えた。
「け、い……?」
これこそ夢を見ているんじゃないか。
まばたきをしたら彼の姿は消えてしまいそうで、怖くて目を閉じられない。
「けい……」
消えないで。
手を伸ばす。
だけど足がついていかないから、バランスを崩した。
(あ、倒れる……)
とっさに目を閉じて衝撃を覚悟した。
けど、ぬかるみに倒れる前に強い指が腕を掴んでくれた。
「おい!
しっかりしろ!!」
「けい…」
少女は虚ろで美しい青い瞳を慧に向けた。
彼だけが、今、自分をつないでくれる唯一のものだ。
獣の強い瞳。
強く美しく危険な金の瞳。
それは今、少女のことしか映していない。
もうそれ以上我慢できなくて、慧の首に腕を回して抱きついた。
「なっ!?
ちょ、おい!?
撫子!?」
「けい……けい……」
こらえきれずに、食いしばった歯の間から嗚咽が漏れた。
驚きと戸惑いで動きを止めた慧だが、
やがて、おそるおそるその手を彼女の背にまわして、あやすように優しくさすった。
その温もりに、体の奥から熱いものがあふれて止まらなかった。
「…こ、わかった……ぅ…す、ごく…こわかっ…たの……」
今更のように体が震えだして止まらなかった。
自分が自分でなくなる感覚。
『撫子』なんて人間は最初からいないんじゃないかって。
必死に『楓』の強い感情に抗って、『撫子』の意識を保とうとした。
だけど、レイヤの想いはとても強かった。
彼は、深く、強く、カエデを愛していた。
『撫子』の意志よりも強く。
その想いに抗いきれなくて、『撫子』が小さくなって。
でも、慧が呼んでくれたから。
撫子、って強く真名を呼んでくれたから。
今、撫子はここにいられる。
「来るの……遅くなって悪かった」
慧の腕が少しだけ強く、撫子の体を彼の方に引き寄せた。
「……落ち着いたかよ」
しばらくして、少し腕の力を緩めて慧がそうつぶやいた。
「う、うん。
ごめんね、慧」
少し名残惜しい気持ちで温かい慧の体から離れる。
男性に抱きしめられたのは初めてのことだった。
今更のように心臓がどきどきする。
「…帰んぞ」
「ち、ちょっと待って!」
慧がすばやく立ち上がったのを見て、撫子はあわてて言った。
「あ、のね……実は、崖から落ちる際に、足、くじいちゃったみたいで…
ゆっくり歩いちゃ…ダメ、かな?」
ぎゅっ、と慧の眉間にしわがよる。
ああ、怒らせてしまった。
そりゃそうだ。
こんな雨の中だったら、さっさと帰りたいに決まってる。
めちゃくちゃ不機嫌な顔で、慧は撫子の目の間にもう一度しゃがんだ。
「……どっちの足だ?」
「……え?」
「…さっさと見せろ」
「み、右足…」
顔は怒っているのに、足に触れてくる手はなんだか泣きたくなるほど優しい。
と、思っていたら、盛大に舌打ちされた。
「めちゃくちゃ腫れてんじゃねーか!!
なんでもっとはやく言わねえんだよ!!」
「ご、ごめ…」
「…チッ」
ヤバすぎる目でまたも舌打ちされた。
…が、彼は突然しゃがんだまま、くるりと撫子に背を向けた。
「…慧?」
「……背中に乗れ」
「え、ちょ、ええっ!?」
叫んだら、ギッと音がしそうなほど睨まれた。
彼の顔が赤く見えるのは目の錯覚としか思えない。
「いいからさっさと乗れ!!
はやくしねえと、長いこと歩けなくなるぞ」
「うん…」
おそるおそる彼の首に腕を回すと、ぐいっとと体が浮いた。
慧に、おんぶされている。
その事実に、鼓動がうるさいくらい高鳴る。
慧は撫子をおぶったまま、勢いよく駆け出した。
撫子を背負っているというのに、その足取りはみじんも揺らがない。
「…大丈夫?
私重いのに…ごめ…」
「あ゛?
おまえ、喧嘩うってんのか?」
…気遣ったら、物騒なことを言われた。
「馬鹿にすんなよ。
おまえぐらい、どうってことねえ」
「ば、馬鹿になんかしてないって!」
「……っ!
み、耳元でしゃべんじゃねえよ!!」
「え?
う、うん…ごめん…?」
撫子は慧の背に揺られながら、雨にうたれる森を抜けた。