10章 偃月の夜 続き
*体にじかに伝わる振動を感じて、ゆっくりと重い瞼を開けた。
藍色の空に上弦の月が輝いているのが見えた。
緩慢に瞬きを繰り返し、視線をすぐ近くにあった白夜の横顔に向けた。
視線に気づいて、その紅い目がこちらを向く。
「起きられたのか」
「……」
声を出そうとして、のどがひどく乾いているのに気付き、顔をしかめる。
今は白夜に横抱きにされて、どこかに連れて行かれる最中のようだった。
「すべてをご覧になったか?」
彼の口調が前よりも丁寧さと恭しさがこもっていて、なぜか嫌悪感を感じた。
自分が自分でなくなっていくような感覚。
「……白夜さんは、タスクさんを邪魔だったから異世界にとばそうとしたけど、
逆に返り討ちにあって、自分が異世界に来てしまったんだ」
かすれた声で小さくつぶやく。
否定の声はない。
沈黙は肯定の証だ。
視線を白夜と同じ方向に向ける。
何かの召喚の儀式の陣のような物が地面に描かれているのが遠くに見えた。
これは、夢でタスクさんが転送されそうになった陣と似ている。
周りには、たくさんの人影がある。
全部、式神なのだろう。
良く考えたら、和火の肩に矢を射かけたのも白夜の式神なのだろう。
やはりわざと逃がされていたのだ。
おそらく、上弦の月の力を借りてなにかをするつもりだ。
あの日は満月から間もなかった。
わざと逃がして仲間との絆の大切さを再認識させた後、
上弦の月になる前にまた攫うつもりだったのだろう。
やがて、陣の中に降ろされた。
一切の抵抗はしなかった。
すれば、和火や慧たちの命の保証はない。
「私を媒体にして、セナさんを召喚するの?」
私を陣の中に降ろした後、白夜は立ち上がって数歩後退した。
「いいや」
羽虫のような音をたてて、陣が白く発光した。
「君に彼女の精神を乗り移らせる。
君は、セナになる」
一瞬言葉を失った。
「何言ってるの……?
あなたは、私を媒体にしてセナさんを召喚するんじゃないの……?」
「勘違いなさっているようだ。
私は一度でも君を媒体にすると言ったであろうか?」
「どういうこと…!?
私を媒体にするから、この世界に留まり続けろって言ったんじゃないの…!?」
「それは、君の体という意味。
君の意識ではない」
撫子じゃなくなる……?
セナになる……?
話が突拍子もなさ過ぎて頭がついていけない。
「もしも……セナさんの意識が私に定着したとしたら、私の意識は……?」
「当然なくなるな」
さも当たり前のように言われた言葉が信じられない。
意識がなくなるというのは、死んだも同然。
ぎゅうっと衣の袖を握りしめた。
白夜は、たった一人の娘を手に入れるためだけに、撫子を殺そうとしているのだ。
「あなたは、やっぱり、狂ってる」
「それがいかがしたか。
長き時を経ても私は貴女を想い続けてきたのだ。
言ったであろう。
貴女を手に入れるためならば、この命、地獄の悪鬼に売り飛ばしても構わぬと。
……貴女のために狂えるのならば、本望だ」
「……っ」
本気で言っているのが分かる。
白夜にとって、撫子の命など本当にどうでもいいのだ。
その美貌には一切の迷いが見られない。
(……あれ?)
不意に疑問が脳裏をかすめた。
白夜の姿が、夢の中で見た時と寸分たがわぬことに気付いたのだ。
歳をとっていないのは、たしか不死の呪いとか言っていたが、
滑らかな肌や髪の長さまでそのままだ。
いくら不死でもそれはおかしい。
……まさか。
「……白夜さん。
セナさん本人を召喚しないのは、その体がこの体にないからって言っていたよね。
つまり、精神体を召喚するって」
「それがどうかなさったか」
片眉を上げた、白夜をまっすぐに見上げる。
「もしも、白夜さんも精神体だって言ったら?」
少しの沈黙の後、白夜は唇を嘲笑の形に歪めた。
「……馬鹿なことを」
でも、その紅い瞳が揺れるのが見えた。
もし、白夜が精神体だとしたら、つじつまが合う。
なにやら、複雑な術式がないと転送術は発動できないようだ。
夢の中で、白夜はタスクに空間のひずみに突き飛ばされた。
術式もなしに体ごと異世界トリップする可能性は限りなく低いだろう。
この変わらない美しい容姿にも納得できる。
精神体は体が老化することはない。
体の成長も止まるのだ。
「……何を、馬鹿な。
精神体は、本体の体から出てしまい、器がなければ数刻の内に消える」
「この世界が器になっているとしたら?」
この世界の大気は非常に濃い霊力に満ちている。
存在が不安定な精神体でも確固とした存在として消えることもないだろう。
「それに、白夜さん。
あなたがやろうとしていることは、逃げているのと同じだよ」
恐怖を必死に押し殺して、白夜の顔を見上げる。
その顔は、術式の発する白い光のせいで、少しずつ陽炎のようにぼやけ始めている。
こんなにも恐ろしい術式なのに、
どうしてこんなにそれが発する光は美しいのだろう。
螢の光のようだ。
幻のように美しい。
「今更、命が惜しくなったとおっしゃられるか」
どうやら、必死の説得は、撫子が死にたくないあまりに話題を懸命にそらして、
少しでも延命しているように見えたらしい。
それは完全に間違ってはいない。
死が怖くないと言ったら嘘になる。
今だって、手や体の震えが止まらない。
死にたくない。
今すぐ逃げ出してしまいたい。
本当にどうして気づかなかったのだろう。
最近夢を見ても自我が崩壊しなくなったのは、セナとの同一化が進んでいたからだ。
気付けていたら、少しでも良い方法を考え出せたかも知れないのに。
「……は」
撫子の手の震えを見たのか、白夜が唇の端をつり上げた。
「口では私を詰っておきながら、やはり死が恐ろしいか」
その目は少しも笑っていない。
もし撫子がセナの器でなかったらとっくに殺していそうなほど凍えきっている。
「だが、安心されるといい。
君はセナとして、その体は永遠に私と共に生き続ける」
「そんなの死んでるのと同じだよ。
『撫子』はどこにもいないから。
私は、死にたくない。
できることなら、今すぐ逃げ出してしまいたい。
でも、それは白夜さんも同じ」
怖い。
死にたくない。
消えたくない。
逃げたい。
でも、逃げない。
負けない。
何度だって、前を向く。
守りたい人がいるから。
「白夜さんだって、気付いているんでしょう。
今の自分の体が、精神体だって。
この世界の人に時空間を歪める術式を敷いて、転送術をかけてもらえたら、
元の世界に帰れるかもしれない、って薄々気づいていたでしょう。
……でもそうしなかった。
ただ、怖かったんじゃないの?
元の世界に帰っても、セナさんに見向きもされないのが。
それは逃げているのと同じだよ。
その状況が嫌なら、状況をねじ曲げるんじゃなくて、自分が変わらないと。
たとえ、セナさんの魂が私に定着しても、
彼女は絶対にあなたのことを好きにならない」
「そのようなことは案じてはおらぬよ。
……彼女には、すぐ私以外の存在を忘れるように、忘却の術式をかけるのだから」
術式の光がひときわ強くなった。
その向こうにいる白夜の顔が見えなくなる。
不器用な人だ。
人の愛し方も愛され方も知らない。
ただ、奪うことしか知らない人。
少しでも、この気持ちが届けばいいと願ったのは、無駄だったのだろうか。
意識が遠くなる。
撫子が消える。
セナになる。
茜。
いつもまっさきに私の事心配してくれて本当に嬉しかったよ。
茜のこと疑ってごめんね。大好きだよ。
長老様。
この村に住まわせてくれて本当にありがとうございました。
長生き、してくださいね。
ユウさん。
私たちを裏切ったのにはなにか理由があるよね。なんとなく、わかるよ。
茜のこと大切にしてあげてね。
村の皆。
いっぱい迷惑かけたのに、いつも優しくしてくれてありがとう。
最後まで、守れなくて、ごめんなさい。
慧。
一番お世話になったよね。
私のことを好きになってくれて、ありがとう。返事もできなくて、ごめんね。
和火。
和火。
ごめんね。
一緒に元の世界に帰るって約束したのにごめんね。
ごめんね。
いつか、私の魂が生まれ変わっても、また――――――――――――
最後に、ブレスレットの青玉が、深く、青く、鮮やかに輝いたのが見えた。