夢 ~セナの記憶~
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~セナの記憶~
*私は妙に寝付けなくて、布団から身を起こした。
自室のふすまを開け、外に出る。
ひやりとした夜気が小袖の袖のすき間からするりとすべりこむ。
空には上弦の月が輝いているだけで、
あたりは墨で塗りつぶしたように闇に包まれていた。
静かな夜だ。
……いや。
静かすぎる。
霊的な感覚を研ぎ澄ませ、あたりの気配を探る。
私は、屋敷の裏庭がある方角に目を向けた。
本当にかすかだが、妙な気配、術式のようなものをそこから感じる。
行儀が悪いと知りつつも、私は廊下を駆けた。
いくつも角を曲がり、階段を駆け降りる。
そこに広がっていた光景を見て、私は息をのんだ。
白夜様がいて、その隣に蝶姫がいて、少し離れたところにタスクがいる。
タスクだけ、その場に膝をついていた。
いや、つかされていた。
タスクの体は、妖狐の姿をした四体の式神に無理に押さえつけられていた。
何故、三人がここにいるの?
何故、タスクが地面に押さえつけられているの?
何故、白夜様たちはタスクを見ているだけで助けてくれないの?
いくつもの疑問がぐるぐると脳裏を巡る。
動けない間に、私の気配と足音に気付いて、白夜様がゆっくりこちらを振り返った。
私の格好を見ると、軽く苦笑する。
「青那様。
余分遅くに未婚のうら若き乙女がそのほうな……」
「姫様!?
いけません!!
お逃げください!!」
タスクに言葉をさえぎられた白夜様は、
途端に別人のように冷たい表情でタスクを見やった。
「……わずらわしきこと」
「ぐっ……!!」
タスクが顔を歪めた後、さらに地面に強く押し付けられた。
白夜様が式神たちにそうするように意識で命令したのだ。
「タスク!!」
体が、意識する前に動いた。
タスクが、苦しんでいる!!
駈け出そうとした体は、強く掴まれた手首のせいでその場に引き戻された。
「白夜様!?
お放しください!!」
「何故?」
ぎりりと手首に白夜様の指が食い込んだ。
痛みに顔が歪む。
「貴女があの男のもとに行こうとしているのに、何故放さねばならない?」
無表情の白夜様。
何が起ころうとしているのか頭が理解してくれない。
「白夜様。
……何をなさろうとしているのですか」
「貴女の全てを手に入れようとしているのみのこと」
「なにを、おしゃっているのですか!?
私は、あなたさまの婚約者。
あなたさまの……!!」
もうなんだっていい。
早く。
早くタスクを……!!
「……それはまことか?」
ぐいっと強く手首を引かれて、よろけたところを抱き寄せられた。
自分のものでない体温に全身が緊張する。
「白夜様!?」
「ならば、それをここで証明してはくださらぬか」
丁寧に、だがしっかりと顎をしっかりと取られた。
至近距離で紅い瞳と視線が交わる。
「貴女が私のものだとおっしゃるのならば、今ここで貴女から私に口づけて」
「っ!?」
試されている。
直感的にそう感じた。
頭がとても良い方だから、
私がいまだにタスクに未練があることに気付いていらっしゃるのだ。
ちらりとタスクを見た。
今、白夜様の言うとおりにしなければ、タスクに何かしら危害を加えるに違いない。
ただ、口づければいい。
難しいことじゃない。
未来の夫と唇を重ねるだけ。
たったそれだけ。
だけど、私はそれ以上距離を詰めることがどうしてもできなかった。
心が言うことをきかない。
「……そうか」
ひそやかな吐息が私の唇にかかる。
「私のものだと甘い言ノ葉をその愛らしい唇で紡いでおきながら、
私には口づけすら出来ぬと」
白夜様が目を細めた。
その仕草にひどく酷薄な印象を受ける。
背筋が凍った。
「やはり、あの男は、邪魔だ」
そう呟かれた瞬間、タスクがいる地面に紅い五芒星が描かれ、闇の中、輝いた。
その禍々しい赤に鳥肌が立つ。
たしか、時空間を捻じ曲げる術式。
神がおはす世界を乱すからと禁術に指定され、失われたはずの術式。
認めたくないが、術者は間違いなく白夜様だ。
「なにを、なさっているのですか」
私はこわばった唇を無理に動かした。
白夜様がなにか術を発動しようとしているのだけわかった。
「私は貴女の全てが欲しい。
心もすべて。
しかし、あの男がいる限り、貴女の心は決して私のものにはならぬ」
底知れぬ闇を秘めた瞳だった。
それを見て、身体が氷に貫かれたように冷たくなった。
私の表情を見て白夜様は唇を歪めた。
「そのような顔をせずとも、殺めはせぬ。
蝶も悲しむ」
白夜様は蝶姫に目をやった。
彼女はさっきから何も喋らない。
どこか虚ろな目でタスクだけを見ている。
その姿は痛々しさを感じさせた。
「だから、蝶ごと貴女の騎士を、この世界から消し去ってしまえばいい」
「な、にを……!?」
「時空間をねじまげ、二人を別世界に送る『転送術』をかけるのですよ」
いい考えでしょう、というように白夜様が微笑んだ。
「私と蝶は利害が一致している。
私はあの男が邪魔だし、蝶は貴女が邪魔だ。
私と貴女はこの神社を引き継がねばならぬが、蝶も彼も霊力をもたぬから
絶対にこの世界にいる必要もない」
「何をおっしゃっているのですか!?」
「生憎、私は正気で本気だ」
「……私もですわ」
ふと蝶姫がこちらを向いた。
泣きつかれたようなそんな表情。
「斬透様と青那様の方が共にいた時間が長いから、不利なのは存じておりました。
だから、斬透様の気を惹きたくて、わざと賊に襲われてみました。
配下の者に青那様を崖から突き落としました」
淡々とした声に、ぞっとする。
やはり、崖から落ちたのは故意のものだったのだ。
「私は、斬透様を試したのです。
元主人と現婚約者が危機的状況に陥ったら、どちらを助けに来て下さるのかを。
私は、婚約者の義務でもなんでもいいから来てほしかった。
そして、斬透様は来てくださった」
私は顔をうつむけた。
今の私は嫉妬で歪んだ醜い顔をしているだろうから。
「でも、それは、青那様のところに行ってからだった」
私は耳を疑った。
あの時、私を助けに来てくれたのは白夜様だ。
どんなにタスクに来てほしいと願ったことか。
でも、彼は来てくれなった。
「兄君様が青那様を助けたのを見届けてから、私を助けに来て下さったのです」
確かになぜかタスクは、私が崖から落ちた際に痛めたところを知っていた。
それが、もし、影から見守ってくれていたからだとしたら……?
胸の奥に封じ込めたはずの期待がぶり返す。
どうしよう。
私、すごく嫌な女だ。
蝶姫は理由が何であれ、自分が一番に優先されなかったことは嫌だろう。
だけど、それを嬉しいと思っている自分がいる。
恋心とはこんなにも醜い感情を抱くものなのだろうか。
自分が、いやになる。
「その日から、私は変わりました。
慣れない化粧もして、髪も毎日丹念にくしけずって、
色とりどりの都で流行っている衣をまとって。
すべて、斬透様に見ていただくために。
少しでも、綺麗だと思っていただくために。
……なのに」
蝶姫の目尻にたまっていた大粒の涙がぽろぽろと頬を伝ってこぼれた。
上弦の月に照らされ涙するその姿は、夜に舞う蝶のよう。
「なのに!!
斬透様、どうして!?
どうして、私のことを見て下さらぬのですか!!
私なら、斬透様だけ見ているのに!!
青那様なんかよりずっと斬透様をお支えできるのに!!
……少しでも青那様に近付こうと、この数か月の間必死に努力をしました。
そんなに……私ではいけませんか?
私では青那様の代わりにすらなれませんか!?
何が、青那様に劣っていますか!?
何が足りないのですか!?
おっしゃってください!!
必ずや斬透様の理想の女となってみせます!!
私は。
私は……!!」
「……蝶。
もういい」
白夜様がそう言った途端、蝶姫は糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
彼女の髪が夜風になびいて、美しく髪が波うち、扇のように広がった。
夢のように、幻のように美しい。
「私は……貴方様が、好きなのに……」
消え入りそうなかすれたかぼそいこえは、これ以上なく私を重く打ちのめした。
狂ってしまう一歩手前まで恋に溺れている、壮絶に美しい娘がそこにいた。
ああ、なんて美しい。
なんて美しくて哀しいのだろう。
私は、声を荒げてやめろということができなくなった。
タスクと蝶姫が別の世界に行けば、みんな幸せになれる……?
タスクが私のことを気にかけてくれるのは、
きっと、元騎士としての最後の責任だろう。
きっとそうだ。
それを、蝶姫は勘違いしているのだ。
私から離れたら、今度こそタスクは蝶姫だけを見ていられる。
私も、白夜様を愛する努力ができる。
それがいいのかもしれない。
そうすれば、全てがうまく収まる。
そう思っているはずなのに、胸が痛いくらい苦しい。
苦しくて苦しくて、頭がおかしくなりそう。
「青那様。
少しさがっていてくださるか?
今から、貴女の騎士殿を転送するのでね」
どくん、と心臓が強く脈打った。
白夜様の手にひときわ強い光がともる。
ぐにゃりと視界が歪んだ。
空間が歪み、ひずみが生まれる。
白夜様の転送の術だ。
あれをタスクに放てば、彼は永遠にこの世界から消える。
永遠に。
二度と会えない。
だけど、それできっとタスクは幸せになれる。
ざりっと音を立てて、私の片足が少し後退した。
もっとさがれ。
もっとさがれ。
そうすれば、タスクは幸せになれる。
そう体に言い聞かせてもそれ以上動けない。
白夜様は私があまり後退していないのに気付いていない。
彼はタスクだけをみている。
恋い慕うように。
でも、その目に宿るのは、焼け焦げそうな黒い感情だ。
白夜様の手にさらに強く白い光がともる。
もうすぐ術が完成する。
もっとさがれ。
もっとさがれ。
そうすれば。
……いやだ。
私は目を見開いた。
いやだ。
だめだ。
こんなのは、逃げているだけだ。
真から目を背けているだけ。
ざりっと足元の砂利が音を立てた。
考えるよりも先に、私は駆け出していた。
「姫様!?」
タスクが驚いて叫ぶ声が聞こえた。
そんなのかまわない。
夜風を切って私は走る。
私は、タスクの目の前に体を躍らせ、真正面から放たれた白い光を受けた。