序章 続き
*…これで、完全に変人の烙印を押された。
撫子は、げっそりとした表情で講堂を目指して走る。
だけど、これで四条君の、一人の命を守れるなら、あまりよくないが仕方ない。
講堂の前で、撫子は足を止め、背中からリュックを降ろすと手を握りしめた。
だめだ。
震えてしまう。
…怖いのだ。
撫子は古き巫女一族の末裔。
常人とは違い、その身に霊力を宿している。
それ故に、幼いころから、気や霊力を感じることができた。
今、行動の分厚い扉の向こうから感じるのは霊力。
これまでに感じたことのことのない、異質な、それでいて巨大な。
撫子は一度目を閉じ、息を深く吸うと、目を見開いた。
『精製』
青き言ノ葉の力により、髪が少しずつ銀に染まり瞳が輝く。
青に。
深き青に。
脱力感と共に、倦怠感が全身にまとわりつく。
代わりに、身の内にあった霊力が浅葱色の霧となって具現化し、
撫子の右手に吸い寄せられ何かを形作りはじめた。
優美な弧を描く三日月刀だ。
うっすら浅葱を帯びた刀は、月のごとき輝きを放っている。
撫子は、その手の震えをごまかすかのように刀のつかを握りなおした。
こぼれ落ちた銀の髪を耳のうしろにかきあげる。
この異様な目と髪の色見られたら、撫子の平凡な学校生活が終わる。
何が何でも、この姿を他人に見られる前にことを終わらさなければ。
慎重に講堂の玄関に入り、右側の壁にある電灯のスイッチを一つずつつけていく。
パチン、パチンという音がやけに大きく響いた。
全部つけ終え、今度は講堂の木製ドアを見た。
確かに感じる。
冷たい汗がまたも背を伝う。
やはり、何かが扉の向こうにいる。
撫子は、ゆっくりと扇に手をかけると、思いきってぐいっと押し開けた。
目の前に広がるのはおびただしい数のいす。
それらの向こうににはワインレッドのカーテンでふちどられた舞台。
その舞台の中央に、『それ』はいた。
『それ』は闇だった。
舞台の中央だけ、多量の墨を落としたかのように、真っ黒だ。
撫子は後手で扉を閉めた。
それが合図となったように闇がうごめく。
空気を切り裂く鋭い音と共に、
闇が触手のような黒い帯をすばやく撫子に向かって放った。
『軽化』
青き言ノ葉によって、体が軽くなる。
『加速』
撫子は新体操のような軽やかな動きで黒い帯をかわすと一気に舞台まで駆けた。
その動きは、もはや人間のものではない。
言霊が撫子の身体能力を増幅している。
途中、迫りくる帯を、刀で数回はね返したが、全く手ごたえがない。
眉をひそめた彼女の前で、闇が揺らめいて何かを形作り始めた。
黒ヒョウだ。
黒ヒョウに変化した闇は、しなやかな動きで駆け、その勢いで窓に体当たりした。
思わず足を止めた撫子の耳に、ガッシャンバリィンッッという
けたたましい音がつきささる。
キラキラと輝くガラス片をまき散らしながら、
黒ヒョウは見事窓をつきやぶって講堂から脱出した。
「……」
ガラス代っていくらするのだろうという疑問はあまり考えないようにして、
彼女はすぐさま黒ヒョウに続いて、講堂の非常口から出た。
ひやりとした夜の気配が、体にまとわりつく。
――――いた。
探す必要もない。
黒ヒョウは撫子が来るのを待っていたのだから。
少し離れたところにいた黒ヒョウは、撫子の姿を認めた瞬間、
今度は、校舎の窓に向かって駆けた。
「…あ」
ガッシャンッバリィッンッ
再び甲高い破壊音が夜の闇に響き渡った。
キラキラとガラス片が月明かりを受けて輝く。
「……………」
ものすごく追いかけたくなかったが、撫子は黒ヒョウの後を追って
校舎の小ドアを言霊で破壊した。
轟音と共に、金属製のドアがふっとび、あたりにけたたましい音をまき散らす。
「…………………………」
ガラスを割るよりはいくらかマシだとは思ったのだが、あまり変わらない気がする。
明らかに黒ヒョウは誘導している。
誘われている。
撫子は、一瞬ためらった後、その後を追いかけた。
数分後。
撫子は体育館のバスケットゴールの上に座り込んで、肩で息をしていた。
闇は、今はハヤブサに姿を変えて、絶えず撫子に襲い掛かって来ていた。
容赦のない攻撃にかなりの言霊を用いて対抗したため、霊力が残り少ない。
今は、意識を保っているだけで精いっぱいだ。
ハヤブサは、体育館の天井のあたりを先ほどからくるくると旋回している。
撫子のすきをうかがっているのだろう。
先ほど、教室内で、何度も闇を攻撃してみたが、まるで手ごたえがない。
霊力による攻撃じゃなくて、
ためしに黒板消しを投げてみたがすり抜けられてしまった。
物理的攻撃も効かないらしい。
…絶望的だ。
どうしよう。
このままでは、誰も守れない。
冷や汗がにじんで、背中を濡らす。
ふっと、ハヤブサがこちらを見た気がした。
刀を握りなおす。
……来る。
でも、どうすればいい。
どうすれば、いいのだろう。
なにも考えが浮かばない。
そして、撫子は、ハヤブサが急降下してくるのを見た。
……来る…!
唇をかみしめて、迫ってくるハヤブサに刃を向けた。
体がふらつく。
霊力を使いすぎたな、と心の中で苦笑した。
「水無月!!」
撫子は、突然自分の名字が呼ばれたことに驚いて、落ちた。
もともとふらついていたのに加えて、今聞こえるはずのない声を聞いて、
見事にバスケットゴールの上から落ちた。
ハヤブサが半拍後に、ものすごい勢いで撫子の頭があったところを通過した。
空中で体勢を立て直そうとしたが、できない。
床に激突することを想像して、根でしこは身を固くした。
ドサッ
……思っていたよりも、痛くない。
「…………っつ」
思わず閉じていた瞼を開くと、
痛そうに顔を歪めてうめく四条君の顔が撫子の顔の目の前にあった。
はたから見れば、撫子が四条君を押し倒しているような図となる。
遅れて、四条君が、落ちる撫子の体と床との間に体を滑り込ませたのがわかった。
「な、ななな…!」
なんで、と問い詰めたいことが多すぎて言葉にならない。
ヒュンッ
鋭い音と共に、黒い帯が素早く撫子の片方の手首に巻きついてきた。
「………え…?」
そのままあらがえぬ強い力に引っ張られる。
引きずられる。
「……ちっ、くそっ」
四条君が顔を歪めて、撫子のもう片方の手首を強くつかんだ。
ハヤブサの姿はもうない。
そこにあるのは、もやのような闇。
ブラックホールのようなそれは、時々生き物のようにゆらりゆらりと揺れた。
撫子の片手を拘束し引っ張ってくる黒い帯は、そこからきていた。
「…や、やばい、やばい、やばい!!
なにあのやばすぎるかんじっ…!?」
撫子は涙目になって叫んだが、そんなことにはおかまいなく、
黒い帯の引っ張る力はどんどん強くなる。
…このままじゃ、四条君を巻き込む。
「四条君!!
手を離して!!
私のことはいいから、早く、逃げて…っ!!」
そう叫んだとたん、ズキン、と鈍く頭の奥が痛んだ。
―――いつだっただろうか。
―――――――――遠い昔、誰かに似たようなことを言ったことがある。
「ここまできて、離すか……!」
「な、なんで…」
なんで、来てくれたの。
なんで、逃げないの。
―――ただ、彼は、顔を歪めながらも、撫子の手を離そうとはしない。
「くそっ…なんなんだ…これ…」
四条君は、足で引きずられる力に対抗して踏ん張りながら、撫子の手首を縛る
黒い帯をほどこうと、その闇に触れた。
世界が、震えた。
ぐるりと視界が反転する。
ビュッと耳元で風がうなる。
ずいぶんと下の方にバスケットゴールが見えた。
遅れて、黒い帯にすさまじい力で体ごと体育館の天井近くまで
振り上げられたのだと悟る。
撫子の髪がふわりと広がり、ライトの光を浴びて、美しい銀色に輝いた。
撫子の手首を掴んだままの四条君がこちらを見た。
強い瞳だった。
一瞬だけ見とれた。
空中に振り上げられた、落ちたら間違いなく死ぬ高さの位置にいながら
その瞳から目が離さなくなった。
黒い帯が今度は下からすさまじい力で引っ張ってきた。
霊力が足りない。
言霊はもう、使えない。
びゅうと強く髪がなびいた。
闇に向かって、なすすべもなく落ちていく。
撫子は覚悟を決めて、四条君の制服をギュッと握りしめた。
彼が自分から離れてしまわぬように。
まっすぐには、彼の目を見ることはできない。
「…ごめんね。
………まきこむ」
頭の上で、ふっと笑う気配がした。
「…なんで、謝るわけ?」
「…え…?」
撫子は驚いて四条君の顔を見ようとした。
だけど、それは少し遅くて、次の瞬間には意識が真っ黒に塗りつぶされた。