4月18日 こんな天気の良い日には
——もったいないよ。君の代わりはどこを探してもいないのに。
【4月18日 こんな天気のいい日には】
吉川透弥は変人と呼ばれている。
飄々とした態度につかみ所のない性格。そして、時折見せる奇々怪々な行動。だからクラスメイト達は彼と距離を置いている。僕は彼について特段気にしていなかったが、かといっても関わりも持っていない、そんな風に過ごしている……はずだった。
昼休みの教室はほどほどに賑やかだ。その中で僕は一人、本を読んでいた。もう少しで読み終わる冒険活劇。ページを捲る手は止まらない。この物語は一体どんな結末が用意されているのだろうか。周囲のことなど忘れ、僕は夢中になって読み進める。
そんな時だ。ぽん、とふいに肩を叩かれた。振動が伝わる。驚いた体はびくっと跳ね上がった。一気に本の世界から現実へと戻る心。反射的に僕は振り向く。そして、むにっと。
「ははっ。いいんちょ、引っかかったね。これで5回目」
「……吉川くん」
吉川くんの指が、僕の頬っぺたへと食い込んだ。
「いいんちょの頬っぺ、やわらかいよね。気持ちいい。飽きない」
ぷにぷにと吉川くんは僕の頬っぺを何度もつつく。そんな柔らかな頬とは正反対に硬直する僕の体。こんなやりとりをするようになったのは1週間ほど前からだ。
高校2年生の春、僕らは初めて同じクラスになった。それまでお互い面識もなく、存在すらも知らなかったと思う。
ただ本当に突然、放課後の教室、一人で日直の仕事をこなしていた僕に吉川くんが話しかけてきた。
「ねえ、いいんちょ。何してるの?」
それが始まり。
「……吉川くん、だよね? "いいんちょ"って僕のこと?」
「ここにはいいんちょと、ボクしかいないよ」
「あの、僕、別に委員長とかやってないんだけど……」
「でも見た目がいいんちょっぽい。眼鏡とか、眼鏡とか、眼鏡とか」
「眼鏡だけ?」
「あと真面目だけど、気が弱そうなところとか」
「そ、そうなんだ。……あ、ひょっとして僕の名前分からない? クラス替えして、まだ1週間だしね」
「いいんちょは、いいんちょでしょ?」
「……えっと、一応言っておくね。僕は和泉司」
「で、いいんちょは何をしてるの?」
「……日直の仕事」
どうして吉川くんが僕に話しかけてきたのかは分からない。いくら思い返してみても、接点やきっかけはこれと言ってなかったと思う。ただ、その日以来どういう訳か、吉川くんは僕にちょっかいをかけてくるようになった。
「いいんちょの、そういう困った顔も面白い」
「……えっと」
ニヤっと、特徴のある笑みを浮かべ、吉川くんは反応に困る発言をする。笑おうとした口がひきつるを僕は感じた。正直僕はこういうスキンシップには慣れていない。こんな風に絡まれた時、一体どうすればいいのだろうか。明確な答えがあるのなら、誰か教えて欲しい。今の僕はただひたすら、吉川くんを見つめることしかできない。
吉川くんは頬っぺをつつくのを止めると、空いていた前の席へ腰をかけた。おもむろに僕の机に肘をつく。
「ねえ、いいんちょ。構って」
だろうね、と僕は予想していた言葉に曖昧な笑みを浮かべた。
「吉川くんはいつもそう言うね」
「だって暇だから」
「それは他の人じゃダメなの?」
「他の人がダメじゃなくて、いいんちょがいいから話してる」
そうきっぱり言い切られると、それ以上追求することもできず。
「"構って"って言われても、何をしたらいいのか分からないよ」
「それじゃあ話そうよ」
「分かった」
僕は開いていた小説に栞をはさみ、ぱたんと閉じた。
「いいんちょってさー、いつも本を読んでるよね」
吉川くんがまじまじと僕の手の中に収まっている本を見る。
「そうかもしれないね。時間があるときは、本を読んでることが多いかも」
「これ、買ったの?」
「うん。ちょっと本屋さんの中をうろついてた時にね、タイトルに惹かれて勢いで買っちゃったんだ。文庫本だから値段も手頃だったし」
僕はそっと背表紙を撫でる。
「うみのそこのー……」
「"海の底のアルトミア"ってタイトルだよ」
「ふぁんたじー?」
「そうだよ。海外ファンタジーでね、シリーズものなんだ」
「どんな話?」
「えっと、主人公は冒険に憧れる少年でね、ある時こっそり大きな船に乗り込むんだ。でもその船って実は海賊船で……。ひょんなことから主人公は船長と仲良くなるんだけど、そのまま船員として世界中に散らばるお宝を探す手伝いをすることになってしまう、ていうのがおおざっぱなあらすじかな」
「へぇー」
吉川くんは本から視線を外すと、今度は僕へ移した。肘をついているせいで、僕を見上げる形となっている。いつもニヤついている顔が、何だか楽しげに見えた。
「楽しそう」
「うん、読んでてわくわくするんだ、この話。主人公達に次々と困難がふりかかるんだけど、それを予想外な方法で乗り越えるんだよ。展開がジェットコースターみたい。だけどちょっとしたところに伏線もあって——」
「そうじゃなくて」
吉川くんが僕の言葉を遮る。そしてひと呼吸置いて、こういった。
「いいんちょが」
「えっ……」
思わぬ言葉に、僕はきょとんとする。
「いいんちょが、楽しそう」
「……そう、かな?」
確かに話しやすい内容だったせいか、いつもより言葉数が多かったかもしれない。
そのせいか、少しだけ気持ちがふわふわしている。だけど楽しそうなのは、吉川くんもでしょ? そう口に出そうとして、僕は言葉を飲み込む。違っていたら恥ずかしいし、彼が楽しそうな理由が分からないからだ。ひょっとして、吉川くんは人の話を聞くのが好きなのだろうか。
「ねえ、好きなのはこの本だけ?」
「違うよ。これはファンタジーだけど、他にもミステリー系で集めているシリーズもあるし、ジャンルは関係なくてずっと追いかけている作家さんもいるよ」
「そっかー」
吉川くんはどこか納得したような表情を浮かべると、肘をつくのをやめ、体を起こした。
うーんっと、背伸びをして、すとんと肩を落とす。目線の高さが僕と同じになった。
「いいんちょってさ、本当に本が好きなんだね」
真っ直ぐな瞳と、楽しげな笑み。そこに乗る何気ない言葉。裏表なく、純粋にそう感じて吉川くんは言ったのだろう。彼が見せた態度は、全てが好意的なもので溢れていた。
だけど僕は、彼の放った何気ない一言に、すぐに言葉を返すことが出来なかった。後ろめたい気持ちと共に、胸に小さな痛みが走る。
「……好き、だよ」
少しためらい、紡いだ言葉。声量も小さくなる。変だと思われなかっただろうか。そんな僕の様子を知ってか知らずか、吉川くんは不思議そうに僕を見つめた。しかしそれも一瞬のことで、またいつものニヤついた笑みを浮かべて彼は話を続けた。
「でもちょっと意外。いいんちょ、頭良さそうだし、眼鏡だし、やっぱりムズカシイ本ばっか読んでるのかと思った」
「眼鏡は関係ないと思うけど……。難しい本って例えばどんなの?」
「えー、参考書?」
「参考書は、まあ確かに読むけど、読書って感じではないかも」
「じゃああれは。新書っていうの? なんか難しいこと語ってるの」
「新書は、たまに読むかな。でも僕は基本的に小説の方が多いよ」
僕がそう答えると、吉川くんは眉を寄せ、難しい問題を目の前にしたときのような表情を浮かべた。うーん、といかにも悩んでいます、というような声を上げ、しばらく考え込む。そしてしかめっ面でこう言った。
「ねえ、なんで参考書でも新書でもなく、小説を読むの?」
「えっ」
「なんで小説のがいいわけ?」
「それは……」
思わず言い淀む。
僕はたまに、吉川くんが苦手だなと感じる事がある。過剰なスキンシップもそうだが、彼は一歩、奥へ踏み込むような問いかけをしてくる。例えば、今のように。しかも今回、よりによって彼の興味の対象は"小説"に向けられている。
「ねえ、なんで?」
「えっと、あの、その」
上手い言葉が出てこない。焦れば焦るほど、隠したい本心が浮き彫りになる。
自分の中で、小説を読む理由など分かりきっていた。けど、それはあまり褒められたものではなくて……。だから口に出すことをためらう。かと言って、誤魔化すことが苦手な僕にとって、思ってもないことを即座に言うのは至難の業だった。
吉川くんはいつの間にか表情を消し、ただじっと僕を見ていた。妙に澄んだ瞳が僕を捉えて離さない。まるで嘘や偽りは許さないと言わんばかりの視線。
いい答えが浮かばない。何て言うのがベストだろうか。ありふれた答えを言えばいいだけなのに、ポンコツな僕の頭ではそれすらもままならない。言葉が途切れ、沈黙が続く。
結局、場の雰囲気に耐えきれなくなった僕は、観念して本心を話すことにした。
「他の誰かになれるから、かな。なーんてね」
少しおどけたような言い方をして、僕は笑う。ちくりと痛む胸。言ってしまえば自覚をしてしまう。だから言いたくはなかった。どうか違う話題になりますように、と心の中で祈る。これ以上はダメだ。僕の中で、何かが崩れてしまうから。
「なんで、他の誰かになりたいの?」
しかし吉川くんは、僕が逃げることを許してはくれないらしい。また一歩、内面へ踏み込んでくる。
「それは……」
「それは?」
拒めばいいのに。笑って、適当に流してしまえばいいのに。逃げることすらしない僕は、なんと愚かだろう。
心の中にぽつりと浮かぶ答え。それはもう、ずっと前から分かりきっていたものだった。促され、言葉は喉の奥までせり上がる。それを飲み込むことなど、最早不可能だった。
零れたのは、とても小さな声。
「……僕が、僕を好きじゃないから、かな」
言ってしまった。僕は無理矢理貼り付けていた笑みが、完全に苦笑へ変わってしまったことを感じる。酷く居心地が悪い。僕はもう一度笑みを貼りつけ直すと、へらへらと無害そうに装う。
ふうーん、という相づちが僕の耳に届いた。吉川くんを見れば、興味を無くしたかのに、酷くつまらなさそうな表情を浮かべていた。そしてすっと、僕から目を背けた。
その瞬間、かーっと体温が上がる。耳が熱くてたまらない。けれど、心は一気に冷たくなった。ああ、なんてバカなことを言ってしまったのだろう……! こんなことを言ったら、引かれるに決まっているのに。
僕の頭の中はパニックに陥った。どうすればいい? 僕は一体、何をすればいい?出てしまった言葉を今更取り消すことなどできない。けれど、とにかくその場を取り繕いたくて、気が付くと僕は必死に言葉を重ねていた。
「ごめん、変なこと言って!! あの、ほらっ。本の中の主人公ってさ、皆困難を乗り越えて成長していくでしょ。僕みたいなどんくさくてダメなヤツでも、最終的にはかっこよくなっちゃってさ!! それが羨ましくて、僕も小説の主人公になれたらなぁって。だからつい——」
「なれないよ」
無表情でただ一言。僕の話を遮って、きっぱりと吉川くんがそう告げた。たったそれだけのことが、想像以上の痛みを僕に与える。
「あ……」
息が止まる。その瞬間、僕は呼吸の仕方を忘れてしまった。
「……そう、だよね。……何変なこと言ってるんだろうね、僕。あはは」
振り絞るように、どうにかして言葉を紡ぐ。前を向くことが出来なくて、僕はうつむいた。刃物が突き刺さったかのように、胸が痛い。ぎゅっと手を握り、痛みに耐える。黙っていると何かが溢れてしまいそうで、僕は意味もなく口を動かしていた。
「ホント、バカだよね。僕なんかが物語の主人公みたいに、凄い人になれる訳ないのに。空想と現実の区別すらついていないだなんてさ。だからよく父さんに言われるんだ、お前はダメなヤツなんだって。でも当たり前だよね。本を読むことで、自分から逃げているんだから。なんで僕、こんなにダメなやつなんだろう。もっと要領がよくて、なんでもできればよかったんだけど……」
聞き苦しいくらい、自虐的な言葉ばかりが溢れだす。止めたいけれど、自分で止めることができない。更に言葉を重ねようと呼吸をしたその瞬間、ガタっと大きな音がした。びくっと僕の体は震える。顔を上げれば、吉川くんが立ちあがっていた。僕を見降ろす彼は、相変わらず無表情のままだ。
「ねえ、いいんちょ」
「なに?」
ガラス玉のような瞳が僕を見つめる。無機質で、何の感情も読めない。彼は何を言おうとしているのだろうか。傷つくのが怖くて、僕は次の言葉に身構える。
「その本、貸して」
「……え」
それは想定した言葉の、どれでもなかった。
しばし呆ける。予想外の発言に、僕は意味を理解するまでに時間がかかった。そんな僕に焦れたのか、吉川くんは手を差し出して無言の催促をする。
「は、はい。どうぞ」
僕はつい反射的に、彼の手ひらに本を乗せた。吉川くんは本を受け取ると、文字なんてほとんど見えないスピードでページをめくる。
そして待つこと数十秒。
「ふーん」
最後までめくり終わった後の、第一声がそれだった。読んだ、というよりは作業を終えた、という合図のように僕には聞こえた。吉川くんはじっと、無言のまま本を見つめる。
「あの、どうかしたの?」
動かなくなった吉川くんに、僕は声をかける。しかし彼は僕の問いかけに答えることなく、今度は横を向いた。その視線の先には、ゆらゆら揺れるカーテンと窓。それから青い空。もう一度吉川くんは、手元にある本を見つめる。
僕はそんな彼の様子を、ただ黙って見守っていた。彼は一体何を考えているのだろうか。僕にはさっぱり分からなかった。
しばらく動かなかった吉川くんは、ある時おもむろに席を離れた。ずかずかと歩いていくその行き先は、さっきまで見つめていた窓。僕も慌てて立ち上がると、彼の後ろを追いかけた。
吉川くんは窓のレールに手をついて、半分体を乗り出す形で外を眺める。僕は後ろから、少し距離を置いて彼の行動を伺った。ふと吉川くんは、外の景色を見ながら話し出す。
「いいんちょ、今日はいい天気だよね」
「えっ、うん」
僕は反射的に肯定の言葉を返していた。こっそり吉川くんの背の奥にある窓の外を確認する。確かに今日はいい天気が広がっていた。雲一つもない、青がまぶしい天気。
「緑も綺麗だ」
「えっと、うん」
今度は少し考えてから答える。ここから見える景色は、確かに緑が綺麗だった。校舎のすぐ隣には、ちょっとした森が広がっている。そしてちょうど木の葉が真っ正面に見える位置に、僕らの教室があった。だから窓の外からいい感じに緑が見える。青々と茂った葉が太陽の光を反射して、キラキラと光っていた。
「だからさ」
吉川くんは振り向いて、僕と向かい合う。そして手に持っていた本を見せた。ニヤリと笑う。それは何かを企んでいる表情だった。
「ねえ、それ、どうするの」
妙な胸騒ぎがして、僕は吉川くんに問いかける。けれど吉川くんは答えることなく、僕に背を向けた。片足を高く上げる。そして、一気に踏み込んだ。同時に腕も大きく振りかぶる。
「そーっ、れっ!!」
そこからは、まるでスローモーション映像を見ているようだった。
放物線を描く腕。その延長線上にあるのは、まぎれもない僕の本。僕が声を上げる間もなく、吉川くんの手から本が離れた。
くるくると回り、本は窓の外へ飛び出す。高く、遠く、一直線に。青空と緑の境界線を目指し、小さな体はどんどん前へ進む。そして一番高いところまで到着すると、ゆるやかに高度を下げ始めた。同時にばさっと白い翼を広げる。まるで、鳥のように。太陽の光を背に受けて、"それ"は宙をもの凄いスピードで滑空した。止まることなど知らぬというように。どこまでも飛び続ける。
けれど。ガサガサガサっ、と。僕を現実へ叩き戻す音が聞こえた。
鳥……いや、本は、重力に負けたのだ。
「あーあ、やっぱ木に引っ掛かっちゃったか」
吉川くんは窓の外から半分体を乗り出して、外を見た。至極残念そうな声を出す。僕はと言うと、目の前で繰り広げられた出来事に思考が追い付かず、一時停止状態になっていた。
「こんな天気のいい日には、やっぱり本を投げたくなるよね」
吉川くんは振り向くと、悪びれもなくそう言った。そこでようやく、止まっていた僕の時間が動き出す。
「な、なっ……」
口がぱくぱくと動いたが、そこから意味のある言葉は出てこない。真っ白になった頭の中で、僕はただ一つ、すっかり忘れていたある事を思い出していた。——そうだ。目の前にいる人物は、"変人"と呼ばれている人物だったんだ……!
「それにさ、もったいない」
「えっ?」
突然言い出した吉川くんの言葉に僕は困惑する。
「もったいないよ。君の代わりはどこを探しても、いないのに」
僕ははじめ、吉川くんが何を言っているのか分からなかった。
「あの……」
「他の誰かになりたいって? それじゃあ、いいんちょの代わりは?」
そこでようやく僕は、吉川くんが言わんとしていることを理解する。
「いいんちょの代わりは、どこを探してもいないじゃないか。だからもったいない。誰かになろうだなんて」
僕はこれでもかというくらい目を見開いた。周りの音が遮断され、吉川くんの言葉がぐるぐると頭の中で反響する。それは、僕の固定概念を覆すほどの衝撃を持っていた。彼が紡いだ言葉の意味を理解する前に、急激に胸が苦しくなる。ついでに目も熱くなった。 反射的に僕は下を向く。
「……もったいない、のかな?」
やっとの思いで紡いだ言葉。聞き間違いではないのか、僕の思い込みで都合のいい言葉が聞こえただけなのか。ただ確認したいだけなのに、情けないほど声が震える。
「もったいないよ」
そんな僕の不安を打ち消すかのようにはっきりと、澄んだ声で彼はそう告げた。僕は顔を上げる。そこにはニヤリと。
「だってさ、いいんちょ、こんなに面白いのに」
いつもの笑みを浮かべる吉川くんがいた。
この特徴的な笑みを、こんなにも心強く感じたことがあっただろうか。ふっと、僕の心が軽くなる。いつの間にか胸を蝕んでいた痛みは、きれいさっぱり消え失せていた。そしてじんわりと、温かいものが広がっていく。
「面白いって言うのは、吉川くんくらいだよ」
僕は笑う。目をそらさず、真っ直ぐ吉川くんを見て。今浮かべているのは、無理矢理作ったハリボテの笑みではない。嬉しくて、本当に嬉しくて、自然と笑みが零れていた。
こんなことを言われたのは初めてだった。きっと、吉川くんでないと言えない。短いけれど、宝物のようにきらきらと光を放つ言葉を僕はもう一度思い返す。そしてそれを大切に、心の中にそっとしまい込んだ。
「えー、なんで? 頬っぺた柔らかいし、眼鏡だし、同じことに何度もひっかかるし、表情くるくる変わるし、いいんちょって見てて面白いと思うんだけど」
「あ、はは……。ありがとう」
僕のほっこりとした気持ちを、通常運営中の吉川くんは一気にぶち壊しにかかる。あんまり褒められている気はしないが、きっと言葉以上の意味はないのだろう。吉川透弥は、そういう人物なんだと思うことにする。僕は思考を切り替え、本が飛んで行った方向を眺めた。
「あーあ、あの本どこいっちゃったかな? 木にひっかかってなければいいけど」
「回収?」
「もちろん。あとちょっとで読み終わるところだったんだよ。ちゃんと結末が知りたいし。それに、物は大切にしないとダメだよ」
僕が吉川くんに注意すると、彼は少しむくれた表情を浮かべた。
「えー。数学の本とか、投げると楽しいのにさ」
「……あの、なんで投げるの?」
「なんでって、投げたいからに決まってるじゃないか」
「それ、答えになっていないから。もー、どうしてそういう発想になるのかな……」
悪びれもなくそう言った吉川くんに、僕は深く溜息をついた。
僕には彼の思考回路が分からない。行動もそうだし、こんなつまらない僕を面白いという。多分、普通という域からずれている。だから彼を変人というクラスメイト達の評価は正しいのだろう。
「吉川くん、投げたんだから探すの手伝ってよ、放課後」
「えー。いいんちょも、一緒?」
「もちろん。あれは僕の本だからね」
だけど僕は、彼を変人だと一言で切り捨ててしまうことは、もったいないなと思ってしまった。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。クラスメイト達が一斉に各自の席へと戻り始めた。ガタガタと椅子や机を動かす音が響く中で、僕はもう一度窓の外を眺める。今日はいい天気だ。お気に入りの本は飛んで行ってしまったけれど、僕の心は晴れ渡っていた。 きっと隣で僕のほっぺをつつく彼が、本と一緒に僕の陰鬱さも飛ばしてしまったからだろう。できることなら、本が無事でありますように。そしたら、なんの不満もないのに。そう思いながら、僕はまとわりついていた吉川くんを引き剥がして席についた。
僕らが葉っぱまみれになりながら、奇跡的に無傷で済んだ本を見つけるのは、あと数時間後の話。