闇の淑女。
「あなたも、私を殺すの?」
女は悠然と高価なソファに腰かけて妖美な微笑を湛えている。白く艶めかしい足を恥ずかしげもなく晒して、半ば横たわるようにしている長い金髪の女は、数多の男を騙して命を奪った、血塗られた女。
青い瞳は夢見心地のようにうっとりとして、それでいて奥底には燃え滾る情欲とこの世界を憎み嫌悪している色を隠している。ふくよかな胸元が見える薄いドレスに包まれた身体は、そんな世界に復讐するために金をかけて作り上げた「ニセモノ」の身体。贅沢な宝石で飾られた耳や首元や手も零す吐息すら色香に溢れ、見るもの全てを惑わせる、そんな女だった。
赤い唇から漏れ出た女の言葉を、黒髪の和服の男は小さく笑って否定する。
「そんなつもりはありませんよ。私はあなたの過去を少しだけ教えていただこうと思っただけです」
穏やかに淡い伽羅色の瞳を細めて言う。静かな骨董品屋の中は今日も客の姿はない。一人の男と、女が向かい合っているだけだった。
石畳の路地にある、古めかしい町家を改築して営まれているのは骨董屋「聖堂」。四季の風に踊る紫色の暖簾が目印のこの店は、不思議なモノばかりを扱う、少し変わった店。
古めかしい店を裏切らない古めかしいモノが溢れる店内には、価値のあるもの、ないもの、美術品、調度品、何のために使うのかすら分からないものまでも含めると、何点の品々があるのか分からない。しかしそのどれにも、人間のいう「魂」と呼ばれるものが宿り、いつ訪れるやもしれぬ買い手となる人間を待っている。
「さて」
その店の中で、店主は穏やかに椅子に腰をおろして微笑んだまま女に問うた。
「あなたはなぜ、そこまで男性を恨むのですか?」
「なぜ?」
その言葉に女の細く整えられた片眉が上がる。ソファに横たわるような格好のままで女は大きなため息をつき店主を斜に見た。
「そんなもの。嫌いだからでしょ?」
「嫌いですか……」
「そうよ。男なんてくだらない生き物だわ。もっとも男だけじゃないわ。この世界がくだらない」
きっぱりとはき捨てるように言った女に対して、店主は自分も男である以上、苦笑するしかなかった。
「申し訳ありません。私もくだらない男の一人ですので、謝るしかできませんねぇ」
くつくつと喉の奥で笑う端整な顔の店主を、女は黙ったまま見つめた。しかし目の前の男が今まで自分が出会った男と何か違うと感じたのか、女の目が妖しげに光を湛える。
「でも、あなたは嫌いじゃないかもしれない」
「……そうですか?」
言われた言葉にきょとんと目を瞬かせた店主ではあるが、女の眼差しを優雅に受け止め、こちらも妖美とも言える光を瞳の中に滲ませる。柔和な印象の強い店主の容貌が、たったそれだけで艶が増す。姿勢良いの座り姿も、細身の身体に纏った和服もいつもの通りなのだが、夕暮れ時で窓から差し込む茜色の日差しのせいか、妙に艶めかしくて綺麗に見えた。
そんな店主に女はますます興味を抱いたのか、ソファの上でわずかに身体を動かして、自慢の胸元を強調しようと腕を組んだ。白く長い脚もわざとのようにドレスの裾を乱れさせて組む。
「こんな綺麗な人がいればよかったわ。見ているだけで充分だもの」
「褒めても何も出ませんよ。私などたいしたことはありません」
不躾なほど視線を投げてくる女の言葉に、店主は小さく首を振って答えた。自分の容姿に全く興味のない男は自分がどれだけ美しいのかも無自覚だった。
「それに、あなたの周りには常に素敵な男性がいたのではないのですか?」
「そう? 昔のことなんて忘れたわ」
「そんなことはないはずですよ」
にっこりと笑って言った店主に、女が怪訝な表情を見せた。
「どうしてそんなこと言えるの?」
「それは、あなたが身に着けているものから分かります」
「身に着けているもの?」
店主の視線が女の高価であろうドレスや装飾品を廻る。指を、首元を、胸元を、足首を、そして全身を飾り立てるそれらはすべて女が男たちからもらったもの。
ニセモノの身体から、生まれ持った声でニセモノの愛を囁き、信じさせ、身体を交え、骨の髄まで女で満たした男たちは金に糸目をつけずに、女に様々な贈り物をしたようだ。中には家族を、土地を、名誉を、何もかもを失った者がいる。そして最後には女の手によって命までも奪われた。
店主は他愛もない会話をしながら、女の過去を探ろうと意識を集中させていく。不可思議な骨董屋に集まる不可思議なものたちはみな魂と呼ばれるものが宿り、いいものも悪いものもある。この女はその中でも「悪いもの」に属するようだと、にこやかに会話を続けながら店主は心の中で嘆息した。
女の生まれはとある国の貧民街。貧しく日々の暮らしでさえままならない中で、大勢の兄弟の中に生まれた女も、例に漏れず貧しく辛い暮らしを強いられてた。
女の周囲は貧しかったが、その国は貧富の格差が激しく、富裕層と呼ばれる人間は社会の底辺のことなど気にもしない華やかな暮らしをしていた。幼い頃から学校にも通えず物乞いや日雇いの仕事をしてきた女は、そんな富裕層の暮らしを羨みながら生きてきた。
自分と年の違わぬ子が、綺麗な服を着て学校に通い家族と楽しげに笑う姿は、幼い頃の女には何よりも輝いて見えただろう。
自分はこんな生活をしているのに。なぜ同じ国に生まれてこれほどまでに違うのか。そんな、考えても仕方のないことを心の中に常に抱えて女は成長していく。
貧富の差、つまり生まれは女を大人になってからも苦しめる。教育を受けていない女にまともな仕事はなく、自分の身体を売ることでなんとか生計を立てていくしかなかった。身体一つで稼ぐ金もたががしれている。もともと器量もそれほどよくなかった女が血の滲む思いで稼いだ金で、身なりを整え顔を変え身体を変えて手に入れようとしたものは、ありふれた幸せだった。贅沢でなくていい、極普通に家があり、家族があり食べるものがある。温かい蒲団で眠り風呂に入り、笑い声がある、そんな生活を望んでいるだけだった。
女には愛している男がいた。同じ街で生まれた緑の瞳の少年。優しく少し気の弱い少年は、女と同じように教育もなく辛い労働に身をおきながらも、笑顔のたえぬ青年へと育つ。そんな青年と気持ちを分け合い、ささやかな将来の夢のためにいやな仕事でもなんでもこなしていた女に、神は代償を与えなかった。
雪の降る寒い日。青年は殺された。道を歩いていただけなのに、そこがたまたま仕事で向かった富裕層の街だったために、身分の差で因縁をつけられて、集団でたむろしていた若い、まだ少年と言えるような若者の集団になぶりものにされて命を奪われて道端に捨てられた。ごみのように路地の片隅に。
青年の命の入っていない身体を女が見つけることはなかった。警察も貧民街出身であろう人間の身元を真剣に探すことはせず、ただ事務的に書類を裁き遺体を引き取り焼く。それだけしかしなかったために、女は青年の行方が知れなくなった本当の理由を知ることもなく、ただ闇雲に探し回り悲しみに沈み、夢を奪われた。社会を憎んで人間を憎んで、富裕層を憎み自分を慰み者にした男を憎んだ女の心は、完全に闇へと溶け込んだ。
そこから、女の生きた道は店主には見えなかった。闇の中に取り込まれた記憶は深い底に墜落して、女自身でさえもう忘れてしまっているようだ。今の女に残っているのは、自分以外の者への憎しみだけだろう。
店主は女の過去をこれ以上見ることは諦めた。今の女の姿だけで充分ではないか。過去にどんなに辛いことがあっても、黒い闇に飲まれていいはずはない。この女に同情すべき点があっても、その後の女のしたことは決して褒められたものではない。
長い睫毛を伏せがちにした店主が、女との会話を遮るように深くため息をつき、それから睫毛を持ち上げて正面にいる女を見据える。その瞳の中には陰惨な光を湛え、口許には妖美で酷薄な微笑を滲ませた。
「なぁに?」
その冷え切った微笑に女は小首をかしげて店主を見つめた。まるで何も怖いものなどないように微笑を返して来る女に、和服の男は静かに言葉を零した。
「あなたはこの先、何をしたいのですか?」
「何をしたい……?」
「えぇ。まだ、男性を恨んでいるのですか? まぁ、男性だけではないでしょうけど……」
静かに穏やかに問いかけてくる店主に、女が一瞬にして苛立つ気配を白い顔に浮かび上がらせた。
「それが何? 気が済むまで私はこの世界を恨むわ。男だけじゃない、女だって同じよ。私のことを邪魔するやつは誰だって許しておけないもの。生きているものすべてが死に絶えるのを見たいくらいだわ」
艶めかしい唇から零れたその言葉に、店主は心から嘆息して、眉間に皺を刻んだ。
「私とあなたが出会えたのも何かのご縁だと思いますし、これをいい方向に導いて差し上げたいのですが……」
おっとりとした口調で店主は言う。テーブルの上に置いていたぬるくなりはじめたお茶を一口喉に流して、男は更に美麗に微笑んだ。
「残念ながら、あなたをこのままにしておくわけにはいきません」
「あなた……何を言ってるの?」
男の言っている意味が分からず、女は更に苛立ったように眉根を寄せて上目遣いに睨みつける。自分の前に座っている和服の男を上から下まで品定めするかのような不躾な青い眼差しに、店主が挑むように視線を強めた。
「気の強い女性も嫌いではありませんが、私としてはもう少し穏やかな女性の方が好みです。申し訳ありませんがあなたには消えていただきます」
すいと立ち上がると、爽やかな笑顔を顔に張り付かせて店主は言い、まだ何を言っているか分からない顔をしている女に向かって掌をかざし、人間には分からない言葉を紡ぐ。それは店主の手から眩い光を溢れ出させ女めがけて閃光を描いた。
古めかしい骨董屋の中に、一瞬雷光ほどに力のある光が迸り空気が揺れて町家全体が軋んだ音を立てる。店主の長い黒髪も光の起こした風にふわりと踊り端整な顔を彩る。普段淡く柔和な目許が妖しく細められ、目の前で断末魔のように叫ぶ女の悲鳴に陶然とさえした表情で佇む店主は、光の消える頃、ふうっとからの力を抜いた。
静まり返った店内には、女の気配はなかった――――あるのは一枚の大きな絵画。
それは、ソファに横たわる女の肖像画。金髪に青い目の美しい女が、優美なドレスを身に纏いこちらを誘うような眼差しで見つめている。
「私とて何もかもいいものだけを認めようとは思いません。ですが、あなたのしてきたことはあまりにも大きいのですよ。歴史に残る悪女の肖像として、この姿だけは残して差し上げますのでそれでご勘弁ください」
何も語らなくなった絵画の中の女に向かって、店主は冷酷に微笑み、これ以上見る必要もないといったように長い腕を伸ばして絵画に柔らかな布をかけた。
「あぁ、殺すつもりはないと言いましたけど、それに嘘はありませんよ」
思い出したように店主は言う。そこで言葉を切り、残酷な光を湛えて先を続けた。
「ただ……消すつもりがあったかとは聞かれなかったもので、答えはしませんでしたがね」
買い手の心のままに選ばれるここの品々の中に、この女は異質だった。人間を惑わせ、あらぬ方向に導く魔性を秘めた者を扱うことはできない。それが、店主が女を消した理由。
邪な心を持つ人間は腐るほどいる。その心が求めるものならば店主は悪いものでも客に引き渡すが、心そのものを惑わす存在は捨て置けない。
「うちはあくまでも、お客様の求めるものを売るお店ですのでねぇ。申し訳ありません」
茜色の空気の中、店主は穏やかに言って淡い伽羅色の瞳をにこやかに細めた。
客の姿のない骨董屋の中は静寂に包まれている。
おしまい
ありがとうございました