痴漢疑惑と諧謔心
目の前にいるこの男は言葉の毒で私の心を蝕み、腐らそうとしている。
この三十余年の人生で初めて冤罪なるものの理不尽さを身を持って味わうことになった。
よく見るテレビのドキュメンタリー番組のような無実の罪で牢獄に引きずり込まれ、何年も孤独と恥に耐えながら無実を訴える。
冤罪とはそういう劇的なものが待っていると思っていた。
だがそれは現実のほんの一部。ドラマ性のあるものを都合よく抽出しただけだ。
「いい加減に認めろよ。こっちも暇じゃないんだ」警官服の男は呆れ口調に言う。
男の中では私はすでに犯罪者として確定していた。
「ですから私はやってないと言ってるじゃないか!」
もう何回も同じ調子で進展がまるでない。
ここまで堂々巡りを繰り返せば嫌でも飽き飽きするものだ。
「でも、あの女の子たちはお前に痴漢されたと供述しているんだ」
そう、それは数時間前の話。
私はいつも通り会社の帰り道をため息まじりに歩いていた。
毎日、見たくもない業務成績と会社の上司の顔を拝め、家に帰れば妻からの叱責が待っている。
そんな日々に心労を重ねていた。
「神様、私に幸福を下さい」そう願いながら私は歩き続けた。
そうしていると、暗がりの中から複数の女子たちが私の目の前に現れたのだ。
少女たちは皆、実に可愛らしい顔立ちをしており、その中でもひと際、美しい少女が一番遠くで私を見つめていた。
「もしや、これが噂に聞く売春というやつではないか?」
そう思いこみ私は疲れ切った頭で馬鹿みたいな妄想を浮かべた。
『おじさま……私たちと良い事しません?』
妄想の中では少女たちはそう言いながら近づき、胸を押し当ててくる。
やがて、ひとりの少女が私に近づいてくる。
茶色の髪の毛は何層にも盛り上がり、水商売の女性のような派手な格好をしていた。
私は生唾を飲む。
そして、彼女が口を開く。
「おっさん金くれよ」
妄想が砂の城のように崩れさる。
分かっていたことだ。
分かっていて敢えて考えないようにしていた。
現実など所詮こんなものだ。
「いきなり何を言うんだ君たちは?」私はしどろもどろにそう言った。
すると、さらに前方から二人の少女が私に近づき「いいから金出せよ!」と罵ってくる。
そして、一番最初に近づいてきた少女は男顔負けの力で私の胸倉を掴みかかってきた。
一瞬、息がつまり苦しくなる。
「とっとと金出せよ!」
我ながら情けない事に私は声を出そうとするが少女のあまりの迫力に声が出せなかった。
ただひたすら恐怖だけが心を蝕んでいった。
そして、先ほど私の眼が見張るほどの美少女が私の後方に回ってくる。
「……ごめんなさい」鈴のような透き通った小さな声が聞こえた。
それと同時に私の懐にあった財布が抜き取られる。
美少女は私の財布を恐る恐る仲間の少女に手渡した。
すぐに私の財布は開かれる。
「なんだよ、二万しか入ってないじゃん!」
そう言って一万円札を二枚抜き取ると、用なしとなった私の財布をアスファルトの地面に投げ捨てた。
長年、私と苦楽を共にした財布がまるでゴミのような扱いだった。
気がつけば私は怒りに我を忘れ、掴みかかっていた少女を押し倒していた。
「いい加減にしろ!」私は声を張り上げる。
だが、押し倒された少女は何故か笑みを浮かべていた。
私はそれに違和感を感じた。
その刹那、もの凄い力で肩を掴まれ、仰向けにされる。
急に目の前が満天の星空に変わり混乱せざるを得なかった。
「この痴漢め!」
男の声が私の鼓膜を響かせる。
私はその声がする方向に視線を向ける。
そこには警官服をきた男が汚物をみるような目で立っていた。
私はどうにかして誤解を解こうとしたが男には聞きいれてもらえず、そのまま近所の交番まで連れて行かれた。
一方、加害者である少女たちは連絡先だけ聞かれ、早々に姿を消してしまった。
そして、現状に至る。
「だから何度も言った通り、私は自衛しただけです!」
「だから何度もいった通り、それを証明できるものがないだろ!」
交番の中では私と男の不毛な争いが続いていた。
「いい加減認めてくれよ……痴漢なら示談で決着つけられるし、今どき前科持ちなんて珍しくもないだろ。このままだと、痴漢だけじゃなくて婦女暴行になって最悪、禁固刑だぞ?」
男はため息混じりに私を諭してくる。
このまま意地をはって無罪を主張しても恐らく現状は悪化するだけだろう。
それならば確かに認めてしまった方が合理的だ。
だが、それは理不尽に屈し、恥を晒す事になる。
人様に迷惑をかけず、実直に生きてきた自負があるだけにそれだけは耐えられない。
私の唯一の自慢がこんな事で消えてしまうのは我慢ならなかった。
「私はやってません!」そう言い切り警官を睨みつけた。
「……その人は悪くありません」
どこかで聞き覚えのある透き通った声が聞こえ、私と警官はその声の出元をみた。
そこには涙で目を腫らした美少女がいた。
その時、私には彼女が天使に見えた。
彼女は時折、涙を流しながら嗚咽混じりに事の詳細を男に述べ、私の無罪を証明してくれた。
「なんとお詫びしてよいものか……」男は先までの威勢の良さなど見る影もなく消えていた。
ただ、自分の非礼に頭を下げ続けた。
美少女もまた涙ながら私に頭を下げる。
その光景は私の諧謔心を心地よく擽った。
「いいんですよ。分かってくれれば……では、お巡りさん」
「……はい」
「とりあえず、彼女と共犯の子たちの家族と学校にこの事を伝えておいてください。あ、あと訴訟も行いますので」
私がそう言うと美少女の顔は見る見るうちに青ざめていった。
私はそれにある種の快感を覚えた。
「い、いや流石に未成年ですし、訴訟は……それに学校に報告というのは」
「未成年でも犯罪者ですよ。学校側も犯罪者がいると知ったら困るでしょう?」
運が良ければ退学だけで済む。悪ければ退学だけでなく、私から奪った二万円を何倍にもして返し、犯罪者としての汚名がつく。
恐喝罪はどれほどのペナルティが科せられるのだろうか。
その辺りはあまり詳しく知らないが、それなりに厳しい処分が下されるだろう。
少女たちの人生は私の気分次第で転落させることが出来る。
そう考えると、興奮がおさまらない。
「それだけは……それだけは許してください」
美少女はこれから待ち受けるであろう未来を想像したのか体を震わせながら私に懇願してくる。
ああ、気分がいい。
この三十余年の人生でここまで爽快な気分になったのは初めてだ。
今日は実に良い日だ。
もうしばし、私の諧謔心が満たされるまでこの天使を虐めてやろう。
夜はまだまだ続くのだから。
そう思い、私は美少女を弄り続けた。
この時の私はまだ気づいていなかった。
我が家では鬼の形相をした妻が玄関の前で仁王立ちしている事に。




