無一文の居候と思われた私、三度目の家賃精算で没落侯爵様に「この家に置いてください」と頼まれました
「屋根より先に侯爵家の体面が落ちましたね」
ナディアは食卓の中央に置いた鍋をずらし、天井から落ちた雫を盆で受けた。
「拾わなくていい。濡れている」
「体面は乾かせば再利用できますか」
「できるなら侯爵家は没落していない」
ジョスランがそう答えると、彼女は口元を押さえた。笑ったな。この屋敷の旧当主を。いや、正確には雇い主はこの屋敷を買い取った新所有者で、ジョスランは三か月だけ部屋を借りている元当主だ。
ナディアは新所有者に雇われた、住み込みの下働きである。
本人は困窮していることを隠しているつもりらしい。袖口から出た指は赤く荒れ、朝食を食べた形跡もなかった。隠すならせめて皿を一枚汚しておけ。侯爵家は没落しても、人の空腹を見分ける目まで差し押さえられてはいない。
「今月の家賃だ。雨漏りの修繕費を引いてある」
「請求先が違います」
差し出した袋を、ナディアは押し戻した。
「屋根は家の持ち主が直すものです。侯爵様の家賃からは引きません」
「では、これは」
「全額いただきます。その代わり、夕食を召し上がってください」
「取引になっていない」
「三日も夕食を抜いた方に言われたくありません」
卓上には豆の煮込みと、硬いパンが二人分。貧しい下働きに食事を用意される没落侯爵。体面が盆の中で溺れている。
「君も食べるなら食べよう」
「条件を増やさないでください」
「家賃を払う側の要望だ」
結局、ナディアは向かいに座った。
ジョスランはその晩、雨音にも起こされず翌朝まで眠った。
朝になると、ナディアは廊下の壁板を一枚外し、その裏に隠れていた古い排水溝の栓を迷わず開けた。屋根職人たちはジョスランに挨拶こそしたものの、梯子を掛ける位置はナディアに尋ねた。
「西側からお願いします。食堂の梁は避けて」
「承知しました」
一人が彼女を何かの名で呼びかけたとき、オノリーヌが盆を卓へ置いた。
がたん、と皿が鳴る。
「職人の皆様。お茶が冷めます」
老家政婦に促され、男たちは即座に口を閉じた。ナディアがうなずくと、梯子が掛かった。
ずいぶん権限のある下働きだ、とジョスランは思った。
* * *
二度目の家賃精算は、乾いた寝室で行われた。
天井には新しい染みがない。寝台の敷布はさらりとして、夜中に水滴を避けて枕を動かす必要もなくなった。人間、頭上から水が落ちないだけで驚くほど眠れる。侯爵家の威厳より屋根。認めたくないが、屋根。
ジョスランは家賃の袋と一緒に、薪の束と卵を持ち帰った。
「薪代と食費は差し引いてある」
「請求先が違います」
ナディアは一度目とまったく同じ調子で袋を押し戻した。
「家賃は家賃です。卵は修繕費ではありません」
「では何費だ」
「食べる人の責任です」
「君も食べる」
「また条件ですか」
「十二個も私一人で食べたら、明日から鳴き声が出る」
「侯爵様なら気品のある鳴き方をなさいますよ」
「試さない」
二人で卵を食べた。ナディアの皿にも、ジョスランが二つ載せた。彼女は一つを戻そうとし、ジョスランは無言でもう一つ載せた。最終的に三つ載ったところで、ナディアが降参した。
薪を運ぶようになってから、彼女の指先のひび割れは少しずつ閉じた。卵を食べさせられるようになってからは頬の色も戻った。代わりにジョスランは毎朝起こされる側になった。眠れる。食べられる。非常に結構。元当主としては、世話をしているつもりの相手に生活を立て直されている点だけが結構ではない。
その午後、境界測量人が訪ねてきた。
「所有区画の確認図です」
差し出された筒へジョスランが手を伸ばすと、測量人の手が一拍止まった。
そして彼は、ジョスランの指を避けてナディアへ渡した。
「東の境界石は現状のままでよろしいですか」
「ええ。崩れた石垣だけ来月直します」
「承知しました」
測量人はナディアの返事を書き留め、彼女にだけ頭を下げた。
下働きではない。
少なくとも、ただの下働きでは。
新所有者の代理人か、屋敷に金を貸した債権者の身内か。そう考えれば、職人が彼女の判断を待つことにも説明がつく。
それでもナディアは夕食になると前掛けを締め、卵の焼き加減についてジョスランと争った。
「火が通りすぎている」
「生より安全です」
「安全と美味は両立する」
「侯爵家の財政は両立しませんでしたね」
「卵の話をしよう、ナディア」
* * *
「次の精算が済んだら、わたしは別邸へ移ります」
三度目の期限まで、あと五日。
ナディアは夕食後の食卓から一脚を持ち上げた。いつも彼女が座る椅子だった。脚が床を離れたところで、その手が止まる。
「なぜだ」
「屋根の修繕が終わりましたから」
「それは椅子を片づける理由にならない」
「二人分の食事を作る必要がなくなります」
「私は食べる」
「侯爵様は、お一人でも食べてください」
「君は」
ナディアは椅子を抱え直した。指はもう血が滲むほど荒れていない。その指が背板を強くつかんだ。
「別邸にも台所はあります」
そんなことを聞いたのではない。
だが、何を聞きたかったのかと問われれば困る。ここに残れと言うには、ジョスランには何の権限もない。彼自身が借家人である。しかも、貧しい娘へ住居を与える代わりにそばへ置く形にはしたくなかった。そんなものは厚意の服を着せた拘束だ。侯爵位は残っても、卑怯になるほどの体面は残っていない。
では雇用主に頼めばよい。
そう考えて、ジョスランはオノリーヌを呼んだ。
「ナディアの雇い主と話がしたい」
「何についてでございましょう」
「彼女をこの屋敷に残せないか、相談したい」
オノリーヌは茶器を一つずつ拭いた。質問された範囲を測っている顔だ。長年仕えた家政婦がこの顔をするとき、答えは必ず半分である。
「ナディア様は、どなたにも雇われておりません」
「では、なぜ下働きをしている」
「屋敷を守る人手が要る、と申し上げました」
「誰に」
「ナディア様に」
「私には、住み込みの娘がいると言ったな」
「はい」
「誰に雇われた娘かは言わなかった」
「お尋ねになりませんでしたので」
敵は借財ではなかった。省略だった。しかも先代からこの家に仕えた、最も強固な省略。
「ナディアは新所有者の代理人か」
オノリーヌは茶器を棚へ戻した。
「それは、ご本人にお尋ねくださいませ」
代理人。あるいは債権者。
ジョスランの中の前提はそこまで移動し、それ以上は動かなかった。動かす材料がない。いや、あった気もする。壁板。職人。境界図。だが、それらを一本の線に結ぶ答えだけは、彼の常識が丁重に追い返した。
ナディアが屋敷の主人なら、なぜ使用人のふりなどする。
まさか、自分をここに住まわせるために。
そこまで考えて、ジョスランは即座に却下した。うぬぼれにも格式というものがある。
* * *
三度目の精算日、ジョスランは今月分の家賃を持って食堂へ入った。
雨は降っていた。
だが、天井からは一滴も落ちてこない。
食卓には椅子が一脚だけ残されていた。ナディアは立ったまま、帳面を閉じる。前掛けはしていない。旅支度も見当たらない。それでも、暖炉の脇に置かれていた彼女の籠だけが消えていた。
「家賃だ」
ジョスランは袋を卓上へ置いた。
「受け取れません」
「三度目にして新しい反応だな」
「精算します」
「そのために持ってきた」
「お金ではなく、負担をです」
ナディアは帳面を開いた。細い指が最初の行に触れる。
「屋根の修繕代」
「家賃から差し引くべきだった」
「払ったのはわたしです」
指が次へ移る。
「三か月分の食費」
「私が持ち帰った薪と卵も入れろ」
「それは半月分にも足りません」
「豆とパンは君が買った」
「侯爵様は、わたしが食べないと召し上がらなかったでしょう」
「君は、私が食べないと自分も食べなかった」
「それは」
ナディアの指が帳面の上で止まった。
「仕事が忙しかっただけです」
「私もだ」
「何のお仕事ですか」
「君に見つからず夕食を抜く仕事だ」
「失敗続きでしたね」
「君の監視が厳しかった」
「台所を通らず寝室へ行けない屋敷ですから」
「よく知っているな」
ナディアは次の行へ指を逃がした。
「薪代」
「私だ」
「最初の一か月はわたしです」
「だから次の二か月は私が運んだ」
「おかげで侯爵様は二度、腰を痛めました」
「一度だ」
「二度です」
「二度目は棚から鍋を取っただけだ」
「三日間、右を向けませんでした」
「看病は頼んでいない」
「では、寝台の下へ落ちた薬はどうやって拾うおつもりでしたか」
「侯爵位の威光で浮かせる」
「一度くらい役に立つといいですね」
容赦がない。元当主に対する敬意はどこへ行った。おそらく雨水と一緒に排水溝へ流された。
ナディアの口元が少し緩んだ。
それを見て、ジョスランは袋の口から手を離した。
「看病の時間は、誰の負担だ」
「わたしの仕事です」
「誰にも雇われていないのに?」
緩んだ口元が戻った。
「オノリーヌから聞いた」
「どこまで」
「君には、屋敷を守る人手が要ると言った。私には、住み込みの娘がいると言った。非常に正確で、非常に役に立たない説明だった」
「オノリーヌらしいです」
「君は誰の代理人だ」
「代理人ではありません」
「では債権者か」
「侯爵様にお金を貸した覚えはありません」
「屋根の修繕費を払ったと言ったな」
「払いました」
「なぜ、雇われてもいない君が他人の屋敷に金を出す」
ナディアは帳面を閉じた。
ぱたん、と乾いた音がした。
「他人の屋敷ではありません」
ジョスランは卓上の袋へ目を落とした。今月分の家賃。彼が新所有者へ支払うはずだった金。これまで毎回、ナディアが受け取っていた。
受け取って、領収だけをオノリーヌへ預けていた。
「主人を呼んでくれ」
「ここにいます」
「新しい所有者を」
「ですから、ここにいます」
ジョスランは食堂の扉を見た。誰もいない。
窓へ目を向けた。雨に濡れた庭しかない。
暖炉のそばにも、廊下にも、人影はない。
もう一度ナディアを見ると、彼女は帳面の上へ両手を置いていた。逃げないように自分の指を押さえているような置き方だった。
「君が管理している、という意味ではなく」
「はい」
「代理で金を払った、という意味でもなく」
「はい」
「所有者本人を呼んでほしい」
「ですから」
ナディアは一度だけ息を吸った。
「この屋敷を相続したのも、わたしです」
雨音だけが窓を叩いた。
ジョスランの右手は、家賃の袋に触れたまま止まっていた。指先が袋の口をつぶし、中の硬貨が一枚だけ卓へ転がる。
硬貨は弧を描き、ナディアの帳面に当たって倒れた。
あの壁板。
あの職人たち。
あの境界図。
思い出してしまえば、どれもこれも説明ではなく答えだった。答えの前で元当主が一人、見事に間違い続けていた。三か月。毎日。朝晩。卵まで数えながら。
「つまり」
声が一度、喉に引っかかった。
「私は君の屋敷で、君を養っている顔をしていたのか」
「顔だけは立派でした」
「顔だけ」
「薪も運んでくださいました」
「二度、腰を痛めた」
「一度では?」
「二度だ。今、訂正する」
ナディアの唇が震えた。笑う寸前にも見えたし、別の何かを噛み殺しているようにも見えた。
食堂の扉が開き、オノリーヌが入ってきた。
両手に持った盆には、一通の書類が載っている。
「権利書でございます」
彼女はそれだけ言って、ナディアとジョスランの間に置いた。
「オノリーヌ」
「はい」
「知っていたな」
「先代から引き継ぎましたので」
「なぜ言わなかった」
「わたくしは嘘を申しておりません。どなたに置いていただいたかを省いただけです」
品格ある家政婦の一撃は、いつも刃が薄い。深く入る。
「私を置いたのは、ナディアか」
「はい」
「ナディアを住み込みの下働きとして紹介したのは」
「ナディア様のご希望です」
ジョスランが見ると、ナディアは権利書の端をつまんでいた。目が合った途端、指が離れる。
「なぜだ」
「それは、精算とは関係ありません」
「今までの精算で、関係があったものなど一つでもあったか」
「家賃はありました」
「その家賃を、屋敷の持ち主が台所仕事をしながら受け取っていた」
「台所仕事は嫌いではありません」
「私の寝具まで干した」
「雨漏りしていましたから」
「私が夕食を抜けば、鍋を持って追ってきた」
「倒れられると困ります」
「誰が」
「屋敷が」
「屋敷は豆の煮込みを運ばない」
「オノリーヌが」
「わたくしは運んでおりません」
老家政婦は即答し、盆を抱えて退室した。扉が閉じる。援軍に見えて、敵だった。しかも双方に公平な敵だ。
ジョスランは権利書を開いた。
ナディアの名がある。
確かめる必要など、本当はなかった。彼女の顔を見れば十分だった。視線はまっすぐなのに、両手だけが行き場を失い、帳面の角をそろえている。すでにそろっている角を、何度も。
「私は三か月、この屋敷を借りた」
「はい」
「君から」
「はい」
「君は私の使用人ではない」
「はい」
「君をここに置いていたのも私ではない」
「はい」
「君が、私を置いていた」
「……はい」
最後の返事だけが小さかった。
ジョスランは一歩、後ろへ下がった。
ナディアの手が帳面から離れた。
彼はもう一歩下がろうとした。借りた三か月は今日で終わる。家賃を精算し、鍵を返し、出ていく。それが筋だ。元当主が現所有者を使用人扱いし、厚意を施している顔までした。居座れる面の皮があるなら、屋根材に使えばこの家は百年もつ。
「侯爵様」
ナディアが食卓を回り込んだ。
ジョスランの足が止まる。
「どちらへ」
「部屋を空ける」
「なぜです」
「期限だからだ」
「三か月だけと決めたのは侯爵様でしょう」
「君が誰か知らなかった」
「知ったら出ていくと思いました」
ナディアはそこで口を閉じた。
ジョスランは彼女を見る。頬から色が消えていた。卓上に置いていた手が宙に残り、何かを引き留めかけて、できずに下がる。
「だから、言わなかったのか」
「……はい」
「下働きのふりまでして」
「住み込みの娘が一人いるだけなら、侯爵様は我慢なさると」
「我慢?」
「侯爵様は、施しはお嫌いでしょう」
「君に施しているつもりだった」
「それなら受け取れると思いました」
「君は私に庇護されるふりをして、私へ住む場所を与えたのか」
「侯爵様が勝手に庇護してくださったんです」
「訂正しなかった」
「訂正したら出ていくでしょう」
今度は、はっきり言った。
ジョスランの踵は食堂の敷居から三歩のところにある。ナディアとの間にも三歩。踏み出せば近づき、背を向ければ出ていける。たったそれだけの距離なのに、借財を整理したどの交渉より難しい。
「なぜ、私を残したかった」
「屋敷を守る人手が必要でした」
「屋根職人は足りていた」
「夜の戸締まりが」
「君は私より先に確認していた」
「重い物を運ぶ方が」
「二度、腰を痛めた」
「侯爵様が訂正なさる前は一度でした」
「理由になっていない」
ナディアは唇を結んだ。
「屋敷には、君とオノリーヌがいた。私である必要はない」
「ありました」
「なぜ」
「それを聞いて、どうなさるんですか」
「答えによる」
「出ていく理由に使うのでしょう」
「残る理由になるかもしれない」
「そんな曖昧な」
「君は三か月、私に雇用関係を曖昧にした」
「雇われているとは言っていません」
「オノリーヌと同じことを言うな。勝てない」
ナディアの肩が一度揺れた。
笑いを隠したのかと思ったが、違った。下げた手が前掛けのない服を探し、何もつかめず握られる。
「最初は」
声が細い。
「侯爵様が、三か月で出ていくと聞いたからです」
「それは知っている」
「眠っていない顔をして、何も食べずに、ここはもう自分の家ではないからと、どこにも触ろうとなさらなかった」
ジョスランは返せなかった。
「わたしが所有者だと知れば、初日にも出ていったでしょう」
「おそらく」
「だから、屋敷を守る下働きならいても不自然ではないと思いました。侯爵様が雨漏りの下で眠る三か月だけ、食事を作れれば、それで」
「それで別邸へ移るつもりだった」
「はい」
「私が眠れるようになっても」
「はい」
「君の手が治っても」
ナディアの握った指が緩んだ。
「それは関係ありません」
「ある」
「ありません」
「私が薪を持ち帰った」
「家賃とは別です」
「君が二人分の夕食を作った」
「仕事です」
「誰にも雇われていない」
「趣味です」
「ずいぶん腹の減る趣味だな」
軽口はそこまでだった。
ジョスランはナディアとの三歩を、一歩だけ詰めた。
「私は、君が貧しい下働きだから食べさせたのではない」
ナディアの顔が上がる。
「君が食べないから、食べさせた。寒そうだったから薪を持ち帰った。君が向かいに座らなければ、食事をする気にならなかった」
「それは、侯爵様が面倒な方だからです」
「そうだ。君も相当に面倒だ」
「存じています」
「私は、君をこの屋敷に置いてやっているつもりだった」
「はい」
「最低だな」
「顔だけは立派でした」
「そこは慰めてくれ」
「嘘になります」
もう一歩、近づく。
ナディアは動かなかった。
「君が所有者なら、私には君を残す権利がない」
「はい」
「君が出ていくと言えば、止める権利もない」
「はい」
「だから、私が出る」
ナディアの顔から、わずかに戻っていた色がまた消えた。
「それは」
「君の家だからだ」
「違います」
「権利書に君の名がある」
「そういう意味ではなくて」
「では、どういう意味だ」
ナディアの手が伸びた。
ジョスランの袖をつかむ寸前で止まる。
指一本分の隙間。
「雨漏りが止まったのは、職人が直したからです」
「ああ」
「寝室が乾いたのは、薪を使ったから」
「ああ」
「毎晩食事が二人分あるのは、わたしが作ったからです」
「ああ」
「でも、侯爵様がいなくなったら、一人分になります」
指が袖に触れた。
つかむのではなく、布地の上へ置いただけだった。
「それは嫌です」
ジョスランはその手を見た。治りかけた指先。薪を割った傷。鍋を持った跡。三か月、彼の寝具を乾かし、食事を作り、代金を誰の負担にするかで争い続けた手。
彼はその上へ自分の手を重ねた。
ナディアの指が、ようやく袖をつかむ。
「私もだ」
「何がですか」
「一人分になるのは嫌だ」
「食事の話ですか」
「それだけなら料理人を雇う」
「お金がありませんよ」
「大事なところで侯爵家の財政を刺すな」
「現状確認です」
「では確認しよう。私は侯爵位以外、ほとんど失った」
「はい」
「君は屋敷を持っている」
「はい」
「私は君に養われていた」
「半分ほど」
「そこは全部と言ってくれ。いっそ潔く傷つきたい」
「薪と卵の分は侯爵様です」
「細かいな」
「精算ですから」
ジョスランは重ねていた手を持ち上げた。ナディアの指が袖から離れそうになり、また強くつかむ。
離したくないのなら、最初からそう言えばいい。
そう思った直後、自分にも同じ言葉が刺さった。実に不公平だ。言えない者同士で三か月も暮らし、家賃と薪と卵に全部喋らせていた。人間の口は食べるためだけについているのではない。もっとも、食べることすらナディアに監視されなければ満足にできなかった男が言えた義理ではない。
「ナディア」
「はい」
「私は、君に部屋を与える代わりに求婚するような真似はしたくなかった」
彼女の指が固まる。
「君が断れば住む場所を失う。その形で選ばせるのは卑怯だと思っていた」
「はい」
「だが、私が住む場所を与えられていた」
「はい」
「しかも、断れば私が出ていく形だ」
「……はい」
「立場が完全に逆だな」
「そうですね」
「笑うところだぞ」
「まだ笑えません」
「私もだ」
ジョスランは彼女の手を袖から外した。逃げられないよう、その指を握る。
「だから、順番を変える」
「何のですか」
「庇護を取引にしない。君にここへ置いてもらえなくても、言うことは変えない」
ナディアが息を止める。
「君が好きだ」
彼女の目が大きく開いた。
「食事を作る君も、費用の請求先を一秒で訂正する君も、私の体面を雨漏りより役に立たないものとして扱う君も。使用人だからではない。屋敷の持ち主だからでもない。今、目の前にいる君と暮らしたい」
ナディアの唇が開く。
「それは」
「まだ返事はしなくていい」
「なぜです」
「続きがある」
「求婚に続きがあるんですか」
「私の場合はある。非常に情けない続きが」
ジョスランは手を離し、一歩下がった。
今度の一歩は、出ていくためではない。
彼は背筋を伸ばした。侯爵として人に頭を下げる作法なら知っている。領民に、債権者に、葬儀で弔問客に。だが、自分が生まれ育った家へ居候を申し込む作法は、どの礼法書にもなかった。
ないなら、作るしかない。
ジョスランは深く頭を下げた。
「ナディア。あなたが好きです」
「侯爵様」
「結婚してください」
息を吸う音が聞こえた。
ジョスランは顔を上げない。ここで見たら、体面が邪魔をする。もう十分邪魔をされた。最後くらい床でも見ていろ、侯爵家の体面。
「それから」
「まだあるんですか」
「これが最も重要だ」
ジョスランは頭を下げたまま、両手を身体の脇へそろえた。
「この家に置いてください」
ナディアが息を吐いた。
一度。
二度。
三度目で、それは小さな笑い声になった。
「求婚と居候の申し込みを一緒になさる方、初めて見ました」
「私も初めてした」
「お断りしたら?」
「荷物をまとめる」
「求婚をですか。居候をですか」
「どちらも君が決めてくれ」
「侯爵様なのに」
「元当主で、現借家人だ」
「今日で期限切れです」
「では無職の家なしだな」
「侯爵位は」
「雨漏りを受ける盆にもならない」
ナディアの笑い声が大きくなった。
ジョスランも顔を上げる。彼女は口元を押さえていた。冒頭の雨漏りの下で、濡れた体面を笑ったときと同じ仕草だった。
今度は隠しきれない。
「笑い事ではない」
「侯爵様が、侯爵様のお屋敷で、わたしに居候をお願いしているんですよ」
「君の屋敷だ」
「三か月前までは侯爵様のでした」
「三か月前の所有権は寝台を乾かしてくれない」
「ずいぶん現実的になりましたね」
「乾いた寝具と温かい夕食には、人を現実へ引き戻す力がある」
「卵も?」
「卵もだ」
「薪は?」
「腰を痛める」
「二度?」
「二度だ」
二人の声が重なり、また笑った。
窓の外では雨が降り続いている。食堂の中は乾いていた。暖炉には火があり、夕食の支度をすれば二人分を並べられる。片づけられた椅子を戻す場所も、向かい側に空いている。
ナディアは笑いながら目元を手の甲でこすり、それからジョスランの前へ立った。
返事を待つ彼の手を取り、指先を握る。
「侯爵様」
「はい」
「家賃は高いですよ」




