麦色の栗鼠は冬眠を遂げず
午前七時に起床し、一時間で朝食、洗顔、その他諸々の準備を済ませた後、家を出て高校へ向かう。
それが僕の平日の始まりのローテーションだ。
寝るときの環境調整をミスしたとか、急なお手洗いなどで予定が狂うこともなくはないが、全体的な睡眠時間は七時間プラマイ十五分以内になるように努力はしている。
五冊ほどの生活習慣に関する本を平均すると、睡眠時間は約七時間確保すべきとのことだったからだ。
ただ、今日は眩しさでも暑い寒いでもない、全く想定していなかったハプニングで、一時間早く――午前六時に目を覚ましてしまった。
初撃にクローゼットの中の物が崩れ落ちる音で睡眠状態を解除させる。
続けて、勢い良く扉が開け放たれる音、そこから堂々たる重く大きい足音で眠気を削いだ。
そして、僕の掛け布団を全て、豪快にめくり上げた。
「起きやがれ。朝だぞ、真行寺ミハル」
突然、冷たい外気を浴び、反射的に身をかがめる。
そんな僕の姿を冬眠する小動物と重ねているのか、黒髪の青年は目を細めて笑う。
僕は手を伸ばし、青年が奪った掛け布団を取り戻そうとしたが、あと一センチのところで、身をひねって遠ざけた。ギリギリの駆け引きを楽しんだように、青年は意地汚く歯を見せる。
*
「オレ様の名前はギルフォード。導霊だ。今後ともよろしく」
二度寝にありつけなかったので、僕はしぶしぶ予定を一時間早めて朝食にした。
スープ用の器にシュガー味のシンプルなコーンフレークと牛乳を注ぎ、それをキッチンで立って食べ進めていた。
おおよそ二分後、器の中身が半分くらいになったところで、隣に立つ青年が、脈絡なくそう名乗ってきたのだ。
僕はそれに反応せず、コーンフレークを食べ進める。
「……挨拶されたら挨拶しかえす。それはこの人間界でもマナーとしてあるだろ」
「……」
「いきなり起こされたことにまだ腹が立ってるのか?」
「……」
と、僕が沈黙していると、ギルフォードは僕が器に入れたばかりのスプーンを持つ手を押さえて、
「なあ、うんかすんか言えよ。よっぽどそんな貧相な飯がうまいか」
「怒ってることもあるけど、あなたが僕の名前を知っているようだから、いちいち説明しなくてもいいと思っただけ」
真行寺ミハル。それが僕の本名。久々にフルネームで耳にしたので一瞬戸惑った。それがかえってギルフォードが、僕の名前を呼んだことに気づいた。
「けど、何故それを初対面のオレ様が呼んだことについて疑問とかはないんだな」
「……」
少し持ち上がったスプーンが、再びギルフォードの手に止められた。
「……ないんだな?」
「……なんで僕の名前を知っているの?」
「それでよし。だが言うのが遅いぞお前。
オレ様は『お前を幸せにする』という使命を与えられて、はるばる遠くの天界からやってきたんだ。
対象者の名前と人物像も知らずに使命ができるわけないだろう? だから知ってるんだ」
「その導霊とかいうのも聞かなきゃダメかな」
「早く会話を終わらせたいからって先回りするな。まずオレ様の事前準備を欠かさぬ真面目さに感想を言え」
傲慢なギルフォードと、余計なラリーを増やしてしまった自分へ向けて舌を打ってから、
「準備は何よりも大切ですねはいはいところでその導霊とはなんですか?」
一切の抑揚なく尋ねてあげた。
「棒読みだな……まあいい。
導霊というのは聖なる世界『アリュシスト』の天界に住む、世の平和と発展を手助けする存在だ。
テメェの世界でいうとこの天使とか妖精とかと似たようなもんだと思えば楽だろう。
基本はアリュシストの人間界で使命をすることが多いが、時たまに外の異世界に出張することもある。
その時たまにで、オレ様はここに来たってわけよ」
「そう。それはご苦労さま」
「おう。他に聞きたいことは無いのか?」
「僕はいつになったらこれを食べられるの?」
僕は押さえられていない左手人差し指で、牛乳に浸かりきってフニャフニャになったコーンフレークを指して尋ねた。
「……あんまりベラベラ喋ると自己主張の強い奴になるからな……わかった、さっさと食え」
お前が邪魔しなければとっくに完食していたのに。と、口にすれば面倒くさくなりそうな言葉を先に飲み込み、すくっていたコーンフレークをようやく口に入れた。
*
歯磨きと洗顔をし、それと短く切り揃えた髪にサッと櫛を入れる。
朝食に食った時間を取り戻さなくては。僕はすぐに寝室に戻り、着替えを急ぐ。
制服のブレザーはクローゼットに掛けてある。
その手前にギルフォードが立っていて、
「じゃあまず、これをさっさと片付けろ」
扉が開け放たれ、制服一式や冬場の上着、布製のボックスとその中身が散乱している様を指さした。
僕は何も言わず、ギルフォードを睨め上げた。
するとギルフォードも僕を見下してきて、
「これくらい自分で片付けろ。会って一時間も立っていない男にベタベタ私物を触られたくないとかいう気持ちはないのか?」
何も言わないとコイツは好き勝手言ってくる。
僕はギルフォードの取扱説明書の一章を読み終えたようだ。
「僕が片付ければいいんでしょ。はいはい。
けれど、あなた、自分が散らかしてすまないとかいう少しの罪悪感はないの?」
「知るか。オレ様だってこんな埃っぽくて狭いところに入りたくなかったさ。
ただ、転移魔法の使用上、行き先を『お前の家』とまでしか指定できなかった。だからこんなところから出てきたんだよ」
「とはいっても……」
「すべこべ言わずさっさと片付けろ!」
ギルフォードの怒号に気圧され、僕は黙々とクローゼットを片付けた。
とはいっても、ハンガーに掛けていた服類を元通り吊るすだけ。掃除道具やいつ使うかわからない文具類を、元通り布ボックスに詰め直すだけなので、この作業自体に苦痛はあまりない。
ストレスとなるのは、いきなりクローゼットから現れた見知らぬ男に、そいつが散らかしたクローゼットを片付けさせられるという不条理についてだ。
「終わりました」
僕は恐らく六時前の状態に戻ったクローゼットの扉を閉じた。
「そんなもんでいいだろう」
導霊というものは天使や妖精のようなもの。と、さっきギルフォードは言っていたけれど、それは暗めのファンタジーにありがちな愚かな人間を見下している類のようなものという意味で言ったんだろうか。と、僕は内心腹立たしく思っていた。
「じゃあ僕は制服に着替えを……」
そう言って僕はさっき片付けたばかりのクローゼットを開ける。
「ところでお前、学校は何時に行くんだ?」
僕は部屋にある時計――六時五十分とある――を確認して、
「八時に行く。けれども心にゆとりを持って行動したいから……」
「心にゆとりを持って行動したいなら、他にもやることあるだろうが」
「けれども制服に着替えないと」
「今からやることは制服なんか着なくてもできる。学校行く前に汚すかもしれないしな。
そんなに着替えたいのはアレか? その寝間着をオレ様に見られたくないからか?」
「そんなわけない!」
変な風に思われたくないから先に言っておくと、別に僕は今、人に見られて恥ずかしい格好はしていない。
グレーのフランネル製の上下セットのパジャマを着ている。
自信過剰な女が着るような体のラインがはっきり出たりスケスケなものでは決して無い。そもそも別に僕は出るところが出るタイプのスタイルでもないし。
この地味な寝間着でも、ほんのりと曲線が浮かび上がっているのは少々癪ではあるけれども……
「あっそ、じゃあちょっと来い」
そこに付いた『ちょっと』がまるで意味をなさない語気でギルフォードに言われ、僕は数分ぶりにキッチンに戻る。
「これ、さっさと片付けろよ」
ギルフォードはそこで、シンクを指した。
中にはさっき使った器とスプーン。それと昨日、冷凍餃子を焼くのに使ったフライパン。茶碗二個、箸も三膳ある。
「ええ、今?」
「『ええ、今?』とは何だ。使った食器はすぐに片付けろ。さもないとこのシンクが食器で溢れかえるぞ」
「流石にそこまでは放置しないから。僕はある程度溜まったタイミングでまとめて洗う……」
「ミハル!」
「……はいはい、わかりました」
はぁ、面倒くさい。
家のキッチンには食洗機が備え付けてあるから、比較的芯のある汚れを落とせば、あとは文明の利器に丸投げできる。
僕が心のなかでつぶやいたという『面倒くさい』というのは、
「ギルフォード。あなたどうして僕に片付けだの皿洗いだの、細かい家事をやらせるの」
食洗機が作動している間、僕はキッチンから、ソファに勝手に座って、そこにある本を勝手に呼んでいるギルフォードへ言った。
「テメェがやるべきことをオレ様がわざわざ命令しているだけだ」
「あなた、さっき『僕を幸せにする使命』を受けて、ここに来たと言っていたけど、あなたの言う幸せというのは、上から目線で小言を言われることなの?」
「そんなわけあるか。
使命の対象者の生活を改めさせ、自分の力で住みやすい環境を作り出せるようにする。これがオレ様なりの『幸せ』の与え方の一つだ。
そのためにオレ様はわざわざ『整理整頓』という、人がして当然のことを言ってやってるのさ」
ギルフォードは僕のキッチンへ向かって、読んでいた本を広げて見せた。
「この時間術の本にも『整理整頓』は大事と書いてあるが?」
ギルフォードの状況利用の巧さにイラっとしつつ言う。
「……だからって、一時間も早く起こされてすることでもない」
「『早寝早起き朝ごはん』というのも健全で心のゆとりを作るために大切だと、この世界では言われていると事前準備で見たが」
「わかりました。これからは気をつけます」
洗浄完了の通知音という助け舟が来るのと同時に、僕はギルフォードの説教を中断させる。
水切りラックもあるのだが、きっとアイツは『放置するな』とでも言うのだろう。
僕は仕方なく、ホカホカの食器類を一つ一つ布拭きしていく。
ギルフォードは読んでいた時間術の本を、ソファー前のローテーブルに戻し、七時五分を指す時計を見てから、
「それ終わったらここも片付けろよ」
と、ローテーブルに積み重なっている、さっきの時間術のものを含む三十二冊の本へ顎を向けた。
「はいはい」
面倒くさい。それはこれから読む予定だから、手に取りやすいよう、あえてあそこに積み上げているのに。
けれどもきっとこれも言い訳と切り捨てられるのだろう。
僕はフライパンをIHヒーターの下の収納に置くと、直ちにローテーブルへ向かった。
*
七時四十五分。
ローテーブル上の本の片付けと、ついでのソファ周りのローラーがけを終わらせた。
途中途中、ギルフォードが「なんでこれがここにあるんだよ」、「ここ掃除したのいつだ?」、「こんだけ広い家住んでるくせにもったいないな」とか、グチグチぼやいているのがとても気分が悪かったが、なんとか終わらせた。
こうして僕は、ようやくクローゼットの前に戻った。
ギルフォードは部屋の外で待ってくれている。さっきのパジャマの指摘のこともあって疑っていたが、そういうデリカシーはあってくれて本当に助かった。
僕は灰色の長袖シャツとズボンを脱ぎ、ベッドへ投げる。
まず、クローゼットからYシャツを取り出し、スポーツブラを速やかに覆う。
次にスラックスへ両足を通し、ボクサーブリーフが完全に隠れるところまで上げて、ベルトを締める。
そしてサッとブレザージャケットを羽織り、通学用のリュックを片手で持って、部屋の外に出た。
「早いな」
「まあね。もう七ヶ月もやってるから」
そこからリュックを片手に、背後にギルフォードがあるままキッチンへ。
カウンターに置いておいたパン二つと、冷蔵庫にあるペットボトル入りのカフェラテをリュックに詰める。
この時、僕は忘れ物がないか確認する。
筆記用具、ファイル、宿題、よし。
仕上げに、背もたれのポケットにあるB5サイズのファスナーバッグを取り出し、中に三冊の文庫本が入っていることを確認し、リュックを閉じた。
「それじゃあ行ってくる」
「ああ、わかった」
リュックを背負って玄関へ歩く僕の後ろに、ギルフォードはまだついてきた。
「学校にまで来るの?」
「当たり前だ。使命がある。心配するな、周りに迷惑はかけないようにする」
ここも拒否権はないだろうから、僕は余計に口を開けないようにした。
玄関扉を開け閉めして、オートロックがかかった音を聞き流しつつ、僕は歩く。
途中、ギルフォードが、制服姿の僕のつま先から頭までを見て、
「これは悪口じゃないぞ。なんかテメェ、男子みたいだな」
「それはどうもありがとう」
これは決して皮肉ではない。ギルフォードへの初めての感謝の言葉だった。
――僕を、鎧姿として捉えてくれたことについて。
「しっかし、お前部屋中カーテン閉めてたからわからなかったが、いい眺めの家だな」
「もう飽きた。今はいちいちエレベーター使わないといけないストレスのほうが大きいよ」
と、言いつつ、僕は下ボタンを押し、三台ある内のいずれかが十二階まで来るのを待つ。
今度は何について文句をつけてくるのか。
と、二時間前に現れた、横にいる導霊さんの動向に内心怯えながら。
【完】




