百合の花の咲く丘で
昼下がりの風は、丘の上のレストランをやわらかく包んでいた。
白い壁と木の梁、ガラス越しに見える花畑。
看板には、控えめに「百合の花の咲く丘で」とだけ書かれている。
まるで時間の流れがゆるやかになるような、そんな場所だった。
ドアベルが軽やかに鳴る。
若い女性3人組が、弾むように店へ入ってきた。
「え~、遠かった~! でも、めっちゃ雰囲気いいね」
「てか、イケメンばっかじゃない?! 厨房見えるし!」
「ねぇ、あの子かわいい~! 写真撮っちゃお~!」
無邪気な声が広がる。
フロアで接客していた春海 陽真は、トレイを抱えたまま固まった。
茶色の髪が少し跳ねている。笑顔をつくろうとしたが、目が泳ぐ。 顔の造形は完璧だが顔以外は弱い。
彼の背中をそっと支えるように、オーナーの百合ヶ丘 美咲が前に出た。
「ようこそ、百合の丘へ。本日はありがとうございます」
やわらかく頭を下げる美咲の声には、春の光のような優しさがあった。
客たちは一瞬だけ会釈を返したが、すぐにスマホを構えてはしゃぎ始めた。
厨房では、鉄板の上で鴨肉がじゅうっと音を立てていた。
仕込みを終えた神崎 煌が、逞しい腕でフライパンを軽く振る。
赤髪は無造作に流れ、火の熱で頬がわずかに紅く染まっている。
その姿は、まるで“戦場に立つ料理人”だった。
「4番テーブル、鴨のソテー上がりまーす!」
香ばしい匂いが立ち上り、奥で包丁を磨いていた久遠 創始がわずかに顔を上げた。
銀髪の前髪が影を落とし、切れ長の目が鋭く光る。
無言のまま、ガラス越しに客席を見やる。
若い女性客がスマホをこちらへ向けていた。
「……またか」
隣でデザートの仕込みをしていた滝山 瑛士が、低くつぶやいた。
白いコック服に映える整った顔立ち。
指先まで美意識が宿っていて、まるで“皿の上の芸術”だった。
久遠は何も言わず、目線だけで春海に“止めろ”と伝える。
だが春海は、気づいたように肩を震わせただけで足が動かない。
その小さな沈黙のあとで、久遠の短い息が聞こえた。
ため息とも、呆れともつかない音だった。
テラス席の向こうでは、年配の夫婦が静かに食事をしていた。
ナイフとフォークの音が、控えめなピアノの旋律に溶けていく。
一方で、若い3人組のテーブルは笑い声で満ちていた。
「ねぇ、見て見て。あの料理人、マジで顔面国宝じゃん!」
「タグ付けしよ~、“#百合の丘 #天使降臨”」
「注意してこないし、ラッキー~!」
厨房の空気がわずかに緊張する。
美咲は静かに近づき、丁寧に声をかけた。
「恐れ入りますが、他のお客様のご迷惑になりますので──」
「うるさいなー、オバサン」
その一言に、時が止まったように感じた。
美咲の唇がわずかに震え、春海が息をのむ。
久遠は厨房の奥から、何も言わず包丁をまな板に置いた。
刃先が金属の音を立てて震えた。
閉店後、厨房の灯だけが残っていた。
春海は洗った皿を重ねながら、ぽつりとつぶやく。
「……僕、注意できなかった」
神崎がタオルで手を拭きながら、笑うように言った。
「無理すんなって。俺が出てってもよかったっすか?」
久遠は黙ったまま、包丁を拭いてから冷蔵庫のドアを閉める。
「厨房にまで騒ぎが届くなら、客を選ぶべきだ」
その言葉に、空気がひんやりとした。
滝山が口を開く。
「会員制にして、マナー違反の客は出禁にしよう」
理人も無言で頷き、他のスタッフもそれに賛同した。
けれど、美咲は首を横に振る。
「……でも、おばあちゃんは言ってたの。
『食べたい人を選ぶな』って。どんな人でも、料理は救えるって」
静かな厨房に、換気扇の音だけが響く。
美咲の手のひらには、今もあの少女たちの言葉の刺が残っていた。
それでも彼女は、小さく笑って言う。
「……もう一度、考えよう。
ここが“誰かの居場所”であるために」
その声を、春海は黙って聞いていた。
胸の奥に、小さな灯がともるのを感じながら。
営業を終えた店の裏口。
夜風が静かに吹き抜け、厨房から漂う甘いバニラの香りが、遠ざかるように消えていく。
制服のままの春海は、片手にゴミ袋を持って外へ出た。
街灯の下に、ひとつの影が立っていた。
「……え?」
見覚えのある顔。
昼間、写真を撮っていた女性客だった。
「あ、やっぱり出てきた~! 今日もかわいかったよ♡ お肌ツルツルで可愛い♡ やっぱ若いっていいよね♡」
女の口元には、にやりとした笑み。
その無邪気な声に、春海の背筋がぞわりと冷えた。
「……すみません、帰ります」
彼は目を合わせず、足を早める。
女が追いすがるように言った。
「え~、遊びに行かないの? って言っても、遊ぶとこたいしてないけどね~。
私わざわざ上野から来たの、鎌倉まで」
軽い調子の言葉に、春海の胸がひゅっと縮まる。
返事の代わりに、彼は駆け出した。
裏通りの影に身を隠し、肩で息をしながら心臓を押さえる。
遠くで、街灯がチカチカと瞬いた。
夜の静寂に、自分の呼吸音だけが響く。
翌朝。
いつものように店の前を掃きながら、春海は郵便受けに違和感を覚えた。
1通の封筒。差出人の名はない。
普段なら他にDMや請求書が混ざっているのに、どうしたんだろうかと首を捻った。
「……なんだろ」
開けた瞬間、息が止まった。
中には──昨日の女性客の裸の写真。
挑発的な笑みを浮かべ、カメラに手を伸ばしている。
「う、わああっ!」
驚きのあまり腰を抜かし、その場に尻もちをついた。
ドアの音がして、神崎煌が顔を出す。
「どうした、春海?」
床に散らばった写真を見て、眉をひそめた。
「これぐらいでビビんなって。
しっかし気持ち悪いな、これ」
言葉は荒いが、神崎の声には怒りがにじんでいた。
春海は何も言えず、ただ震える手を見つめるしかなかった。
その日の午後。
春海が買い出しに出た帰り、ふと背中に視線を感じた。
振り返ると、遠くの歩道に立つ女性がスマホをこちらへ向けている。
「……?」
美咲が気づき、眉をひそめた。
「え、今の人……春海くん撮ってた?」
「……わかんないです。でも、ちょっと怖いかも」
美咲は迷わず走り出した。
「確認してくる!」
「え、ちょ、ちょっと危ないですって!」
春海が慌てて止めようとするが、美咲は振り返らなかった。
その背中には、強い決意があった。
「すみません!」
美咲は女性に近づき、毅然と声を上げた。
「春海くんにこれ以上近づかないでください」
「は? オバサンが偉そうに。
あんたみたいな普通の容姿のオバサンが、あんなイケメンパラダイスにいるなんて不公平。店なんか潰してやるよ!」
「私まだ27です。これ以上の侮辱・付きまといは、警察に通報します」
「うるさいんだよ!」
女の手が突き出された。
美咲は避ける間もなく、地面に倒れ込む。
手首に強い衝撃。
掌に血がじんわりとにじむ。
その瞬間──
「おい、待て!」
神崎が飛び出した。
怒りを噛み殺しながら走り出すが、不自由な足がもつれて転びそうになる。
女は逃げた。
神崎は歯を食いしばり、拳を握る。
「……クソッ、守れなかった……」
その背中を見つめながら、春海は唇を噛んだ。
胸の奥に、熱くて苦いものが込み上げてくる。
夜。
静かな店内に、スタッフが集まっていた。
包帯を巻いた美咲が、皆の前に立つ。
「ごめんなさい。心配かけて」
けれど、誰も責める者はいなかった。
その代わりに、久遠が静かに言った。
「オーナーが怪我した。これはもう、料理人の誇りの問題だ」
滝山が鋭い目を向ける。
「美咲の手が傷ついた。皿を持てないなら、誰が料理を届ける?」
「証拠を集めよう。店を守るために」
経営担当の維川 理人が腕を組み、冷静に告げる。
白いシャツの袖が、腕の動きに合わせてわずかに揺れる。
細身の体にぴったりとしたスラックス。
黒髪はきっちりと整えられ、横顔は彫刻のように端正だ。
美咲の幼馴染み、ひなたが勢いよくスマホを掲げた。
「SNS探る! タグ付けしてたでしょ、あの女!」
春海は俯き、そして小さく顔を上げた。
「僕も……僕も、ちゃんと動きます」
その言葉に、誰もが頷いた。
この瞬間、彼らはただの同僚ではなく、“仲間”になった。
百合の丘のレストランが誰かに選ばれる場所から、誰かを守る場所へと変わっていく瞬間だった。
防犯カメラの映像と、あの気味の悪い写真を警察に提出してから3日後。
店の裏口には、ひんやりとした夜風が流れていた。
その闇の中で、また“あの女”が現れた。
ごみ袋を踏みつけ、何かを探すようにうろつく姿。
神崎が静かにポケットからスマホを取り出す。
「……今です。裏口」
通報を受けて、すぐにパトカーのサイレンが鳴り響く。
赤い光が夜を切り裂き、制服警官が女の腕をつかむ。
「離して! あたしは悪くないの!」
叫びながらも、女の目は焦点が合っていない。
春海は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
「……本当に、終わったんですか?」
警察車両のテールランプが遠ざかるのを見つめながら、春海がぽつりとつぶやく。
美咲はその隣に立ち、少し笑って言った。
「うん。でも、怖かったらいつでも言ってね」
その声は優しく、けれど芯があった。
神崎が腕を組んで、低くつぶやく。
「俺は、見張り続けるけどな」
春海は、何も返せなかった。
ただ、胸の奥で静かに──感謝と悔しさが、同じ温度で溶けていった。
事情聴取の後。百合の丘のミーティングテーブルには、コーヒーと疲労の匂いが漂っていた。
久遠が深く息を吐き、ゆっくりと切り出した。
「これ以上、料理人が傷つくなら、店の意味がない」
滝山が頷く。
「安心して皿を出せる空間が、料理の美しさを支える」
維川は資料を広げながら、冷静に言葉を重ねた。
「会員制にすれば、客の質も保てます。信頼できる人だけに食べてもらう。それでいい」
少しの沈黙ののち、美咲がカップを両手で包むようにして言った。
「……おばあちゃんは『食べたい人を選ぶな』って言ってた。でも、私は…守る方を選ぶ」
その瞬間、店内の空気が変わった。
誰も反対しなかった。
“選ばれた場所”としての百合の丘が、ようやく形になった。
厨房の奥。
ステンレスの音だけが響く静かな夜。
春海は、冷蔵庫の前で立ち尽くしていた。
神崎が黙々と包丁を研いでいる。
「僕……何かしなきゃって思うんですけど……何していいか、わからなくて」
神崎は研ぎ石の上で刃を滑らせながら答えた。
「焦んな。動ける時に動け」
「でも…僕、何もできなかった…オーナーが怪我したのに…」
研ぎの音が止まる。
神崎は包丁を置き、春海を見た。
「じゃあ、次は守れ」
短く、それだけ言って再び刃を磨き始める。
春海の喉が鳴った。
──次は、守る。
ストーカー逮捕から数日後の夜。
客のいないカウンターで、美咲は静かに急須に湯を注いでいた。
「春海くん、少し休もうか」
差し出された湯呑みから、ほうじ茶の香ばしい香りが立ちのぼる。
「……僕、守られっぱなしで、何もできなくて……」
春海の声は震えていた。
美咲は微笑んだ。
「でも、怖かったでしょ? それを言えるだけで、十分だよ」
春海は唇をかみ、うつむいた。
「僕、姉が5人いて……ずっと怒られてばかりで……女性が怖くて……」
「……そっか」
美咲はそっと彼の前に座る。
「でも、ここでは怒らないよ。守るから」
その言葉に、春海の目が潤んだ。
ぽろりと涙がこぼれる。
「……美咲さんがいてくれて、よかったです」
その夜、厨房の明かりはいつもより長く灯っていた。
誰もいない客席に、湯気だけが静かに揺れていた。
夜の厨房。
計算機の音が、まるで雨音のように静かに響いていた。
維川理人は、帳簿を閉じながら低く言った。
「店までの交通アクセスが悪い、SNSへの顔出し無し、会員制……このままじゃ赤字です」
その声に、空気が沈む。
美咲は唇を噛んだ。
「でも、スタッフを守るためには……」
久遠がゆっくり顔を上げる。
「料理の質を落とすくらいなら、潰れた方がいい」
滝山がため息をついた。
「でも、客が来なきゃ皿は空のまま」
沈黙が落ちた。
理人はペンを机に置き、腕を組む。
「……俺が、フロアに出ます。仕方ないので」
美咲が驚いたように目を上げた。
理人の表情には、決意というより“観念”の色があった。
経理の負担、美咲の怪我。誰かが動くしかなかった。
翌日。
スーツの上に黒いエプロンをかけた理人が、ぎこちなく客席に立っていた。
客の1人が、目を見開く。
「えっ、あの人……維川グループの理人じゃない?」
「マジ? なんでこんなとこに?」
ざわめきが広がる。
理人は無表情のまま「失礼いたします」とだけ言ってワインを注いだ。
その背中に、針のような視線が突き刺さる。
カウンターの向こうから、美咲が不安そうに見守る。
そして、客が調子に乗ってスマホを構えた瞬間──
「写真はお断りです」
神崎の低い声が響いた。
包丁を拭う手が止まり、目が鋭く光る。
客はたじろぎ、スマホをしまった。
理人は、ふっと小さく息を吐いた。
営業終了後。
照明が落ちた厨房で、久遠が問いかけた。
「身元を隠していた理由は?」
理人はエプロンを外しながら答える。
「俺は、自由が欲しかっただけです」
久遠の眉がわずかに動く。
「料理人は、逃げるために厨房に立つんじゃない」
「じゃあ、あなたは何のために立ってるんですか?」
理人の声が鋭くなる。
「味もわからないくせに」
刃のような沈黙。
久遠は包丁を置いた。
「……それでも、俺は料理人だ」
その言葉に、理人の目が揺れる。
空気が張り詰めたまま、美咲が割って入った。
「やめて、2人とも……」
その声に、2人はようやく手を止めた。
夜。
理人は店の裏口で一人、スマホを見つめていた。
画面には、“維川グループ本社”の着信履歴。
「戻ってこい。遊びは終わりだ」
そのメッセージを無言で見つめ、彼はゆっくり息を吐いた。
目を閉じると、美咲の笑顔が浮かぶ。
「……俺が選ぶのは、ここだ」
そうつぶやき、スマホをポケットにしまうと、店のドアを開けた。
「俺、経理だけじゃなくて、接客もやります。ここを守るために」
美咲が微笑む。
神崎が短く「上等だ」と返した。
数日後の昼下がり。
「百合の丘」のガラス戸を、風が静かに揺らした。
白いスーツの男たちが、規則的な足音で店に入ってくる。
無駄のない動き、光を吸うような黒髪──企業の影のような存在。
「理人様、もう十分でしょう。お戻りください」
その呼び方に、空気がわずかに緊張する。
理人はカウンターに置いたコーヒーカップを、そっと下ろした。
冷めた液面が微かに波紋を描く。
彼──維川 理人
整った横顔、切れ長の瞳は光を反射するたびに淡い銀を帯び、深海のような静けさをたたえている。
白いシャツに、黒いベスト。どこまでも清潔で、感情の影を見せない青年だった。
「……俺は、ここで」
穏やかな声が、しかし確固たる拒絶を含んでいた。
「このままでは、店に圧力がかかりますよ」
その一言で、室温が下がったように感じた。
「やめてください!」
声を上げたのは、美咲だった。
その瞳は、泣くのを堪えるように真っ直ぐだった。
理人は立ち止まり、ほんの少しだけ振り返る。
視線がぶつかり、時が止まる。
「あなたは……お祖母様に似てます。目が、特に」
一拍の沈黙。
「大学を出て、父の後継として仕事を始めた頃『才覚がある』って言われて、すぐに注目されました。
でも、それと同時に、身辺で不可解なことが増えた。
毒殺未遂が何度かあって……食事が、喉を通らなくなりました」
言葉を落とすたび、理人の瞳が遠くを見た。
ガラス越しの光が、その頬を淡く照らす。
「入院してた時、あなたの祖母・美園さんがボランティアで差し入れしてるのを見た。
湯気が立ってて、優しい匂いがして……
『あれなら食べられそう』って思った。
それが、俺と彼女と……この店の出会いでした」
美咲の瞳が潤む。
掌を胸に当て、震える声を押し出した。
「そうだったの……だったら尚更、戻っちゃだめよ。
あなたが“生き直した場所”なんでしょう?」
理人は微笑んだ。
それは、氷のように冷たくも、どこか温かかった。
「俺は、もう回復しました。
これ以上……逃げるわけにはいかない」
男たちが静かに彼を囲み、去っていく。
扉のベルがひとつ、乾いた音を立てた。
残された店に、重い沈黙が落ちる。
春海は拳を握りしめ、神崎は壁を殴った。
その拳跡の粉塵が、光の中で舞う。
閉店後。
滝山は厨房の片隅で、コーヒーをすすりながらつぶやいた。
「……あいつ、嫌いだったけど、あの顔で皿を出すのは悪くなかった。
店を守ろうとしたことは、評価しようじゃないか」
と、長い真っ直ぐな黒髪の結び目をほどいて、背中に流す。
美咲が静かに見つめる。
「滝山さん……」
「俺の方で、なんとかなるかもしれない。昔のツテ、使ってみる」
そう言ってスマホを取り出す。
画面には、懐かしい名──子役時代に所属していた芸能事務所の社長。
維川本社。
黒曜石のような床、鏡のような壁。
理人は会議テーブルの前で、無表情のまま書類を見つめていた。
「もう遊びは終わりだ。お前は“維川”だ」
低く響く父の声。
白髪交じりのスーツ姿、冷徹な瞳が息子を値踏みするように見下ろす。
「……俺は、あの店で“人”になった。
ここでは、“名前”しかない」
父は冷笑する。
「名前があれば十分だ。感情など不要だ」
理人は机の下で拳を握った。
その手は、厨房で皿を運んだ時よりも震えていた。
芸能事務所の社長室。
壁一面に飾られたポスター、流れるジャズ。
滝山はスーツ姿で立っていた。
火傷の跡を隠すためのシャツの袖が、少しだけ窮屈そうだった。
「理人を維川から引き戻したい。
そのために、俺を使ってくれ。顔出しでも、契約でも、何でもいい」
社長は目を細める。
白髪混じりの髪を撫でつけ、ゆっくりと笑う。
「君が戻るなら、維川に話は通せる。だが、代償は大きいぞ」
滝山は頷いた。
「わかってる。……でも、あいつの“居場所”を守りたい」
百合の丘の厨房。
昼の光が差し込み、パンの香りが満ちる。
ドアのベルが鳴る。
振り向いた美咲が、息を呑んだ。
「理人さん……!」
黒のスーツ姿の彼が、静かに立っていた。
頬は少し痩せ、目の下に隈がある。
それでも、その瞳には確かな光が戻っていた。
「滝山さんが、俺の代わりに“顔”を出した。
だから、俺は戻れた。……でも、これは俺の責任だ」
厨房の隅で、滝山が調理器具を拭いていた。
そして顔を上げ「そういうわけだから、悪いけど明日からいなくなる」と、肩を竦めた。
誰も言葉を返せない。
ただ理人だけが、口を開いた。
「その前に出して貰いますよ」
「……はっ?」
夜の厨房。
春海は、試作品のムースをスプーンで1口すくった。
「このムース……滝山さんのと全然違う……」
久遠が隣で腕を組む。
「構成は合ってる。だが、何か足りない」
「僕の舌じゃ、何が違うのか分からない……」
春海の声が小さく震えた。
久遠は短く息をつく。
「……俺も、再現はできない。味覚が違う」
厨房の奥から、美咲がそっと見守っていた。
その背中が、ひどく小さく見えた。
翌日。
春海が頭を抱えていると、美咲の幼馴染み・ひなたが厨房を覗いた。
「ねえねえ、このムースって“冷やしすぎ”じゃない?」
「えっ……でも、レシピ通りに……」
「滝山さんってさ、見た目より“口どけ”重視してたじゃん? ちょっと常温に近づけたら?」
久遠が眉をひそめる。
「……それは、理論的には破綻してる」
春海は、真剣な顔で頷いた。
「でも……やってみます!」
再挑戦。
温度をわずかに上げ、ふるわせながら冷ます。
スプーンを入れると、空気のように軽い。
久遠が一口食べた。
無言。
その沈黙に、全員が息を飲む。
やがて、久遠が静かに言った。
「……この食感だ」
「ほんとに……?」
春海の声が震える。
美咲が微笑む。
「うん。春海くんの味になってるけど、滝山さんの魂もある」
春海は目を潤ませた。
「……よかった……」
その横で、ひなたが胸を張る。
「え、マジで? あたし天才?」
空気を読まない一言に、みんなが吹き出した。
久しぶりに、厨房に笑い声が戻った。
「よし、このままアイツの移籍先のブランドを揺るがす新商品を作ってやるんだ。
そうすればお払い箱になって帰ってくる」
久遠の言葉に、一瞬みんなキョトンとする。
滝山は留学経験こそないものの、名の通ったパティシエだ。
容姿も美しく知名度もある。
簡単に、お払い箱などなるはずがない。
「お、おー! その通り! まずは気合いだ!」
神崎が拳を上げると、全員がぎこちなくそれに続いた。
応接室の窓辺。
理人は夜景を見ながら、静かに呟く。
「俺は、数字でしか人を守れないと思ってた。
でも、あの店では……誰かが俺のために動いた。それが、怖かった。
“守られる”って、こんなに痛いんだな」
机の上には、滝山から強引に奪った契約書のコピー。
その署名欄に、滝山の名前があった。
「……俺が戻ることで、誰かが傷つくなら。それでも、戻る価値があるなら。
俺は、もう一度ここで人になる」
理人と春海が制服姿でフロアに立つと、あっという間にSNSが火を吹いた。
「#イケメンしかいないレストラン」「#百合の丘、奇跡の二人」
ひなたは、満面の笑みでスマホを操作する。
「タグ付け完了! バズらせるぞ~!」
久遠が腕を組み、ぼそりと呟いた。
「……料理の質は落とすなよ」
美咲は小さく笑う。
「でも、これで……滝山さんを取り戻せるかも」
予約は殺到し、再び厨房が熱を取り戻した。
そして、借金をしてでも“滝山買い戻し”を行う計画が動き出した。
夜、帳簿を前に理人が言う。
「店も軌道に乗りました。借り入れすれば、滝山さんの契約解除金も払えるはずです」
美咲は首を振る。
「でも……それだけじゃ足りない。気持ちも届けたい」
春海が、静かにムースを差し出す。
「僕のムース、滝山さんに食べてほしいです」
スイーツブランドの撮影スタジオ。
ライトがまぶしく、滝山は白衣のまま立っていた。
「次、笑顔でお願いします」
カメラマンの声に、滝山は無言で頷く。
シャッター音だけが響いた。
──けれど、その笑顔は、どこにもなかった。
静かな住宅街。
滝山の部屋では、オーブンの音だけが鳴っていた。
甘い香りの中で、インターホンが鳴る。
「……誰だよ」
「私です。美咲です」
一瞬の沈黙。
ドアの向こうから、低い声が返る。
「……帰れ。俺はもう、そっちの人間じゃない」
それでも、美咲はドアの前に立ち続けた。
手に持つのは、小さなスイーツの箱。
美咲は箱を差し出しながら言った。
「あなたがいなくても、レストランの経営はできる」
滝山の眉がわずかに動く。
「……なら、なんで来た」
「でも、あなたが必要なのは“仲間”だから」
その言葉に、滝山は息を詰めた。
「このスイーツ、春海くんが作ったの。
あなたの味を、みんなで守ってる」
滝山は、箱を受け取らなかった。
美咲は静かに頭を下げ、玄関前に箱を置いて去っていく。
滝山は、玄関の前で立ち尽くしていた。
やがて、スイーツの箱を拾い上げ、そっと開ける。
1口。
舌に、懐かしい優しさが広がる。
「……まだ、甘いな」
それでも、口元がかすかに緩んだ。
箱の底には、1枚の手紙。
*「帰る場所は、ちゃんと残しておきます」*
滝山は、手紙を胸に当てて、静かに目を閉じた。
そして、ほんの少しだけ、笑った。
沖縄の海が焼けるように青い。
滝山の表情は変わらなかった。
白いコックコートの胸元を留めながら、カメラの前で無表情に立っている。
「滝山さん、次は海外展開の話も来てますよ」
マネージャーが台本をめくりながら軽い調子で言う。
「……俺、飛行機嫌いだ」
「またそれですか。どうにかまりません?」
「無理。美園さんがいないと。
昔、腐ってた俺を拾ってくれた人だ。あの店に連れてってくれた」
マネージャーは一瞬だけ黙った。
滝山は視線をカメラから外し、海の向こう──遠い記憶を見ていた。
その記憶は、22歳の冬。
フランス留学を目前にして、滝山を乗せるはずだった便が、ハイジャックされた。
同じ便に乗る予定だった知人は帰らなかった。
以来、空を飛ぶことが、滝山には「生き残った罪」そのものになった。
行き場をなくした彼を拾ったのが、調理師学校時代の恩師である美咲の祖母・美園だった。
「皿を腐らせるな。お前の味は、まだ生きてる」
その言葉が、滝山を厨房に引き戻した。
──そして今、彼のスイーツは、ブランドの広告塔として売られている。
その笑顔は、どこにもなかった。
沖縄のロケバス。
滝山は、白衣のまま車内でコーヒーをすすっていた。
テレビが報道特番に切り替わる。
「人気レストラン“百合の花の咲く丘で”にて、厨房から出火。
スイーツ担当の春海陽真氏が倒れ、現在も意識不明との情報も──」
画面には、焦げた厨房。
床に落ちた絞り袋。
スタッフがざわめく中、滝山はスマホを手に取る。
着信は、ない。
メッセージも、ない。
美咲からは、何も来ていない。
美咲の名前を何度もタップする。
コール音だけが虚しく響く。
「……出ろよ……っ」
もう1度。
もう1度。
それでも、繋がらない。
滝山は歯を食いしばり、スマホをミニテーブルに叩きつける。
「……くそっ」
立ち上がり、荷物を乱暴に詰め始める。
スタッフが驚いて声をかける。
「滝山さん、次の撮影が──」
「キャンセルしろ。俺は、帰る」
その声には、焦りと怒りと、
“守りたいもの”への衝動が詰まっていた。
空港ロビー。
滝山は搭乗口の前で、立ち尽くしていた。
指先が震えている。
吐く息が白く、胸の奥まで冷たかった。
「本当に行くんですか? 契約、どうするんです?」
マネージャーの声は焦っていた。
滝山はゆっくり答えた。
「俺が腐ってた時、あの店が拾ってくれた。
今度は、俺が拾いに行く番だ」
そう言って、歩き出す。
搭乗口を抜け、機内に入る。
シートに座り、深く息を吐いた。
窓の外には、滑走路の光。
滝山は、手を握りしめながら目を閉じた。
エンジンの轟音が、かつての恐怖を塗り替えていく。
──飛ぶことは、逃げることじゃない。
──帰るための勇気だ。
入院病棟。
春海のベッドを囲むスタッフたちが、思わず振り向く。
入り口に滝山が立っていた。
「……滝山さん」
美咲の声が震えた。
滝山は軽く顎を上げて、短く答える。
「皿が腐る前に、戻ってきた」
包帯を巻いた春海が、ゆっくりと起き上がる。
「滝山さん……来てくれたんですか……」
滝山は微笑を浮かべ、彼の髪を軽く撫でた。
「ムース、悪くなかったぞ。でも、冷やしすぎだ」
久遠は無言でコック帽を差し出した。
理人は笑って言う。
「じゃあ、もう1度やり直そう。今度は全員で」
滝山は深く頷き、荷物を抱え直した。
その背に、春海、美咲、久遠、神崎、理人──
それぞれの思いが重なっていく。
滝山の契約解除金は、店が借金して支払った。
誰も文句を言わなかった。
それは“経費”ではなく、“家族を取り戻すための代価”だったからだ。
厨房の音が、再び生き返る。
フライパンの音、湯気の匂い、甘い香り。
そのすべてが──「帰還」の証だった。
夜の風が冷たい。
厨房の明かりが落ちた裏口で、神崎はゴミ袋を片手に外に出た。
月が皿のように浮かび、静寂を切り裂くように──
遠くで、エンジンの音が止まる。
「……ん?」
細い路地の向こうから、バイクを乗り捨てた男が歩いてきた。
フラついている。
その腕には、真っ赤な血がにじんでいた。
「おい、何だ……」
神崎が思わず1歩踏み出す。
ちょうどそのとき、美咲たちが裏から顔を出した。
「また借金の申し込み?」
美咲が苦笑する。
だが、久遠の表情が変わった。
「いや……様子がおかしい」
春海が息を呑む。
「血塗れだ……!」
男は、何かを言おうとしたが、喉から漏れたのは掠れた息だけ。
次の瞬間、膝を折り、神崎の胸に倒れ込んだ。
「おい! しっかりしろ!」
神崎が支える。
血の匂いが、夜気を鋭く切った。
男の唇が震え、かすかな声を漏らした。
「……煌……アイツが……ムショから出てきた……」
神崎の表情が、音を立てて固まる。
「……誰が」
「牙の涼……お前が潰した、あの男だ……」
その名が落ちた瞬間、空気が変わった。
美咲は息をのむ。
「牙の涼……?」
久遠が低く呟いた。
「それは、ただの名前じゃない。神崎の過去が、動き出すぞ」
滝山がゆっくりと息を吐きながら言う。
「夜牙っていう千葉の有名な暴走族あって、神崎はその総長・牙の涼を1人で潰した。
……ただの喧嘩じゃない、“決着”だった」
沈黙。
夜の空気が重く沈む。
倒れた男の呼吸が、かすかに途切れた。
翌朝。
まだ朝日が昇る前、厨房のカウンターに辞表と書かれた1通の封筒が置かれていた。
「……行かなきゃいけないとこがある」
入口で神崎が言った。
背中には革ジャン、視線はまっすぐ。
「待って、話を──!」
美咲が叫ぶが、神崎は首を振った。
「もう決めた。止めるな」
そのまま、扉を開けて出ていく。
冷たい風が厨房を抜けた。
「煌さん!」
春海が駆け出そうとした瞬間、久遠が腕を掴んだ。
「追いかけるな。今は、あいつの時間だ」
理人が歯を食いしばる。
「でも、放っておけない」
滝山が静かに言う。
「……あいつ、ああ見えて一番“店”に執着してた。
血の匂いより、厨房の匂いを選んだ男だ」
春海は唇を噛んだ。
「僕……煌さんに守ってもらったのに、何もできなかった」
美咲がまっすぐ前を見た。
「じゃあ、今度は私たちが守る番だよ」
理人、久遠、滝山、春海──全員が、静かにうなずいた。
“神崎を支える作戦”が、ここに始まる。
店の看板が、朝日に照らされる。
誰もいない厨房の包丁が、光を反射していた。
美咲が呟く。
「帰ってくる場所を、腐らせないようにしよう」
その声は、誰に届くでもなく、
湯気の残る空間に、静かに溶けていった。
夜風が、錆びた鉄扉を叩いていた。
街外れの廃ビル。ネオンの残光も届かない、暴走族〈夜牙〉の根城。
神崎は一言も発さず、鉄扉を蹴り破った。
ガンッ──乾いた音が地下に響く。
油の匂い、煙草の焦げ、そしてかすかな血の臭い。
中にいた隊員たちが、一斉に顔を上げた。
神崎の赤髪が、夜の闇に燃えるように揺れた。
無造作に束ねられた髪の先が、風に踊る。
太い腕には、古傷が走り、革のジャケットの下から筋肉の線が浮かぶ。
その背中は、厨房で鍋を振るう男ではなく、“かつての戦場”に立つ者だった。
彼の瞳は鋭く、だがどこか静かだった。
怒りではない。決意の色。
その足取りは重く、だが一歩ごとに空気が震えた。
「……神崎……?」
「……引退したはずじゃ?」
ざわめきが広がる。その中心を、神崎が無言で進む。
「俺の仲間たちを、どうした? だいぶ減らしてくれたようだな」
静かな声。だが、空気が震える。
奥の暗がりから現れた牙の涼は、まるで“夜そのもの”だった。
黒のジャケットは血と油で染まり、裂けた唇から覗く笑みは、獣のように歪んでいた。
髪は銀に近い灰色で、刈り上げた側頭部には古い刺青が覗く。
瞳は細く、光を吸い込むような黒。
その視線は、神崎を“獲物”として見ていた。
涼の歩き方は、踊るようでいて、いつでも襲いかかれる獣のそれだった。
指先にはリングが光り、ブーツの音が地面を叩くたび、隊員たちが息を呑む。
牙の涼は笑う。
それは獰猛でも、悲壮でもなく──まるで“懐かしむ”ような笑みだった。
「仲間? はっ、もうとっくの昔に捨てたろ。
お料理ごっこして、真面目ぶって、楽しかったか? 俺が臭い飯食ってる間にな」
場の温度が一気に下がる。
神崎はゆっくり拳を握りしめ、目を閉じた。
そして、静かに口角を上げる。
「──楽しかったよ。だから、守る」
涼の笑みが凍った瞬間、床を蹴る音が響いた。
闇が動き、嵐が始まった。
神崎の拳が唸りを上げる。
狙いも迷いもない、ただ静かな破壊。
ボスまでの行く手を阻むため殴、り倒される夜牙たち──その顔に浮かぶのは、怒りより恐怖。
「相変わらず、壊すのは得意だなぁ」
涼の間延びした声が響く。
「違う」
神崎の拳が床を砕く。
「今は、守るために壊す」
倒れた夜牙隊員たちの上を、涼がゆっくりと歩く。
掌を鳴らし、笑う。
「じゃあ、俺を守ってみろよ、神崎」
2人の視線が交わる。
次の瞬間、空気が裂けた。
鉄と血と記憶が、ひとつにぶつかる。
拳と拳。
何度もぶつかり、何度も倒れ、それでも神崎は立ち上がる。
息が荒く、拳が震える。
その震えは、恐怖ではなく痛みだった。
「お前、やっぱり1人じゃ限界あるな。もうゲームは終わりにしよう」
涼が唇を吊り上げる。
その背後で、誰かが引きずられる音がした。
暗闇から、ひとりの少女が現れる。
顔に傷。目に怯え。
その瞬間、神崎の足が止まった。
「……コウさん……」
涼の声が落ちる。
「覚えてるか? あいつの妹だ。
お前のせいで、これの兄貴は死んだ」
神崎の拳が、ゆっくりと下りた。
空気が凍る。
何も言えない。ただ、心臓の音だけが響いていた。
──1年前の夜の路地。
雨と血と火薬の匂い。
神崎は少女の兄ヨシタカと背中を合わせていた。
大勢の敵。逃げ道は、ない。
「ハメられた! 騙された!」
「俺が突破する、着いてこい!」
ヨシタカが叫ぶ。
「お前は頭だ。俺が行く」
「待て、まだ──!」
その声の直後、ヨシタカ足元が閃光に包まれた。
爆発。熱。音。
友人の姿が消えた。
神崎の視界は煙と血で埋まる。
──病院。
白い天井。包帯の匂い。
遠くで泣く少女──メイの声。
「兄貴を返してよ!」
その声が、今も離れない。
現実に戻る。
神崎は床に伏し、呼吸を乱していた。
左足が動かない。
涼が近づく。ブーツの音が、地獄の拍子木のように響く。
「懐かしいな。その足。
あの時も、こうして木材で殴ったんだよ。
お前の仲間が死んだ時にな」
ドスッ。
鈍い音。
神崎の身体が沈む。
涼は楽しげに笑った。
「これで、もう2度と──お料理ごっこも、社会復帰もできそうにないな」
神崎の視界が滲む。
痛みでも涙でもない。
それは、燃え残った怒りの光。
人質少女メイが叫ぶ。
「やめて!」
空気が凍る。
──絶望。
パトカーのサイレンが、遠くの夜を裂いた。
非常ベルが鳴り響き、アジトの壁が震える。
赤と青の光が、割れた窓から差し込む。
「……チッ、誰か通報しやがったな。」
牙の涼が舌打ちをして、彼の伏兵はメイの腕を乱暴に放した。
少女は床に崩れ、神崎のそばへ転がる。
涼は窓際のバイクジャケットをつかむと、そのまま裏口へ走った。
扉が軋み、冷たい夜気が吹き込む。
神崎は、倒れたままその音を聞いていた。
身体が動かない。足が重い。
視界の端で、メイが震えながら彼の名を呼ぶ。
「……コウさん……」
サイレンが近づく。
神崎の意識は、闇に沈んでいった。
「煌くん!!」
声がした。
耳の奥で、仲間たちの足音が混じり合う。
暗闇に光が差し込んだ。美咲が、息を切らしながら駆け寄る。
「理人! こっち、早く!」
「足が……ひどいな。春海、タオルと救急箱!」
「もう呼んでる! 救急車、すぐ来る!」
久遠が神崎の肩を支え、滝山が静かに呟く。
「……あいつ、守ったんだな。全部」
朦朧とする中で、神崎は少女の手を感じた。
小さな手が、血の滲んだ自分の指を強く握っている。
「……コウさん、ありがとう」
救急車の音が近づく。
ストレッチャーに乗せられる瞬間、神崎はほんのわずかに笑った。
その笑みは、痛みの中に灯る“誇り”だった。
数日後。
病院の個室。窓から差し込む夕陽が、白いシーツを淡く染めていた。
神崎はベッドに横たわり、左足に包帯を巻かれていた。
点滴の管が腕に繋がり、モニターの音が静かに響く。
春海が椅子に座り、神崎の顔を見つめていた。
「……ごめんなさい。僕、何もできなくて」
神崎は目を閉じたまま、低く答える。
「守っただろ。あいつを。……それで十分だ」
春海の目が潤む。
その隣で、美咲が静かにタオルを絞っていた。
「煌さんがいないと、厨房が静かすぎて……」
理人が病室のドアにもたれながら言う。
「でも、今は休む時だ。厨房は逃げない」
滝山は花束を置きながら、ぼそりと呟く。
「……あんたがいないと、空気が締まらない」
久遠は何も言わず、窓の外を見ていた。
その背中には、静かな焦りが滲んでいた。
その夜、百合の丘の厨房。
メンバーが集まり、テーブルを囲んでいた。
「煌くんが戻るまで、どう動くか決めよう」
美咲が切り出す。
「厨房の安全は俺が見る」
理人が言う。
「食材の下処理は俺がやる。……できる範囲で」
滝山が頷く。
「僕、補助します。温度管理、全部見ます」
春海が手を挙げる。
「……俺は、皿の構成を見直す」
久遠が静かに言った。
美咲は、皆の顔を見渡しながら微笑む。
「煌くんが帰ってきた時、誇れる厨房にしよう」
数日後の夕刻。
百合の丘レストランに、再び夜が落ちた。
カラン、とドアベルが鳴る。
美咲が顔を上げ、眉をひそめる。
「予約の時間じゃないですよ」
入ってきたのは──牙の涼。
かすかに笑い、ナイフのような視線を光らせる。
「今日は“壊し”に来たんだよ」
春海が厨房から飛び出す。
「厨房には、入れさせない!」
久遠が包丁を手に取る。
「……構えろ」
緊張が店全体に走る。
その瞬間、扉の向こうからゆっくりと足音が響いた。
杖を突き、足を引きずりながら──神崎が現れた。
「煌くん!」
美咲が悲鳴に似た叫び声を上げた。
「お前は、何も守れなかった。」
涼が笑う。
「仲間が死んだのも、お前のせいだ。その足も罪だ。腐った皿の上に立ってるだけだ」
神崎の拳が震えた。
言葉が、刃のように心を抉る。
動けない。
かつての惨劇が、鮮やかに蘇る。
──仲間の叫び。
──爆音。
──少女の泣き声。
神崎は、拳を握ったまま、俯いた。
──病院の白い天井。
1年前。神崎は足にギプスを巻かれ、天井を見つめていた。
もう何もできない。何も変えられない。
そう思った瞬間、ドアが静かに開いた。
「失礼しますね」
美咲の祖母・美園が、小さな保温バッグを抱えて現れた。
湯気の立つ栄養食をテーブルに並べながら、微笑む。
「料理ってね、誰かの命を運ぶものなのよ」
看護師が言う。
「いつもありがとうございます」
神崎は、なぜか涙がこぼれた。
──この人は、誰かの命を“皿で”運んでいる。
俺は、何を壊してきた?
「俺も……運ぶ。今度は守るために」
神崎は前へ出た。
杖を壁に立てかけ、拳を握る。
「俺は、腐ってた。でも拾われた。皿の上で生き直した。
今度は、守る。仲間も、店も、俺自身も」
牙の涼が笑う。
「守る? 綺麗ごと言ってんじゃねぇ!」
二人の拳がぶつかる。
刃と火花のように、音が走る。
神崎は足を引きずりながらも、怯まない。
痛みを支えに変えて、何度も立ち上がる。
──最後の一撃。
拳が涼の顎を捉える。
涼の身体が宙を舞い、棚を突き破った。
静寂。
倒れた涼を見下ろし、神崎は息を吐いた。
「……皿は、割れても直せる。俺たちは、その手で何度でも」
その声に、誰もが黙って頷いた。
朝の光。
神崎は松葉杖をつきながら、寮の廊下を歩いていた。
春海が支える。
「皿洗いくらいなら、できる」
「無理するな」
久遠が呟く。
「厨房は逃げねぇ」
美咲が笑う。
「でも、コウさんがいると、空気が締まるんですよね」
神崎は、厨房の隅で包丁を研ぐ。
その音が、まるで“心の鼓動”のように響いていた。
少しずつ、店も、彼も、戻っていく。
夜。寮の部屋で、美咲が神崎の足を冷やしていた。
静かな時間。
窓の外では、風鈴が揺れる。
「……悪いな」
「おばあちゃんが言ってた。“皿は、誰かの心を運ぶ船”だって」
神崎が小さく笑う。
「俺の足は、沈んだ船だった」
「でも、今は一緒に漕いでる。沈まないよ」
美咲がそっと手を握る。
神崎は微笑んだ。
そのとき、廊下から春海の声が響く。
「ご飯できましたー!!」
二人は顔を見合わせ、同時に笑った。
長い戦いのあとに残ったのは、静かな光だけだった。
ニュース速報が、店内のテレビに流れた。
「暴走族夜牙・牙の涼、襲撃事件。被害者は、怒羅美連体・元総長──喧嘩無敗伝説の神崎煌氏」
その一文で、世界が一瞬止まった。
厨房の手が止まり、包丁が静かにまな板の上で鳴る。
春海がぽつりと呟いた。
「……神崎さん、元総長って……本当なんですか?」
理人は額を押さえた。
「あーバレましたね。完全に、終わりだ」
ネットはすぐさま燃え上がる。
「百合の丘レストラン=元族の巣窟!?」「行ってみたい」「怖いけど気になる」
SNSのトレンドには、"百合の丘"の文字が躍っていた。
やがて店の前には、改造バイクの音が鳴り響く。
“伝説と決闘したい”と集まった若者たち。
シャッターの前には暴走族まがいの列。喧嘩騒ぎ。客は離れ、警察が出動した。
更に追加報道。
久遠は「神の舌を持つ料理人の転落」と、滝山は「元有名子役の副料理長とハイジャック事件の謎に迫る」と、理人は「財閥御曹司が転職の実態。財閥内部瓦解か」と、それぞれ特集を組まれた。
週刊誌は、面白がるように店の秘密を暴いていった。
「電話が鳴り止まないの!」
心配して様子を見に来た、ひなたが半泣きで叫ぶ。
「予約キャンセルと、取材希望ばっかり!」
理人は無言でスマホを投げ出した。
「このままじゃ厨房が回りません。……臨時休業しかないな」
美咲は、震える声で言った。
「……ごめん、みんな。一度、休もう」
その夜。
扉に貼られた「臨時休業」の札が、風に揺れていた。
人気の店だった厨房は、嘘のように静まり返り、換気扇の音だけが響いている。
「今日は休業です」
美咲が扉を閉めようとした瞬間、外から低い声が返った。
「知ってるよ。だから来た」
背広の男が1歩、店内に入る。
その気配に、奥の厨房から久遠が出てきた。
一瞬で、空気が凍りつく。
高齢の男──フメールは薄く笑った。
「うちに戻るなら、この店を立て直してやる」
久遠は黙ったまま、手に持った布巾を強く握る。
フメールは続けた。
「味覚、戻ったんだろ? 情報っていうのは常に空を飛び交ってる」
沈黙。
美咲の手が小刻みに震える。
フメール──東京湾の高層階にある高級フレンチLa Mer Étoiléeの経営者はさらに1歩、久遠へと踏み込んだ。
「あの時、黙ってくれて助かった。……今度は俺が助ける番だ」
その言葉に、誰も何も言えなかった。
久遠の眼差しだけが、冷たく静かに、遠くを見ていた。
数日後。
休業中の店に、春海のスマホが震える。
「なんか……SNSが騒がしくないですか?」
理人が画面を覗き込む。
「“百合の丘レストランは奇跡の味”って、料理評論家が連投してます」
滝山がバニラビーンズを指で弄びながら、冷ややかに呟いた。
「あの評論家、フメールのイベントでしか仕事してないぞ」
美咲の眉が、ピクリと動いた。
「……何かが、おかしい」
その違和感を置き去りに、店の評価は急上昇する。
予約は殺到。
“奇跡のレストラン”と呼ばれ、報道番組が取材に押し寄せた。
しかし、その裏で──
久遠のもとに届いた1通のメール。差出人はFメール本部。
「正式オファー:久遠 創始氏を迎え入れたい」
静まり返る厨房の中、久遠はスマホを閉じた。
その顔には、覚悟とも諦めともつかない影が落ちていた。
6年前まで久遠は、都内でも指折りの名店La Mer Étoiléeに務めていた。
"神の舌"と持て囃され、あらゆる賞を総嘗めにした彼は、若干26歳にして最年少で料理長に昇格した。
白い制服に袖を通し、数百万円の皿を前に、客の笑顔を演出する日々。
しかし華麗なる栄光の日々は、たった3年で終わりを告げた。
突然、世界の味が消えたのだ。
塩も、酸も、苦も──すべてが遠のいた。
病院での検査結果は異常なし。
医師は首をかしげ、「舌には何の問題もない」と告げた。
だが、厨房の裏では別の真実が動いていた。
オーナーのフメールが副料理長に耳打ちしていたのだ。
「彼の皿がブランドを壊す。味を“調整”してくれ」
後に久遠は知ることになる。
自分のまかないに“薬”が混ぜられていたことを。
フメールは淡々とこう言った。
「料理人は“演出”であって、“主役”ではない」
久遠が独自の皿を出し、メディアが騒ぎ出した瞬間だった。
フメールは冷笑を浮かべ、見下ろすように言い放つ。
「君の“味”がブランドを壊す前に、黙らせる必要があった」
告発すれば、レストランの名声は崩壊する。
業界の“秩序”も巻き添えで消える。
そして、久遠に言い渡されたのはただ一言。
──「お前が壊れれば、全部丸く収まる」
だから彼は黙った。
沈黙を選び、味を失い、名を捨て、業界から姿を消した。
すべてを失った久遠の前に、1人の老婦人が現れた。
調理師学校時代の恩師──かつて彼に“基礎”を叩き込んでくれた人だった。
カフェテラスで、彼女は紅茶を注ぎながら静かに微笑む。
「あなたの味は、まだ生きてるわ。壊れたのは、舌じゃなくて心」
久遠は俯き、かすれた声で答えた。
「もう、厨房に立つ資格がありません」
「資格なんていらないわ」
彼女はティーカップをそっと置く。
「私の店を使って。学校とボランティアの合間に開いてるだけだけど、丘の上にある静かな場所よ」
店の名は──「百合の花の咲く丘で」
古い木造の厨房、風の通る扉。
誰も責めず、誰も命令しない空間だった。
久遠は、そこで初めて“味を取り戻すための厨房”に立った。
最初は、何も感じなかった。
塩の粒も、トマトの甘さも。
けれど、一皿、また一皿と作るうちに──
“誰かのために作る”という感覚だけが、少しずつ戻っていった。
ある日、恩師である美園が穏やかに言った。
「あなたの皿は、完璧じゃなくていい。誰かを救えるなら、それで十分よ」
その言葉を胸に、久遠は再び包丁を握った。
味はまだ完全ではなかった。
だが、不思議と客は笑ってくれた。
「懐かしい味だ」「心が温かくなる」と。
やがて恩師がこの世を去り、店には新しい光がやってきた。
そのとき久遠は、厨房の中央に立ち、静かに誓った。
「……この店を、俺が守る」
静かな厨房に、夜明けの光が差し込んでいた。
テーブルの上には、置手紙と一冊のレシピノート。
「丘の味を、信じてくれてありがとう」
その一文だけを残して、久遠は静かに去っていった。
「レストランを守るために──料理大会に出ます」
その声は、厨房の奥まで響いた。
熱気と香辛料の匂いが混ざる空間で、美咲の瞳だけがまっすぐに光っていた。
全国料理大会。
優勝の褒賞は、好きな店から、好きな人材を一人“引き抜ける”。
狂気のルール。だが、美咲の狙いはただひとつ。
──久遠を、取り戻す。
「面白いじゃないか」
滝山が笑った。
甘味専門、火入れは苦手。
それでも彼は迷わなかった。
「俺、火入れは素人だけど……やってみる」
「僕、補助します!」
春海がすぐに手を挙げた。目が真剣だった。
その日から、“百合の丘”の厨房は眠らなかった。
焦げ、失敗、試作。
滝山の指先は火傷で赤く腫れ上がり、春海は眠気でまぶたを押さえた。
それでも、誰1人、手を止めなかった。
──守りたいものが、そこにあったから。
初戦会場。照明が落ち、ステージの厨房に各チームが並ぶ。
カメラの赤いランプが点き、観客のざわめきが遠のいた。
その中央、光の中に“あの人”がいた。
白衣の襟を整え、無言で火入れを確認する男。
流れるような手つきでソースを流す姿。
──久遠だ。
「……チーフ……?」
春海が呟く声は震えていた。
滝山が皿を仕上げながら、静かに言う。
「やっぱりな。あの仕上げ方、間違いない」
神崎が拳を握る。
「“百合の丘”を潰すつもりか。
だったら、勝って取り返すだけだ」
美咲の視線は、久遠の背中に釘付けだった。
白衣の裾が揺れるたび、胸の奥が痛んだ。
「取り戻す。あの人の“居場所”を」
滝山の皿は美しかった。
だが、ひと口食べた審査員が眉を寄せた。
「……中心が、生だ」
会場がざわめく。
ライトの下で、滝山の拳が震えた。
「俺のせいだ」
美咲は首を振る。
「まだ、終わってません。敗者復活があります」
神崎が即座に立ち上がる。
「仕込みなら、俺がやる」
理人が腕まくりをしながら言った。
「料理未経験でも、皿を守るくらいはできる」
敗北を噛み締めながら、彼らはすぐに厨房へ戻った。
眠気も悔しさも、全部、次の火へ投げ込んだ。
「敗者復活戦まであと3日。やるしかない」
滝山は火傷の指を冷やしながら言った。
その指先は、もはや“職人”のそれになりつつあった。
「俺、火入れの感覚がまだ掴めてない。……でも、諦めない」
「僕、温度管理を全部見ます!」
春海が即答する。手にはびっしりとメモが走っていた。
「仕込みは任せろ」
神崎は無駄なく包丁を研ぐ。
その音が、静かな戦闘の合図のように響いた。
「厨房の空気を守る。それも、俺の仕事だ」
理人はいつもの冷静な声で言った。
その背中が、妙に頼もしかった。
美咲はレシピ帳を開いた。
祖母の字が、そこに眠っている。
──“料理は、生きることそのものだ”
火が、再び灯った。
狭い会場。だが、熱気は初戦を超えていた。
敗者たちの目には、諦めではなく炎があった。
百合の丘チーム。
滝山が火を見つめ、春海が温度を読む。
神崎が仕込みを終え、理人が皿の配置を整える。
美咲は包丁を握り、深く息を吸った。
「行こう。これは、私たちの“再起の皿”」
火が止まり、ソースが流れ、香草が添えられた。
皿は静かだった。
だが、その中には、誰もが見た“昨日の涙”と“今日の決意”が宿っていた。
審査員が料理を、口に運ぶ。
沈黙。
そして、言葉が落ちた。
「……これは、“再起”ではなく、“再生”だ」
その瞬間、静寂が弾けた。
拍手、歓声、フラッシュ。
SNSには「#百合の丘の奇跡」「#厨房の絆」「#推しが火入れした皿」のタグが並んだ。
「百合の丘チーム、敗者復活──通過!」
観客の歓声が、波のように押し寄せる。
滝山は苦笑した。
「……俺、スイーツ担当だったはずなんだけどな」
春海が涙を拭いながら笑う。
「でも、みんなで作った皿ですから」
神崎は無言のまま、ファンの声援に背を向ける。
だが、耳は確かに、その声を拾っていた。
理人がぽつりと呟く。
「……この店、もう“ただのレストラン”じゃないな」
滝山が拳を握り、春海が笑い泣きし、神崎が頷く。
美咲はレシピ帳をそっと閉じた。
「……久遠さん、見てましたか?」
その声は、遠くの厨房に届いていた。
久遠は、無言のまま皿を磨いていた。
だが、その手が、ほんの少しだけ震えていた。
深夜、百合の丘の厨房の奥。
窓の外では、夜の雨が静かに降り始めていた。
蛍光灯の光に照らされたカウンターで、美咲は古びたレシピ帳を開いていた。
祖母が残した手書きの文字。
インクが少しにじんで、紙は黄ばんでいる。
けれど、どれだけ再現しても──
あの“優しい味”には、たどり着けなかった。
「何かが……足りない」
春海が呟いた。指先に焦げ跡が残っている。
その時、滝山が棚の奥から、一枚の紙を取り出した。
角が焦げたそのメモには、見覚えのある文字。
久遠の筆跡だった。
「余白で決まる。
味は、出すことよりも引くことで生まれる」
神崎が低く笑う。
「……あいつらしいな。力じゃなく、間で勝負か」
静かな厨房に、火の音が戻る。
フライパンの油が跳ね、香ばしい匂いが漂う。
春海が温度を測り、滝山が火加減を調整し、神崎が仕込みを整えた。
理人は黙って時計を見つめながら、全体の流れをコントロールしている。
ひとつひとつの動きが、呼吸のように重なっていく。
少しずつ、皿の中に“丘の味”が戻ってきた。
「この1皿で、帰ってきてもらおう」
美咲が包丁を握り、まっすぐに前を見た。
チームの目的が、ひとつになった。
そして、決勝。
テーマは──「記憶」。
会場の照明が落ちると、観客席が一瞬にして静まり返った。
ステージ上には、2つの厨房。
対するは、La Mer Étoilée。
その中央に、久遠の姿があった。
白いコックコートに、淡い光が反射する。
目の前の炎を見据え、微動だにしない。
その背中は、まるで彫像のように静謐だった。
「もうすぐ同僚だな」
隣のエースが滝山に笑いかける。
La Mer Étoiléeの引き抜き候補──それは滝山自身だった。
滝山の表情がわずかに揺れる。
久遠は視線を合わせない。
ただ、完璧な動作で皿を組み上げていく。
寸分の狂いもない火入れ。
だが、その完璧さの裏に、温度のない静けさがあった。
一方、“百合の丘”チームの厨房では、音が生きていた。
火のリズム、包丁の音、誰かの短い息づかい。
それらが混ざり合って、一枚の旋律になっていく。
神崎が刻み、春海が受け取り、滝山がソースを流し、理人が皿を整える。
そして、美咲が、最後に香草を添えた。
「……行こう。これは、私たちの“記憶の皿”」
皿の上には、白い花びらのような飾り。
温度の揺らぎとともに、柔らかな香りが立ち上る。
余白が語っていた。
“ここに、誰かがいた”と。
審査員たちが、両チームの皿を見つめる。
会場は静まり返り、時計の針の音すら聞こえるほどだった。
「……難しいな」
「どちらも、極めて高い完成度だ」
審査員の口から告げられたのは──
「両チーム、同点です」
会場がざわめく。
美咲たちは顔を見合わせ、久遠も目を見開いた。
「同点……?」
その瞬間、会場の後方から声が上がる。
「スタッフの顔も点数に入れろー!!」
「滝山さーん!!」
「神崎くん!」
「ハルマくん、こっち向いてー」
「百合の丘の人たち、みんなで作ってるのが伝わったよー!!」
押しかけたファンたちが、手作りのうちわや横断幕を掲げていた。
SNSでは「#百合の丘の奇跡」がトレンド入り。
ライブ配信のコメント欄には、応援の嵐。
審査員の1人が、苦笑しながら言う。
「……料理は、皿だけで決まるものではない。
“誰が、どんな想いで作ったか”も、味のうちだ」
そして、静かに手元の札を上げる。
「優勝──百合の花の咲く丘でチーム!」
歓声が爆発する。
わずか1点差。
美咲は息を詰め、ゆっくりと目を閉じた。
そして、マイクを握る。
「優勝の権利を使います。
──久遠創始を、この店に引き抜きます」
客席がどよめいた。
久遠は驚いたように顔を上げる。
美咲の目は、まっすぐだった。
「あなたの“味”は、もう1度ここで咲ける」
長い沈黙。
やがてクオンは、静かに頷いた。
「……ああ。帰ろう。あの丘へ」
厨房に、いつもの香りが戻っていた。
泡立て器の音、オーブンの熱、皿の上の余白。
滝山は黙々と焼き菓子を仕込んでいる。
理人は経理の席に戻り、春海は冷蔵庫を整理し、神崎はフロアの椅子を並べていた。
美咲は玄関で、笑顔を浮かべながら客を迎える。
その時、扉が開く。
「……迎えに来た」
美咲の元カレだった。
スーツ姿で、少しだけ疲れた顔。
でも、目は真っ直ぐに彼女を見ていた。
「お前にフラれて、考え直した。
もうギャンブルは辞めたし、再就職もした。
ここ(レストラン)は売って、俺と結婚しよう」
厨房が静まり返る。
久遠が皿を置き、春海が絞り袋を止める。
理人がパソコンを閉じ、滝山がコーヒーをすすった。
「待った」
神崎が言った。
「俺が一生守る」
春海が頷く。
「僕は……守ってほしい」
続いて、久遠がフロアに出る。
「お前がいないと、ダメだ」
理人は静かに言う。
「ここに、あなたは必要です。
あと……俺の人生にも」
滝山は、何も言わない。ただ、視線だけが熱かった。
美咲は、全員を見渡した。
厨房の仲間たち。
過去の恋人。
今の居場所。
美咲は、少しだけ笑って言った。
「私……ひなたと付き合ってるけど?」
厨房が、止まった。
誰もが、言葉を失った。
「遅くなって、ごめーん! 待ったー!?」
その時、勢いよくひなたが入店してきた。
「んーん、ちょうど良かった。
滝山さんのお菓子焼けたから、お客さん捌けたら一緒に食べよう」
美咲が首を振って言うと「ワーイ、大好き♡」と、ひなたは恋人に抱きついた。
しばしの間があって、春海がぽつりと呟いた。
「そっか……百合、だもんね」
店の看板が、風に揺れていた。
「百合の花の咲く丘で」
その下で、美咲はひなたと手を繋いだ。
厨房の仲間たちは、それぞれの皿に戻っていく。
物語は、静かに幕を閉じた。
□完□