終章 本気の誓い
朝の陽が、薄く白いカーテンを通して部屋に差し込んでいた。
クラリスはまだ温もりの残るシーツの中で、静かに瞬きをする。
隣ではリアムが椅子に座り、磨き上げた革の靴に足を通していた。
まるでいつもの護衛任務に戻るかのような姿に、クラリスは小さく微笑んだ。
「……出ていくの?」
「いえ、ただの癖です。昔の感覚が、つい」
リアムは振り返って、照れくさそうに首の後ろをかいた。
そう、これが“変わらぬ日常”なのだ。
騎士としての振る舞い、貴族としての朝。
でももう、そこには仮初めの契約は存在しない。
リアムは、クラリスの“本物の恋人”になったのだ。
◆ ◆ ◆
朝食の席には、見慣れた食器と、見慣れたパンが並んでいた。
リアムは黙々とトーストを口に運び、クラリスは白湯を飲みながら彼の隣を眺めていた。
「……こんなにも穏やかな朝がくるなんて、少し信じられないわ」
「でも来ました。……お嬢様が選んだから」
「ええ、私が選んだの。あなたを」
言葉に出すたび、少しだけ胸の奥が温かくなる。
それは“安心”とは違う、“確信”に近い。
「ところでリアム。そろそろ、“お嬢様”って呼ぶの、やめてくれない?」
リアムは目を丸くした。
「えっ、本当に?」
「本気よ。だって、もう私たちは――」
クラリスは言葉を切り、少しだけ顔を赤くした。
「……恋人同士でしょう?」
リアムはその場でナイフとフォークを置いた。
姿勢を正し、まっすぐにクラリスを見つめる。
「じゃあ……クラリスって、呼んでも?」
「もちろん」
「――クラリス」
名前を呼ばれた瞬間、クラリスは思わず目を伏せた。
たった一語なのに、どうしてこんなにも心が震えるのだろう。
「……やっぱり、慣れないわね」
「俺はもう、だいぶ慣れた気がしますよ。クラリス、って呼ぶときのあなたの表情、とても好きです」
「……そんな顔してた?」
「はい、すごく。こう……“心を許してる人しか見せない顔”って感じで」
「あなた、ほんとに騎士だったのかしら」
からかうような口調に、リアムは満足げに笑った。
「クラリス。今日は一緒に外を歩きませんか?」
「……街に?」
「はい。今度こそ、契約じゃなくて、“恋人として”。」
クラリスはしばし考え、それから頷いた。
「ええ。もう誰にどう見られても、私は“あなただから”手を取るって、胸を張れるもの」
リアムは嬉しそうに立ち上がり、クラリスの手を取った。
「では、最高の恋人日和にしましょう。陽射しも、あなたの味方です」
「……うまいこと言ったつもり?」
「だって本気ですから」
扉の外は、春の陽が満ちていた。
◆ ◆ ◆
市の広場では、花市が開かれていた。
以前ふたりで訪れたときと同じ場所、同じ風景。けれど、すべてが違って見える。
「クラリス様?」
ふいに声をかけられ、クラリスが振り向くと、そこには見覚えのある女性――ロゼリアが立っていた。
「あなた……」
「……前は、失礼なことを言ってしまって。あのとき、私が何を言っても、あなたは毅然としていたわね」
「言葉を撤回しに来たの?」
「いいえ。……“羨ましい”って言いに来たの。あなたは、自分の心に従った。それができた人なんだって、今は分かるから」
それだけを告げて、ロゼリアは人波に消えていった。
クラリスはしばらくその背を見送っていたが、やがてリアムの腕をとった。
「ねえ、手、握っていい?」
「もちろん」
ふたりは指を絡め、広場の中を歩いた。
嘲笑も、羨望も、無関心さえも、すべて通りすぎていく。
今、ここにいるのは――
“選んだふたり”だ。
◆ ◆ ◆
その夜。
寝室のランプを落とす直前、クラリスは枕元に置いた花瓶に目をやった。
そこには、昼間リアムが買ってくれた花が一輪。
青く、小さく、けれど凛と咲く花。
「ねえ、リアム」
「はい」
「“幸せになりたい”って、声に出してもいいかしら」
「もちろん。言葉にしなきゃ、気持ちって届かないから」
「……じゃあ」
クラリスはランプの明かりに照らされながら、彼の目を見た。
「あなたと一緒に、幸せになりたい」
リアムは、そっとその手を握った。
「なりましょう。何度でも」
ふたりは目を閉じた。
過去のすれ違いも、仮初めの契約も、もう遠い記憶だ。
手の中にあるものは、確かな“本気”の誓い。
静かに、しかし確実に、ふたりの明日が始まっていた。




