第5章 王家の圧力
昼下がり、クラリスの元に一通の書状が届いた。
王宮の封蝋。開くまでもなく、察しはついていた。
文面には、王家の命として改めて婚姻の“勧告”が記されている。断れば、公爵家の爵位の見直しも辞さない――と。
「脅し……というには、あまりに露骨すぎますわね」
書状を握りしめた手に力がこもる。
クラリスは冷静だった。だが、その沈黙の奥にある怒りと屈辱を、リアムは見逃さなかった。
「お嬢様……」
リアムが声をかけると、クラリスはふっと目を伏せた。
「こうして、最後には“立場”が人を決めるのよ。中身など見ていない。“誰と繋がるか”で、全てが決まる世界」
「それでも……繋がる相手を、自分で決めたっていいはずです」
「そう、理想論ではね」
「いえ、現実にも通じるはずです。……やってみせましょう」
リアムはその場で、ひざをついた。
「お嬢様。仮初めではなく、僕は本当に、あなたを守りたい。あなたの隣に立ちたい。――たとえ、誰に笑われても」
クラリスはしばらく黙ったまま、リアムの目を見ていた。
その表情に、もう“護衛”という言葉はなかった。ただ一人の男の、真摯な願いだけがあった。
「……もしあなたが、私の“騎士”ではなかったなら。そう思ったことはある?」
「あります。何度も」
「ならば私も問うわ。あなたが私の“契約恋人”でなかったら……。私はあなたに、ここまで心を許せただろうか」
その瞬間、ふたりの間にあった“仮初め”という境界線が、音もなく崩れていくのがわかった。
◆ ◆ ◆
翌日。
クラリスとリアムは王宮に招かれた。形式は“縁談再検討のための謁見”という名目。だがその実は、王家による圧力の儀式だった。
王子ルディウスは、冷たい目でクラリスを見下ろしていた。
「三度の破談に続き、護衛と恋人ごっこ……。さすがは、変わり者の令嬢だ」
「ごっこではございませんわ。……これは私の、選択です」
「面白い。“平民の従騎士”などという石ころを選んだと?」
そのときだった。リアムが一歩前に出た。
「陛下。石ころであろうと、守りたいものがある者は、剣に変わります。私はその覚悟をもって、クラリス様の傍に立っています」
王子が鼻で笑った。
「忠義か? 恋か? どちらでも結構。だが、そなたの“存在”が彼女の未来を狭めていることを理解しているか?」
「それでも、僕が消えることが、彼女の幸せだとは思えません」
クラリスはゆっくりとリアムの隣に立ち、その手を取った。
「わたくしが、彼を選びました。たとえ爵位を剥がされても、身分を奪われても――それでも、私の隣にいてくれる人は、彼しかいないとわかりました」
王宮の空気が凍りついた。
その静寂の中で、リアムが小さく言った。
「この手を取ってくれて、ありがとうございます」
◆ ◆ ◆
王宮を出た帰り道、ふたりは無言だった。
すべてを賭けた言葉。失ったものは大きい。
だが――それを後悔している者は、ここにはひとりもいなかった。
「ねえ、リアム」
「はい」
「仮初めの恋人は、今日で終わりよ」
「……はい」
「でも――あなたがいいなら、本物になってみる?」
リアムは驚いたように目を丸くし、次いで満面の笑みを浮かべた。
「はい。何度だって誓います。今度は、恋人として」
そう言って差し出された手を、クラリスはためらいなく取った。
この先の未来がどうなるかなんて、誰にもわからない。
けれど今この瞬間、たしかにふたりは、同じ歩幅で前を向いていた。