第2章 恋人契約の提案
午前の陽が差し込む執務室で、クラリスは文を開いていた。
封蝋には王家の紋章。中には、まるで義務を伝えるような、仰々しい文言が並んでいる。
> 公爵令嬢クラリス・フェルメール殿
貴殿の家格ならびにご身分に鑑み、第一王子ルディウス=ルシファード殿下との婚姻について、王家として正式にご検討いただきたく、ここにお知らせ申し上げます。
本件は殿下の強いご意向によるものであり、貴殿にとっても栄誉たるご縁と存じます。
ご一族の今後の立場におかれましても、多大なる利益が見込まれること、あらかじめ申し添えます。
クラリスは一読し、鼻で笑った。
選択の余地など与えていない、典型的な“王家の命令”。しかも、あからさまな脅しまで添えて。
「栄誉たるご縁、ですって……。私の何を知って、そんなことを言っているのかしら」
声に出して読み上げた自分に、呆れを通り越して笑いが込み上げる。
王子といっても、既に複数の愛妾を持ち、権力だけが残された冷徹な男。政略結婚の象徴として、貴族の娘たちを次々に妻に迎えては捨ててきたことでも有名だった。
この話に、拒否権は――ない。
「お嬢様……いかがなさいますか……」
侍女が青ざめた顔で問う。
「……答えは決まっています。受けません」
「ですが、王家が……」
「“だから”受けないのです。王家が私を欲しがる理由なんて、家柄と利用価値だけでしょう?」
その言葉の強さに、侍女は言葉を失った。
その時だった。
部屋の扉が、またしてもノックもなく開いた。
「お邪魔しまーす!」
いつもの軽い調子の声とともに、リアムが顔を覗かせた。
「またあなたは……! 何度言えばノックを覚えるのよ」
「すみません、でも今日はちょっと重大な話がありまして!」
リアムはいつになく真剣な表情で、机の前まで進み出た。
「聞きました、縁談のこと。……それ、本気で断るつもりですよね?」
「当然でしょ」
「じゃあ、僕と契約しましょう」
リアムはまっすぐにクラリスを見据え、口にした。
「“恋人契約”です。期間限定。王家にも他の貴族にも、“すでに心を許した相手がいる”って見せつけるための嘘。……それ、やりませんか?」
「……は?」
クラリスは目を瞬いた。護衛騎士が、何を言っているのか理解するまで数秒を要した。
「あなた、正気?」
「正気です。僕は平民出身で、貴族との結婚なんてありえない立場。だからこそ、“本命が平民”って言えば、周囲は馬鹿にするか、面倒くさがって引くと思うんです」
「つまり、私の評判を地に落とすことで縁談を遠ざける、と」
「……言い方がエグいけど、だいたい合ってます」
あまりにも破天荒な提案に、執務室の空気が一瞬で張り詰めた。
だが、クラリスは静かに立ち上がった。そして、机を回ってリアムの正面に立ち、じっと彼を見つめる。
「なぜ、そこまで?」
「お嬢様が……誰の意志にも流されず、ちゃんと“自分で選ぼう”としてるのを見たからです」
その声は、まっすぐで、ふざけていなかった。
「他人が決めた相手じゃなくて、自分の意思で隣に立つ人を選ぼうとしてる。それって、ものすごく強くて、かっこいいと思ったから」
「……」
「だから、その強さを守る側でいたいんです。契約でも、偽物でもいい。お嬢様が、自分の道を選びきれるように」
クラリスは沈黙のまま、リアムの瞳を見つめた。
軽薄なようで、どこまでも真摯。
からかっているようで、芯がある。
「……条件があるわ」
「え?」
「“仮初め”であっても、徹底的に“恋人らしく”振る舞うこと」
「はい?」
「出かけるときは手を取って。目が合えば名前を呼んで。ときには言い争い、ときには甘い言葉も。……それが演技であっても、演技に見えないように」
「ま、まじですか……」
「嫌なら断って構わないわ」
「……ぜ、ぜひやらせていただきます!」
リアムは慌てて直立し、胸に手を当てた。
「誓って、本日より僕は、お嬢様の恋人役を全力で務めさせていただきます!」
「せいぜい、それらしく振る舞うことね。……下手な演技は、逆に目立ちますから」
クラリスはふっと笑った。
それは気のせいかもしれないが、リアムにはたしかに見えた気がした。