第1章 陰口と笑顔と花
クラリスが一歩踏み出した瞬間、その場の空気がざわめいた。
その中心には、ロゼリア――かつて婚約者を横取りした女が、わざとらしい笑みを浮かべて待っていた。
「まぁ、クラリス様。三度目の破談だなんて。まだ婚約者を探していらっしゃるのかしら?」
紅茶の香りに紛れて漂う皮肉と憐れみの気配。
相手が仮面をつけていようと、クラリスの耳はそれを見逃さない。
彼女は笑顔すら浮かべず、淡々と返す。
「……心配してくれて、光栄だわ。けれど、あなたのような“男に縋ることでしか価値を得られない女”の助言は、不要よ」
「……」
一瞬、空気が凍った。誰もが返す言葉を失い、次に出てきたのは乾いた笑い声だった。
だが、その中に混じっていたのは――。
「さすが、お嬢様! 完敗ですね、あの人たち」
朗らかな男の声だった。
クラリスの背後、少し離れた位置に控えていたリアム・サリヴァンは、いつもの笑みを浮かべていた。
護衛騎士という立場を忘れたように、堂々とその場の輪に入り込み、あろうことか紅茶をひとすすりしていた。
「あなた、何をして……」
「護衛中です。でも、雰囲気悪そうだったので、和らげようかと」
呆れと怒りの入り混じるクラリスの視線をよそに、リアムは淀みなく続けた。
「ところで皆様、この紅茶、おいしいですよね! でも、お嬢様の淹れる紅茶のほうが、香りも渋みもぜんぜん深いんです」
「え……?」
クラリスが一瞬だけ驚いた顔を見せる。
リアムはニコリと笑って、まっすぐ彼女を見た。
「僕、初日にいただいたんですよ。お嬢様自らが淹れてくださったんです。さすが貴族のお育ちっていうか、所作も味も、本当にお見事で」
「…………」
何も言えなくなったのは、周囲の令嬢たちだった。
そして、クラリスもまた、言葉を失っていた。
自分の淹れた紅茶に、こんな風に感想をもらったのは初めてだったから。
「さてと。お嬢様、そろそろお時間では?」
「……ええ、そうですわね」
リアムが手を差し出し、クラリスは迷うことなくその手を取った。
振り返った時、あの嘲笑っていた令嬢たちが、視線を逸らしたのを見逃さなかった。
馬車へ戻る道すがら、リアムは上機嫌だった。
「いやー、思ったより社交界って怖いんですね。笑ってるのに刺してくる」
「……あなたね、無礼にもほどがあるのよ。貴族の集まりで、勝手に口を挟んで」
「でも、笑ってなかったですか?」
「……笑ってなんか、いません」
「そっかー。でもちょっと、顔がやわらかくなった気がしたんだけどな」
からかうような声音。でも、その奥にあったのは、彼なりの誠実だった。
屋敷に戻って部屋に入ると、机の上に一輪の花が置かれていた。
白い花びらに、かすかな紫の縁。庭に咲いている名もなき花だ。
「これは……?」
「朝の見回りのとき、見つけたんです。お嬢様の机に似合うかなと思って」
「……」
花瓶に挿されたその一輪が、不思議と胸の奥に残った。
あんな軽薄な男のことなんて、気にしていないつもりだった。
でも、ふとした時に浮かぶのは、あの笑顔と、言葉のあたたかさ。
(――困った人を、護衛にしてしまったものだわ)
そう思って、窓の外を眺めた。
今にも花が咲きそうな、春の終わりの空だった。