序章 破談と護衛騎士
三度目の破談の知らせは、紅茶がちょうど飲みごろの温度になった頃に届いた。
「……侯爵家の三男、ローデリック様が、別の方との縁談をお進めになったそうです」
目の前で侍女が伏し目がちに報告する。
その声音には申し訳なさと、どこか「またか」という諦めが滲んでいた。
クラリス・フェルメールは紅茶に口をつけ、湯気越しにかすかに笑った。
「そう……急なことで、残念ですわ」
声色は優雅で、落ち着いていた。だがその内側では、心の表面に冷えた水がひとしずく落ちたような感覚が広がっていた。
貴族の娘として、三度も破談になるということ――それは“性格に難がある”という烙印を押されたも同然だった。
「わたくし、よほど人を見る目がないようですわね」
淡く苦笑を浮かべながら呟くと、侍女が慌てて否定した。
「そ、そんなことは……! お嬢様は、どなたよりも聡明で、美しくて……!」
「ええ、知ってます」
即答した自分に、思わず自嘲がこみ上げた。
彼女自身もわかっていた。自分は決して、愛されにくい女ではない。
ただし、扱いにくい女なのだ。貴族としての誇りも、美学も曲げない。見合いの場でも相手に媚びず、情に流されることもない。感情より理を重んじる令嬢。だからこそ、男たちは彼女を遠ざける。
そして今日もまた、男が一人、彼女から逃げたのだった。
(まあ、こんなことで落ち込んでいたら、貴族なんてやっていられませんわね)
立ち上がってスカートの裾を払う。クラリスの動作は、誰よりも優雅だった。
「そういえば……今日、新しい護衛がいらっしゃるとか」
侍女が思い出したように言った。
「ええ。たしか“平民出身の従騎士”だったかしら。王宮からの正式な辞令とはいえ、どうしてまた、そんな話題の人物をわざわざ」
クラリスは紅茶を口に含みながら、気のない声で呟く。
「陽気で口の軽い男、という評判もあるようです」
「……最悪の組み合わせですわね」
まさにその瞬間――扉が、勢いよく開いた。
「お邪魔しまーすっ!」
唐突な男の声に、侍女が「きゃっ」と悲鳴をあげる。
クラリスは即座に身を引き、声の主を睨んだ。
そこに立っていたのは、騎士の制服に身を包んだ若い男だった。金髪に明るい瞳、整った顔立ち。だが、礼儀という言葉とは無縁そうな立ち居振る舞い。
「こちら、今日からお嬢様の護衛を務めることになりました、リアム・サリヴァンです! よろしくお願いします!」
「……誰が、入っていいと言いましたの?」
「えっ、あ、いや、あの、護衛なので、いますぐ馴染んだほうがいいかなって……」
「まずはノック。そして名乗るのは扉の外でなさい」
「あ、はい……すみません」
リアムは申し訳なさそうに頭をかきながら下げているが、口元にはなおも笑みが残っていた。
クラリスは一歩前に出て、じっと彼を見据える。
「あなた平民出身だそうですわね」
「はいっ。出自にはちょっと苦労してます」
「どうせ、王宮の“形式だけの配属”でしょう? 本当に私を護るつもりがあるのかしら?」
その挑発に、リアムは少しだけ黙った。
だが次の瞬間、彼はまっすぐにクラリスの目を見て、言った。
「僕は、“守る相手が誰か”で態度を変えたりしません。お嬢様でも、農家のおばあちゃんでも、命がけです」
「……」
ほんの少しだけ、心のどこかが揺れた。
けれど、クラリスはそれを表情に出さなかった。
「そう。なら、せいぜい口先だけで終わらないことね」
「もちろん!」
彼は朗らかに笑い、親指を立ててみせた。
あまりに軽薄で、あまりに真っ直ぐで――クラリスは思わず小さくため息をつく。
「……あなたのその軽さ、長くはもたないと思いますわ」
「じゃあ、長持ちするところ、見ててくださいね」
言い返す声がやけに明るくて、クラリスはわずかに目を細めた。
奇妙な男だった。
軽々しくて、無礼で、無遠慮で。
でも、今の彼女には、あの軽さがほんの少し――救いにも思えた。