6: 譲歩
その瞬間、麗華は彼の顔を平手打ちした。しかし、彼女の掌が空の頬に触れた途端、鋭くチクチクする感覚が彼女自身の左頬に走った。まるで見えない力に打たれたかのように、彼女の頭はわずかに横に揺れた。
彼…私に使ったの?!
「あなた…!」
麗華は彼を突き飛ばしたが、奇妙な力にバランスを崩され、地面に倒れ込んでしまった。その瞬間、彼女は悟った——空が彼の奇妙な力を使ったのだと。
見上げると、空はまだ立っていた。彼の視線は冷淡に麗華を見下ろしている。先ほどの平手打ちは強かったはずなのに、空はまるで何も感じていないかのようだった。彼の奇妙な力が痛みや不快感を防いでいたのだろう。
「なぜ君がそんなふうに怒るのか、理解はできるよ、三葉さん…」
彼の言葉に、麗華の怒りはさらに燃え上がった。
「もういい!言葉で誤魔化せると思ってるの?!その顔がどれだけ自己中心的か、分かってるの?!」
他人の命も守れないくせに、なんで私なんか助けたのよ?!
空は一瞬黙り込んだ。彼の視線は依然として麗華に向けられていた。そして、静かに口を開いた。
「…人間がなぜ感情を持つのか、その理由が分からなかったんだ…」
麗華は瞬きをし、戸惑った。空の言葉が、張り詰めた空気をわずかに和らげたかのようだった。
「ふざけてるの?大の大人がそんなこと——」
「子供の頃、僕の世話をしていた人たちは、一度も僕が泣くのを見たことがないと言っていた。子供なら泣いたり駄々をこねたりするはずなのに、僕はしなかったから、彼らは困惑していたんだ。」
彼は一瞬言葉を切った。
「成長するにつれて、あらゆる場所で感情を目にするようになった。おもちゃを失くして泣く子供、子供を抱いて微笑む母親、飼い主に尻尾を振る犬。そんな彼らの気持ちを、僕も感じてみたいと思った…」
「普通の人間として、他人の気持ちを理解できるようになりたくて、あらゆる方法を試した。でも、どうしても何かが足りない気がした。何をしても、それを感じることができなかった。」
麗華は沈黙したまま、眉をひそめた。彼の言葉は本物のように聞こえたが、どこか遠く感じられた。普通なら同情するべきなのかもしれない。けれど、なぜか何も感じなかった——まるで重みのない、現実味のない話を聞かされているようだった。
彼の声には抑揚がなく、まるで決められた台詞を読んでいるかのようだった。こんな話を本気で信じる人がいるのだろうか、と麗華は思わず疑問に思った。
「ある時、日本中でアニメが流行っていると知った。人々にそんなに影響を与えるものなのかと気になってね…」
「ある人が『ワン○ース』を勧めてくれて、世界で最も人気のあるアニメの一つだと言った。それを見て、キャラクターたちの感情が本物のように感じられて驚いた。彼らは笑い、泣き、怒る——どれもが本当にリアルに見えた。彼らの話し方も…まるで現実そのものだった。」
「それから、他のアニメも見てみた。『ブ○ーチ』『ナ○ト』『転○したらス○ムだった件』『オー○ーロード』など、感情の描かれ方を確かめるためにね。『ワン○ンマン』には、僕と似た経験を持つキャラクターもいた。でも、彼は僕とは違って、極限の瞬間には何かを感じることができていた。」
麗華はじっと耳を傾けながら、頭の中で必死に考えを巡らせていた。そして、その瞬間、彼女の中で何かが繋がった。
待って。もしかして…彼の言葉は本当なの?
彼女は空の目をじっと見つめた。灰色の瞳は、何の揺らぎもなく彼女を見返している。しばらくの間、二人とも言葉を発さなかった。
その沈黙の中で、麗華は気づいた。短い時間ながら、彼女は空という人間を知り始めていた。そして、彼がとても率直な人物であることを理解した。
麗華は頬の涙を拭い、眉間を揉みながら深く息をついた。
ぐぅ…こんな長々とした過去話を聞かされたら、信じるしかないじゃないのよ!
彼女は右目を開け、空をちらりと見た。
よし、ここでハッキリさせないと…
「シンくん…!」
麗華は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出しながら立ち上がった。そして、真剣な表情で彼に向き合った。
「ゴホン! まず最初に…」
彼女は空の前でゆっくりと頭を下げた。その予想外の仕草に、空は驚き、目を見開いた。
「さっきの暴力的な行動について謝ります。あなたの…その歪んだ価値観に腹を立てて、衝動的に手を出してしまった。そして…」
麗華は頭を上げ、真っ直ぐに彼の目を見つめた。その瞳には誠実さと、わずかな恥じらいが滲んでいた。
「何度も私を助けてくれたのに、こんな態度を取ってしまったことが恥ずかしい。本当に、ごめんなさい。」
「気にしていない。」空は落ち着いた口調で答えた。」
「次に、あなたの能力について…直接、真実を聞かせてほしい。」
「空の表情は変わらず、声も一定のまま、彼は短く答えた。「ああ。」
その言葉を聞いた麗華は、目を閉じ、静かに頷いた。
「よし。そして最後に…」
彼女は空に向かって歩み寄り、人差し指を彼の額に突きつけた。その突然の行動に、空は困惑した。
「あなたの考え方は本当に間違ってる!感情を表現できない人に出会うなんて信じられない!だから、あなたの目にはいつ見ても哀れみや共感のかけらもないのね!」
麗華は一歩下がると、顎に手を当て、何か重要なことを考えるような仕草を見せた。
「ふむ…」
すると、突然彼女の目が大きく見開かれ、何かを閃いたように空を見つめた。
「こういうのはどう?ただ謝るだけじゃ足りないし…あなたのその問題、私が手伝ってあげようか?何度も助けてもらったお礼も兼ねてね、うん?」
空は彼女の提案に驚きながらも、じっと見つめ返した。
「どんな問題のことを言っているんだ?」
麗華はその質問を聞いて、がっかりした表情で眉をひそめた。
こんなことを聞くなんて、どれだけ鈍感なんだろう。
「ほら、感情がないっていう、何だっけ…?」
空は少し考え込んだ後、彼女の言いたいことが分かり、目を見開いた。
「それ…は、確かに妥当だ。」
「ふふん?確かに、妥当よ!」
麗華は堂々とした態度で彼ににっこりと笑いかけた。
「私があなたの感情を見つける手助けをするわ。あなたの決断が間違っている時や困っている時、私はガイド役になってあげる。そうすれば、もしかしたら、眠っている感情を呼び覚ますことができるかもしれないわ!」
空は彼女の言葉を慎重に考え、少しの間があった後、同意の意を示して頷いた。
「よし、俺もやる。」
「ふ〜ん?それなら良かったわ!」
麗華は一瞬考え込むような表情を浮かべた。
「失礼かもしれないけど、あなたのその問題、前に聞いたことがあるような気がする…それって、私が数年前に参加したメンタルケアのイベントで聞いたことがあったかな?記憶がちょっと曖昧で…」
「医者に言われたんだ。俺も似たようなケースの統合失調症パーソナリティ障害だって。」
麗華の目が見開かれ、彼の言葉に気づいた。
「え?その…重度ってどれくらい?」
「かなり重い、って言われた。」
麗華は驚き、思わず顔を叩いた。
じゃあ、この計画は最初から無理かもしれない!確か、SPDの重度なケースは扱いづらいんだよね!
彼女は心配そうに空を見つめ、照れくさそうに頬をかいた。
「う、うーん…まあ、奇跡が起きるかもしれないし?わからないよね?」
麗華が思いにふけっている間、空は徐々に沈みかけている太陽に気づいた。
「もう暗くなってきたな。そろそろ中に戻った方がいいかもしれない。」
麗華は空を見上げ、すでに黄昏に変わりつつある空に目を向けた。昼間は隠れていた星々が、夜空に浮かび始めていた。
「うん…」
麗華は前を見て、空がすでに歩き出しているのに気づいた。振り返ると、彼は村の方へ向かって歩いていた。
「ちょ、ちょっと待ってよ!どうして先に行くのよ、待って!」
空はその声を聞き、歩調を緩めた。麗華は彼に追いつき、並んで歩きながら、焦げた小麦畑を横切った。
「ところで、さっきのドラゴン、どうやって倒したのか気になるんだけど。どんな方法を使ったの?」
「太陽を使って倒した。」空は唐突に答えた。
麗華は目を瞬きさせ、彼の返答に完全に困惑した表情を浮かべた。
「え、えーっと、具体的に何をしたの?太陽を使ってドラゴンを焼き殺したっていうの?」
「その通りだ。」
えぇ〜〜〜?!私、合ってたの?!
「太陽の全体的なエネルギーを放出して、そのエネルギーでドラゴンにダメージを与え、それで簡単に倒した。」
麗華は呆然とし、口をぽかんと開けたままその説明を聞いた。
あの恐ろしいドラゴンにそれを使って倒したの?それって…なんだか複雑に聞こえるけど?
空がやったことは、麗華に深い印象を与えた。最初は信じられないような話だと思ったが、彼女は迷うことなくそれを信じてしまった。
まさに型破りな答えだわ… こんな常識外れなことをやってのける力を持っているなんて、恐ろしい!
レイカはソルをちらりと見た。
彼の道徳観は少しズレているかもしれないが、それでも彼の行動が多くの命を救ったことは確かだ。以前、彼を五人の死について責めたのは、私の間違いだった…
麗華は、二人が村の入り口に近づくのを見て、立ち止まった。空はそのまま先に歩き続ける。
「し、しんくん!」
名前を呼ばれた空は立ち止まり、振り向かずに静かに彼女が言いたいことを待っていた。
「わ、私たち二人は同じ場所から来たんだから、一緒にいるのがいいと思う。そして、それをうまくやるためには、お互いに親しみを持つことが大切だと思わない?」
興味を示した空は振り返り、彼女をちらりと見た。麗華は立ち止まり、少し戸惑った表情を浮かべていた。何かを抑えているようだった。
「その親しみを築くために、私たちはお互いに名前で呼び合って、敬語を使うのをやめるべきだと思うの。」
空は黙っていて、彼女の提案に即答しなかった。反応がないことに気づいた麗華は、慌てて言葉を続けた。
「た、例えば、私は『麗華』って呼んでほしいな。代わりに、私は…『ソル』って呼ぶね。」
彼女の努力にもかかわらず、空の沈黙は続いた。麗華は、彼が何をためらっているのか気になり始めた。
彼は…ためらっているの?
彼が黙っている時間が長くなるにつれて、麗華の神経は次第に高ぶっていった。耐えきれなくなり、彼女は自分のお願いがどれだけ気まずく聞こえたのかを実感した。すぐに顔を両手で覆い、恥ずかしさが彼女を包み込んだ。
ぐっ!なんでそんなことを提案しちゃったんだろう?!変に思われたらどうしよう?やっぱり無理があったのかな?
「日本とは違う世界だからね?お互いに苗字で呼び合うのは場違いだと思って、だからこれからは名前で呼び合おうかなって…へへ〜」
麗華は無理に笑いながら、彼の反応を待った。短い沈黙の後、空がようやく口を開いた。
「そう言うなら、僕は構わないよ。」
麗華はその答えに動けず、立ち尽くした。
今、彼は…同意したの?!
空は振り返り、再び歩き始めた。二人の間をやさしい風が通り過ぎ、空気のひんやりとした感じが、夜が完全に訪れたことを知らせていた。
「行こう...麗華。」
彼の唇から彼女の名前が発せられた瞬間、麗華は立ち止まった。すると、予期せぬことに、ふっと笑い声が漏れてしまった。すぐに自分が何をしてしまったのか気づき、手を口に押さえつけ、目を見開いて信じられない様子を浮かべた。
一体、なんだったの?
空を見たが、彼は止まることなく、後ろを振り返ることもなかった。自分の反応を早く過ぎ去らせたくて、麗華は慌てて彼に追いつこうとした。
村の入口に到着すると、門の前に立つシラスの姿が見えた。彼の顔は心配そうな表情を浮かべ、二人に近づいてきた。
「空さん、麗華さん、どこに行ってたんですか?ずっと探していたんですよ」とシラスは心配そうに言った。
麗華は少し恥ずかしくなり、照れながら頬をかいた。
「心配をかけてごめんなさい。村の外で少し新鮮な空気を吸っていただけです…」
老紳士はため息をつき、しかしその表情を柔らかくした。彼は横に道を空け、二人に村の中へ入るように促した。
「これまでの出来事を考えれば、きっとお腹が空いているでしょう—私たちと同じようにね。私について来なさい、何か食べ物を用意します。」
シラスは先に歩き出し、二人はそれに続いた。彼らは村人たちが集まり、ランタンのほのかな光の下で食事をしている場所へ向かっていった。
麗華は周囲を見渡し、村人たちが自分が理解できない言葉で会話をしているのを観察した。興味はあったが、無視してシラスと空について行くことに集中した。
歩きながら、麗華の注意が少しそれると、微かな音が耳に届いた。大陸の現地語で話す多くの声の中で、何かが際立っていた—柔らかいがはっきりとした音、まるで騒音の中を織り成す囁きのようだった。
こっちに来て…
彼女は立ち止まり、神秘的な声の方へ振り返った。それは遠くから聞こえるようで、でも彼女の注意を引くには十分に鮮明だった。
あれは何だったんだろう?
彼女の目は周りの村人たちを見渡した。何人かは食べたり、互いに話したりしており、他の者たちは自分の食事をもらうために列に並んでいた。すべては普通に見えたが、その声は彼女を不安にさせた。
その声...確かに日本語で私を呼んでいた...
数人の村人が彼女の急な停止に気づき、好奇心からか、ちらりと視線を送った。一人の女性が近づき、何かを聞こうとした様子だったが、どう進めるべきか迷っているようだった。
彼らが外出していた間、村人たちは新しく来た者たちに興味を持っていた。隠すことなく、年老いた男は彼らが遠い土地から来た外国人で、異なる言語を話すことを説明した。
彼女を助けたいとは思うが、おそらくお互いに理解できないだろうな...と、村人の一人は考えた。
しばらく時間が経ち、レイカに呼びかけていた奇妙な声は静かになった。それが戻ってくる気配もなく、彼女はため息をつき、その出来事を忘れようとした。
私はそれを想像しただけだ...
突然、背後から声が聞こえた。
「大丈夫ですか?」
驚いたレイカは振り返り、固まった。目の前の女性は流暢な日本語を話していた。
「あなた...!」
女性は温かい笑顔を浮かべた。「日本語が話せる?ええ、話せますよ!」
レイカは、この村で日本語を知っているのはシラスとその息子だけだと覚えていた。彼女はその女性をじっと見つめ、その日本語がどれほど流暢であるかに困惑していた。
ここで日本語を知っているのはシラスとその息子だけだと思っていたのに...どうして彼女が日本語を知っているんだ?
「あなた...誰に日本語を教わったんですか?」レイカは興味をそそられ、尋ねた。
女性は明るく笑った。「ああ!私の幼なじみが日本語を流暢に教えてくれました。」
レイカはしばらく黙って、その予想外の答えを処理していた。女性の躊躇を感じた彼女は、すぐに少し焦りながら言葉を加えた。「あ、私の幼なじみ、フメイロウが教えてくれたんです。最初は、村人たちが知らないうちに、彼と村のことをおしゃべりするために覚えました。」
女性は突然、興奮してレイカの両手を取った。
「まさか日本語を流暢に話せる人にまた出会うなんて思ってもみなかったわ。日本語を学ぶのも悪くないかもしれない!」
レイカはその突然の仕草に驚き、体をこわばらせた。
「は...はい、へへへ...」
女性はレイカの不安そうな様子に気づき、すぐに手を放した。
「ごめんなさい...ちょっと興奮しすぎちゃって...」
レイカはほっとしたように微笑んだ。「大丈夫です。こういうふうに近づかれることには慣れているので...」
女性は気まずそうに微笑み、そして手を差し出した。
「そういえば、きちんと自己紹介していませんでしたね。私はシルヴァと言います。」
レイカは手を差し出し、温かい表情で握手を交わした。
「私は...レイカ。レイカ・ミツハ。」
二人は挨拶の握手を交わし、手を離して微笑み合った。
そのとき、レイカの視線がシルヴァの背後にあるドラゴンの死骸に移った。死骸は小さく切り刻まれ、荷車に載せられていた。
「そのドラゴン…彼らはそれをどうするつもりなんですか?」レイカは興味津々で尋ねた。
シルヴァは振り返り、ドラゴンの遺体に気づいた。
「ええとね」とシルヴァは言い始めた。「村の長老が言っていたんだけど、このまま遺体をここに放置すると腐ってしまうから、森に運んでそこで分解させるんだって。」
「遺体を切り刻む必要があるんですか?」レイカはその作業を少し躊躇いながら見つめながら尋ねた。
「うーん…必要だと思うよ」とシルヴァは答えた。「遺体が大きすぎて重すぎるんだ。そのまま森まで引きずっていくのは時間がかかりすぎるから、切り刻んで荷車で運んでいるんだよ。それが一番早い方法なんだ。」
「なるほど…」レイカはつぶやき、作業員たちの様子を見守った。
彼女は村人たちがドラゴンの巨大な体を慎重に切り刻んでいるのを見ていた。その大きな四本の足は最初の荷車に載せられ、他の部分—首、頭、尾、翼—も同様に切り分けられ、それぞれ別の荷車に積まれていた。
「私は彼らを森に案内するつもりよ」とシルヴァはレイカに向かって言った。「一緒に来る?」