第3章ー㉕
黒い槍が、勇者の腹を穿つ――はずだった。
「ッ!? 勇者さ――」
叫び声が喉から漏れた瞬間、父が目の前で倒れたあの日の光景が脳裏をよぎる。
身体が勝手に震え、心臓が凍りつく。
だが。
「ふぅっ、あっぶなかったぁ」
聞こえてきたのは、呑気とも思える声だった。
「……え?」
目を凝らす。
勇者の腹は、確かに槍の軌道上にあった。
しかし、貫かれていない。
勇者は咄嗟に右手を突き出し、槍の穂先を真正面から受け止めていた。
掌から小さな炎が噴き出し、黒槍を焼き焦がすように震えている。
血が一筋、指先から滴り落ちる。
だが、貫通までは許していない。
「ゆ、勇者さん……!?」
安堵と恐怖が入り混じった声が漏れる。
「『ほう……油断していれば、あるいはと思いましたが』」
静かな拍手のように、空気が揺れた。
「『流石は勇者。反射だけは一流ですね』」
黒い影が地面から滑り出すように立ち上がる。
――エイシャ。
先ほどまで姿を消していた十死怪の一角が、悠然と勇者の前に現れた。
「……おまえは……」
勇者が低く唸る。
こいつ。
さっきまでどこに潜んでいた?
ダークボルトとの戦いの最中、逃げ出したとでも思っていたのに。
「仲間がやられてる間に逃げる準備でもしてたかと思ったが……案外義理堅いじゃねぇか」
勇者が皮肉を投げる。
だが、エイシャは微笑むだけだった。
「『仲間思い? ふふ……勘違いなさらず』」
「『私はただ――貴方が油断する瞬間を待っていただけです』」
「『魔王軍にとって、勇者とは唯一にして最大の障害。排除する好機を逃す理由がありません』」
淡々と語られる言葉。
感情の揺れが一切ない。
それが逆に、不気味なほどの余裕を感じさせた。
「なら今度はお前が相手だな。俺は構わねぇ」
勇者が剣を再び構え直す。
だが。
「『ええ。そのつもりです――が』」
その一言と同時に。
ズズ……と地面が低く唸った。
周囲の土が円形に沈み込み、そこから漆黒の影が湧き上がる。
影は次々と形を成し、魔物へと姿を変えていく。
「ッ!?」
息を呑む。
村で戦った魔物たち。
自分が倒しきれなかった生き残りだ。
十体以上――いや、それ以上かもしれない。
「『彼らはね』」
エイシャが楽しげに語る。
「『そこの赤髪の子に、たいへん手酷い歓迎を受けたそうで』」
「『お礼を申し上げたいと、うるさくて仕方がないのですよ』」
「……っ」
視線が、魔物たちから自分へ向けられる。
殺意。
憎悪。
生々しいほどの報復心。
確かに、怒るのは理解できる。
だが、元はといえば――村を襲い、人を殺したのはこいつらだ。
報復など、筋違いにも程がある。
「そうかよ」
勇者が、肩を鳴らす。
「じゃあ、その“お礼”は俺が代わりに受け取ってやる」
だが、その声色は軽い。
「ただし――」
右手から、まだ血が落ちる。
本来なら、自分が前に出なければならない。
それなのに、身体はまだ重く、思うように動かない。
――まずい。
そう思った瞬間。
「受け取るには少々手間がかかりそうだからな」
勇者は不敵に笑った。
「そこんところは……よろしく!」
剣が、再び炎をまとう。
そして戦場は、再び動き出した。
絶体絶命の幕が――今、上がる。




