第10章ー4
『……うぅ。くちゃい……』
結界の柔らかな光の中。
沈黙が支配していた休息の空気を、フィーの小さな声がそっと揺らした。
彼女はやや涙目になりながら、自分の袖口をつまんで鼻先に近づける。そして確かめるまでもなく、しゅんと眉をひそめた。
「ああ……そういえば……」
自分も思い出す。
銀鏡の翼龍が出現したあの混乱の最中。
恐怖で身体が硬直し、そして――彼女は失禁していた。さらにそのまま地面に突っ伏していたのだから、衣服と肌に臭いが残るのは当然だ。
あの時は生き延びることに必死で、誰も気にしている余裕などなかった。
だが、こうして安全圏に落ち着いた今となっては、本人にとって耐えがたい問題なのだろう。
「着替え、ある? あるなら替えた方がいいと思うよ」
『……うん。そうする……』
フィーは小さく頷き、荷袋をごそごそと探り始める。
「そういえば拙者も、戦闘の汗で服が少々臭うでござるな」
マヒロがいたって真面目な顔で言うものだから、思わず吹き出しそうになる。
いや、実際笑うのは失礼だが、この状況でその台詞は反則だろう。
「なら、みんな一回着替えたら? 今しかタイミングないだろうし」
「そうですね」
ソンジさんやミオも頷き、荷袋に手を伸ばす。
気づけば、女子全員が「今のうちに着替える」という流れになっていた。
――が。
結界はそこそこ広いとはいえ、個室のように仕切られているわけではない。
当然、男子がそのまま内側にいれば大問題である。
「サダメ」
ミオに名前を呼ばれた瞬間、察する。
これは“見るな”の合図だ。
「分かってる。ギリスケ、後ろ向け」
「なっ!? なんだよ急に?!」
有無を言わさず肩を掴み、ギリスケの身体を結界の外側へ向けさせる。
外は薄暗い氷の空間。今のところ敵の気配はないが、ここが迷宮の深部であることに変わりはない。油断はできない。
「覗くなよ?」
「わーってるって! だからそんな睨むなよー。照れるだろー?」
「なんでだよ」
即座にツッコミを返す。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ和らいだ。
――だが、それも一瞬だ。
女子が着替えている間、ギリスケが本当に余計なことをしないか監視するのも自分の役目。
こいつがもし覗いたと発覚すれば、制裁が飛ぶのは確実。そしてなぜか自分まで巻き添えになる未来が容易に想像できる。
それだけは、全力で阻止しなければならない。
「絶対に動くなよ」
「はいはい、分かってますってぇ~」
軽口を叩く声の裏で、
自分はしっかりとギリスケの動きを注視しながら、同時に周囲の気配にも神経を尖らせ続ける。
ここはまだ迷宮。
安らげるのは、ほんのひとときに過ぎないのだから。




