第9章ー92
それから、さらに数百年の時が流れた。
正確な年月を数える術はないが、この氷の牢に閉じこもってから――おそらく、千年近くが経過しているはずだった。
――まだ、か。
再び意識が浮上する。
目を覚ますたび、同じ問いが胸中に湧き上がる。
迎えは、来ていない。
身体の状態は、もはや万全に近かった。
人類の猛攻によって刻まれた傷はほぼ癒え、欠けていた鱗も再生している。わずかな痕跡こそ残ってはいるものの、意識しなければ分からぬ程度だ。
長く、果てしない治癒の時間は、ようやく終わりを迎えつつあった。
にもかかわらず――。
あれ以来、誰かが訪れた気配は一切ない。
眠りに就いてはいるものの、この場に変化があれば即座に察知できる。それほどまでに感覚は研ぎ澄まされている。
だが現実は、何も起こらなかった。
ただ静寂だけが続き、氷の中で快適な眠りを貪る日々。
――否。
快適すぎた、と言うべきかもしれない。
――所詮は、戯言だったか。
迎えどころか、様子見の一度すらない。
あの謎の声の主は、とうに自分の存在など忘れてしまったのだろう。
何者であったのかも分からぬまま、交わした約束だけが宙に浮く。
期待してしまった自分が愚かだったのか。
その思いが胸に沈殿し、重くのしかかる。
――ん……?
その時だった。
上方から、微かな異音が伝わってきた。
耳を疑うほど小さな音。
だが、確かに――氷が軋む音だった。
――誰だ?
意識を集中させ、必死に視線を上へ向ける。
動かぬ首、動かせぬ身体。
それでも、視界の端に“異変”を捉えた。
氷塊に、細い亀裂が走っている。
その瞬間、疑念は確信へと変わった。
間違いない。
何者かが、この氷に“干渉”したのだ。
千年近く、こんなことは一度もなかった。
あの謎の声が響いた時でさえ、氷が傷つくことはなかったというのに。
――……もしや、来たのか。
心臓が、どくりと脈打つ。
約束の言葉が脳裏をよぎり、沈み切っていた心が一気に浮上する。
迎えが来た。
とうとう、この時が訪れたのだと。
――……いや、待て。
次の瞬間、違和感が走る。
氷に刻まれた亀裂から、微量ながら“魔力”を感じ取ったのだ。
それは、あまりにも――。
――この魔力……。
どこかで、確かに感じたことがある。
記憶を辿ろうとした刹那、完治したはずの古傷が疼き始めた。
――違う。あやつのものではない。
即座に理解する。
これは、あの赤く染まった存在の魔力ではない。
――人間……。
忌まわしき種族。
かつて、己を地の底へ追い落とした者ども。
確かに、あの時の魔力よりも弱い。
だが性質は酷似している。
刀傷の一つ一つに残されていた、人類特有の魔力と。
あの声の主の力とは、比べ物にならぬほど矮小で、浅い。
同列に語ることすら烏滸がましい。
――許せぬ。
期待が、怒りへと反転する。
――あやつらは……絶対に、許せぬ!!
人類の魔力だと確信した瞬間、銀鏡の翼龍の内奥で、眠っていた闘争本能が激しく燃え上がった。
氷の牢に閉じ込められてなお、その怒りは衰えていなかった。
再び、この身を傷つけようとするのなら――。
その時こそ、千年の怨嗟をもって迎え撃つのみ。




