第9章ー91
――ッ!?
まるで自分の思考を読み取ったかのような間で、謎の存在は名乗りかけた。
だが、その名を聞き取ることはできなかった。
いや、正確には――聞いたはずなのに、脳裏に留まらなかった。
「私はな、この地に“美しい龍が眠っている”という噂話を耳にしてな。半信半疑ではあったが、退屈しのぎに様子を見に来た、というわけだ」
赤く染まった氷海の中で、その声だけが明瞭に響く。
「だが……なるほど。噂は誇張ではなかったようだな。その銀色の翼、鏡のように光を映す鱗――やはり、其方で間違いあるまい。そうであろう?」
――……。
何を言われているのか、完全には理解できていない。
だが、少なくとも分かることが一つある。
この存在は、純粋な好奇心で自分を見に来た――らしい。
「暇つぶし」という言葉には、わずかな苛立ちを覚えた。
だが、不思議なことに、怒りは湧かなかった。
敵意も、殺意も、そこには存在しない。
それどころか、相手はまるで芸術品でも鑑賞するかのような声音で続ける。
「しかし……まだ傷は完全に癒えてはおらぬか。完璧な状態であれば、さらに美しく映えたであろうに」
残念そうな響き。
その言葉に、銀鏡の翼龍は否応なく己の現状を意識させられる。
無数に刻まれた切り傷。
一部欠け、ひび割れた鱗。
かつての絶対的な姿と比べれば、見る影もない。
自分が、ここまで無様な姿になるなど――かつては想像すらしなかった。
「ふむ……この氷塊、其方自身の魔力で形成されたものだな」
謎の声は、すでに全てを見透かしているかのようだった。
「この氷に囲われることで、己の傷を少しずつ癒している。理にかなっておる。だが……完治までは、まだ暫し時間が必要であろう」
そして、少し間を置いて。
「そうだな。であれば――こうしよう」
――?
唐突な言葉に、銀鏡の翼龍は思考を巡らせる。
「其方の傷が完全に癒えた時、私が迎えに来よう」
――なっ!?
予想だにしない提案だった。
助けに来る、という言葉の意味を理解するのに、一瞬の遅れが生じる。
「美しき姿を取り戻した暁には、其方を私の配下として迎え入れる。どうだ?」
声には、疑問というより確信が滲んでいた。
「このまま動けぬ生涯を送るよりは……幾分か、ましであろう?」
――……。
なるほど。
観光目的というのは建前で、本命はこれだったのだろう。
正体も分からぬ存在の配下になる。
それは不安であり、屈辱でもある。
だが――。
ここで、何もできず、ただ時に風化していくよりは。
外へ出る可能性があるなら、どんな手段でも掴むべきだ。
――わかった。好きにするといい。
言葉を発することはできない。
代わりに、彼は静かに瞬きをした。
それを、謎の存在は確かに受け取った。
「うむ。交渉成立だな」
満足げな声が、氷海に溶ける。
「では、私は一度失礼しよう。この状態では、私の魔力が介入し、其方の治癒を阻害してしまうようだ」
「また数十年後か、数百年後か……いずれ再会しようぞ」
その言葉を最後に、気配は遠ざかる。
赤く染まっていた氷塊は、ゆっくりと元の透明な色を取り戻していった。
静寂が、再び訪れる。
それから銀鏡の翼龍は、ただ待つことを選んだ。
約束の時が来る、その日まで。
再び、長い眠りにつきながら――。




