【コミカライズ】拝啓 隣国の皇太子様、溺愛演技が上手すぎです!
「ニコル――――僕は君とは結婚できない」
「……え?」
突拍子もない言葉に耳を疑う。
いや、耳だけじゃなく、目までおかしくなってしまったのだろうか? 婚約者であるネイサンは、クラスメイトである伯爵令嬢サブリナを後ろから抱きすくめ、切なげに頬ずりをしている。
「まさかとは思いますが、そちらの御令嬢と結婚するから、わたしとは結婚できないとでも?」
「その通りだ」
考える間もなく即答されてしまった。悪びれる素振りすら全くない。正直愕然としてしまう。
(嘘でしょう……?)
この世に生を受けた瞬間から、わたしはネイサンの妃になるべく育てられた。将軍であるわたしの父とネイサンの父親である国王陛下が、『互いの子を結婚させよう』なんていう約束を交わしたからだ。
家族は皆豪胆かつ熱血系。自由奔放な兄三人に囲まれながらお淑やかな妃を目指すことは、半ば拷問に近い。
それでも、六年前に正式に婚約を結び、今日まで必死に努力を重ねてきた。それなのに、こんな風に婚約破棄されるなんて。
「申し訳ございません、ニコル様! わたくしがっ! わたくしが全て悪いのです! わたくしが殿下を愛してしまったから」
芝居でも見せられているのかな? って尋ねたくなるような悲痛めいた叫び声。大袈裟に顔を覆うそのしぐさに、イライラがさらに募っていく。
「ああ、違うよサブリナ! 君は何も悪くない。いや……君の愛らしさは罪だ。けれど、もっと早く――――ニコルよりも先に君に出会えていたら、僕は間違えなかった。最初から君を選んでいたのに」
(は?)
一体なにを言っているの? 『僕は間違えなかった』?
じゃあ何? ネイサンはわたしが悪いと言いたいわけ? これまで必死に頑張って来たわたしは、彼にとって邪魔者でしかないと、そう言いたいのかしら?
「殿下! わたくしも、もっと早くに貴方にお会いしたかった。そうすれば、間違いなくわたくしを選んでいただけた! 誰ひとり傷つくことなく、幸せで居られましたのに」
サブリナの潤んだ瞳が『さっさと身を引け』と訴えている。これじゃまるであちらが被害者で、わたしの方が加害者だ。さすがは妖精姫の異名を持つサブリナ嬢。庇護欲を擽るのがとても上手い。だけど、男って言うのはこういう無垢を気取った女が好きなんだろうなぁとも思う。
(何よ……負けるもんですか)
大きく息を吸い込みながら、わたしはギュッと拳を握った。
「殿下――――このこと、陛下には報告をなさったのですか? わたしとの婚約を勝手に破棄できると、本気でお思いなのですか?」
「それは……」
「陛下はきっと、わたくし達のことを認めてくださいますわ」
言い淀んだネイサンの代わりに、サブリナはずいと身を乗り出す。
「お優しい方ですもの。きっと真実の愛に涙し、喜んでくださると思います」
「真実の愛に涙し? ふふっ、わたし達が平民だったら、百歩譲ってそういうこともあったかもしれないわね? だけど王族の婚姻は重いの。こんな簡単に破棄出来るようなものじゃないわ」
いや、正直言って身分に関係なく、浮気している時点で最低最悪だし、真実の愛とかちゃんちゃらおかしい。そもそも話が通じる相手じゃないようだから、言及した所で意味がないけど。
「大体、わたしが質問をしたのは殿下に対してであって、あなたじゃない。勝手に答えないで頂戴」
「止めろよ、ニコル。サブリナが怖がっているだろう? 君とは違って繊細な女性なのだから」
「繊細? 冗談でしょう?」
婚約者の居る人間に近付き手を出す女のどこが『繊細で無垢な妖精姫』なのよ。か弱いふり、可憐な振り、人畜無害な振りが上手いだけじゃない。図太くてあざといの間違いだと思うわ。
「殿下……わたくし、わたくし…………」
「サブリナ、泣かないで。僕が付いている。大丈夫だ。父上のことは僕が何とかするし、誰が何と言おうと、僕の妃は君だ」
ああ、そうですか。
ネイサンの中では悪いのはどこまでもわたしで、自分達は被害者ってことなんだろう。謝罪の一言もないし、ものすごく腹が立つ。
(それなのに、どうして? どうしてわたしはこんな男のことを好きなんだろう?)
そりゃあ相手は婚約者だし――――婚約者だったのだし。幼い頃から一緒に居て、好きになるよう努力もしてきたわけで。悲しくなって当然なのかもしれない。
「殿下……ネイサン、本当にその子が良いの? わたしじゃダメなの?」
だけど、こんなに苦しくならなくたって良いじゃない? こんな男のために、涙なんて流すべきじゃないでしょう?
「そうだよ、ニコル」
それなのに、返ってきた言葉は残酷そのもの。もうダメなんだって。頑張っても意味が無いんだって思い知るには十分だった。
***
父や兄達は、婚約破棄の事実を知ると烈火のごとく激怒した。
「今すぐ王宮に乗り込もう」
「我らが妹を袖にするなど許せない」
「目にもの見せてやる」
「止めて! お願いだからそれだけは止めて!」
父や兄がその気になれば、本気で国がひっくり返る。革命が成功してしまう。
――――いや、我が家にも王家の血が流れているのだし、あんな男が王位を継ぐよりは余程良いのかもしれないけど。それでも。
「しかしニコル、お前はこのままで良いのか?」
「良い訳ないわ! 当然やり返すに決まっているじゃない」
「さすが我らが妹! では、早速隊を率いて王城に……」
「だから! 武力行使はしないってば!」
全く、脳筋の家族を持つとこれだから苦労する。わたしを想ってくれているってことは分かるけども、兄達のやり方はあまりにも乱暴すぎる。
「わたしに考えがあるの」
***
「恋人の振り?」
「そうなの。お願いできないかしら?」
翌日、わたしは一人の男性をガゼボへ呼び出していた。
彼の名はバルディヤ様。
隣国ザリンスティーチ帝国の皇太子で、我が国に三か月間留学に来ている。
王太子の婚約者ということもあり、わたしと彼はかなり親しい間柄だ。
お互い、将来国交を担う役割があればこそのお付き合いではあるけれど、行動を共にすることが多いし、何より一緒に居て居心地がいい。もちろん、これまではネイサンも一緒に過ごしていたのだけど。
「ごめんなさい。本当はこんなこと、貴方にお願いすべきじゃないと分かっているの。だけど、あの男――――ネイサンに復讐するためにはこれしか方法が無くて」
身分や外見、教養諸々がネイサンと同等以上に優れている男性って考えた時、真っ先に思い浮かんだのが彼の顔だった。
光り輝く銀の髪に、印象的なワインレッドの瞳。鍛え上げられた肉体に豊富な知識。一つでも秀でている部分があればっていう中、バルディヤ様はどれを取ってもネイサン以上。
彼がわたしの恋人だと言えば、ネイサンは間違いなく悔しがるだろう。
「復讐? ネイサンに? ニコルのお願い事だし、叶えてあげたいとは思っているけれど……一体なにが?」
「実は――――婚約を破棄されまして」
「婚約破棄!?」
未だ正式に婚約破棄が成立していないせいか、このことは明るみになっていない。バルディヤ様が驚くのは当然だ。正直言って恥ずかしいし、情けないし、言葉にするだけで苛立つけれども。
「嘘だろう? まさか、今さら他国の姫君を迎えることになったのか? だけど、近隣に年頃の姫は居ないし……」
「そうだとしたらどんなに良いか。政略も何も存在しない。新しいお相手は伯爵家の御令嬢よ。サブリナ嬢、知ってるでしょう?」
バルディヤ様はわたしが浮気されたとは夢にも思わなかったらしい。呆然と目を見開き、手のひらで口元を押さえている。
「ねえ、お願い。貴方が帰国する迄の一ヶ月間だけで良いの。わたしの恋人の振りをしてもらえないかしら? 当然、タダでとは言わないわ。わたしが持っているものなら何でも差し出すから」
一帝国の皇子を相手に、こんな交渉をするなんて馬鹿げている。
だけど、わたしは父から、彼の利になるだけの手札を授かっていた。第一、この交渉が上手くいかなかったら、父や兄達が本気で城に乗り込みかねない。それだけは避けなければ。
昨晩準備したリストを差し出せば、彼は静かに目を走らせ、微かに笑みを浮かべる。
「良いよ。今この瞬間から、俺はニコルの恋人だ」
バルディヤ様はそう言うと、わたしの手を取り、指先に触れるだけのキスを落とす。鮮やかな紅の瞳に見上げられ、心臓がドクンと大きく跳ねる。
よろしくお願いします、と返したら、彼は穏やかに目を細めた。
***
とはいえ、『わたしが先に浮気をした』と思われる事態は避けなければならない。
悪いのはあくまでもネイサン。こちらが悪者になっては、バルディヤ様にも迷惑が掛かってしまうからだ。
だからこそ、恋人の振りをする前に、周りに婚約破棄の事実が知れ渡るのを待つ必要があったのだけど。
「待つまでもない。本当に一瞬だったわね」
わたし達が教室に戻ると、既に婚約破棄は周知の事実だった。どうやら、ネイサンとサブリナが積極的に吹聴して回ったらしい。
一体何があったの? と尋ねてくるクラスメイト達の話を聞きながら、沸々と怒りが湧き上がってくる。
『サブリナは僕の妃になるんだ。丁重に扱ってくれよ』
そう口にしていたらしいネイサンのどや顔が目に浮かぶ。心の底から殴り飛ばしてやりたいと思った。
「まあまあ、お陰で俺も待たなくて良くなったし」
そう口にして、バルディヤ様が微笑む。熱っぽい瞳でわたしを見つめ、まるで宝物のようにわたしの手を握りながら。
「それは……その…………」
正直、まだ早いんじゃないかな? と思いつつ、この場でそんなことを打ち合わせるわけにもいかない。戸惑いながらバルディヤ様を見つめれば、彼はビックリするぐらい甘やかな笑みを浮かべた。
「好きだよ、ニコル」
「!?」
周りにも聞こえるぐらいの声音で、バルディヤ様が口にする。驚きのあまり、椅子から転げ落ちそうになってしまった。わたしだけじゃなく、側に居たクラスメイト達も驚愕に目を見開き、こちらをじっと見つめている。
「こんな日が来るなんて、ネイサンには感謝しなければならないな」
「ちょっと、バルディヤ様……」
「バルディヤ様だなんて他人行儀な呼び方は止めてくれ。バルと気軽に呼んで欲しい。俺は君の恋人なのだから」
普段は行儀良くしているクラスメイト達も、さすがに黙っていられなかったらしい。周囲が大いに騒めいた。
「バルディヤ様! あの」
「バル」
バルディヤ様はそう言って、真剣な眼差しでこちらを見つめる。
(どうしよう)
友人として接していた時とは大違い。恋人と言っても、こんなあからさまな態度を求めていたわけじゃないし、正直戸惑ってしまう。
「ニコル?」
だけど、バルディヤ様は期待に満ちた表情で、わたしを待っている。
いやいや、演技上手すぎでしょう? 王族皇族って演技指導までされるわけ?
これじゃあまるで、本気で好かれているみたいじゃない。自分から恋人の振りをお願いしたのに、勘違いしそうになってしまう。
でもなぁ――――呼ぶまでこの状態が続くんだろうな。
「バル……様」
なんとかそう口にすれば、バルディヤ様はパッと瞳を輝かせ、満面の笑みを浮かべた。ニコル、とわたしの名前を呼びながら、ビックリするぐらい美しい顔を綻ばせる。
「本当に、ニコルと恋人になれたんだな」
あまりにも嬉しそうな声音。心臓が早鐘を打つ。
ねえ、何て返せば良いの? 周りの目があるし「そうだね」って言うのが正解だって分かってるけど、なんか――――――なんとなく、それじゃダメな気がする。
「あの……お二人は恋人同士になられたのですか?」
ついに我慢が出来なくなったのだろう。クラスメイトの一人がそう尋ねてくる。
「えっと……」
「俺がニコルに一方的に想いを寄せているんだ」
バルディヤ様がそう答える。驚くわたしを余所に、彼はそっと目を細めながら、クラスメイトへと向き直った。
「今は未だ他の男のことを考えられないと言うニコルに無理を言った。仮でも良いから恋人にしてほしいと頼み込んだんだ」
「え……?」
ちょっと待って、バルディヤ様! そんな設定、さっきの打ち合わせの時にはありませんでしたけど!?
そもそも、打ち合わせらしい打ち合わせはしていないけれども! それにしたってあんまりだ。だってこれじゃ、何かあった時にバルディヤ様が一方的に悪くなってしまうじゃない。
「バルディヤ様、それは」
「ニコルが好きで、堪らなかった。婚約を解消したと知って、我慢できなかった。どうしても恋人になりたかったんだ」
待って。
バルディヤ様、演技が上手すぎだってば。
お願いしたのはわたしの方だけど、言葉も表情も予想以上。というか、『彼の恋人』というネームバリューがあればわたしはそれで良かったのに。
偽りの恋人。偽りの感情。そうと分かっていても、胸がドキドキして堪らなかった。
***
その日以降も、バルディヤ様の溺愛演技は続いた。
行きも帰りも彼の馬車が迎えに来て、一緒に登下校をする。二人きりの時ですら、彼が演技を止めることは無い。
「バル様」
「うん?」
隣り合い、固く繋がれた手のひら。近すぎるその距離に、心臓が休まる暇がない。
緊張で身体が物凄く熱いし、そんな自分の状態を悟られたくないのだけど、彼は側に居る間中、決して手を放そうとしない。
これでは完全に演技過剰だ。本気で何とかしなければならない。
「頼んでおいて何なのですが、ここまでして頂かなくても良いのですよ?」
わたし達の交際は、既にネイサンの耳にも届いている。表だって何か言われたわけじゃないけど、彼の側近候補達が探りを入れているのは間違いない。
「そうかな? 人の見ていない場所でも演技を続けないと、案外バレるものだよ?
それとも、ニコルは嫌? 俺に触れられたくない?」
バルディヤ様はそう言って、わたしの髪をそっと撫でる。既にバクバクとうるさかった心臓が、ひと際大きく跳ねた。
「嫌ではありませんが……これでは身体がもちません」
人間、慣れないことには耐性がない。
よくよく思い返してみると、ネイサンはわたしにちっとも触れなかった。
そりゃあ、夜会でダンスを踊ることはあったけど、わたし達の間にあったのはそういう義務的な触れ合いだけ。手を繋ぐこともなければ、こんな風に髪を撫でられたこともなかった。
(わたし、ネイサンに全く好かれてなかったんだなぁ……)
脳裏にサブリナを抱き寄せるネイサンの姿がチラつく。勝ち誇った表情で微笑むサブリナが。全く悪びれることなく、サブリナのことしか見ないネイサンが。わたしの頭から離れてくれない。
そうしている内に、段々と悪かったのはあの二人じゃない。わたしの方なのかな、って思えてきて――――。
「――――嫌じゃないのなら」
「え?」
その瞬間、わたしはバルディヤ様に抱き締められていた。温かくて逞しい腕。身動ぎしてもビクともしない。
「バル様、あの」
「俺はニコルが好きだよ」
バルディヤ様の言葉に目頭がグッと熱くなる。
堪えていたのに――――堪えていたいのに、背中を優しく撫でられて、堪えきれずに涙が零れる。
「駄目です、バル様。このままじゃわたし、あまりにも情けなくて」
嗚咽が漏れ、見苦しいことこの上ない。こんな風に感情を吐露してはいけない。涙なんて、流したらいけないのに。
「堪える必要などない。思う存分泣いたらいい。他に誰も見ていない。俺はニコルの恋人なのだから」
「……何なんですか、その理由?」
わたしからしたら脈略が無いのだけど、バルディヤ様の中では繋がっているのだろうか? 思わず吹き出してしまったわたしに、バルディヤ様は優しく微笑んだ。
「良いから。しばらくこうさせて欲しい」
「…………はい」
温かい。何だか、色んなことを許されている気がする。
「俺はニコルが好きだよ」
バルディヤ様が、先程と同じ言葉を繰り返す。何度も、何度も繰り返す。
偽りの恋人。偽りの愛情。
全てが紛い物だけど、わたしはこの時、間違いなくバルディヤ様に救われた。
***
(あと二週間かぁ……)
一人校庭を歩きつつ、わたしは静かにため息を吐く。
二週間後、バルディヤ様は帰国する。着々と近付くタイムリミット。彼に恋人の振りをお願いしてから、これまで以上に時間が経つのを早く感じる。
(二週間経ったら、バル様には会えなくなってしまうのか――――)
そこまで考えて、はたと気づいた。
ちょっと待って。そうじゃない。そうじゃないでしょう?
だって、バルディヤ様にはネイサンを見返すために、恋人の振りをお願いしているだけだもの。わたしが考えるべきは『あと二週間で、どうやってネイサンをぎゃふんと言わすか』の方だ。そうじゃなきゃ、折角協力してくれてるバルディヤ様に申し訳が立たない。目的を見失うなんてどうかしている。しっかりしなくちゃ。
そもそも、バルディヤ様に会えなくなることを寂しがる権利なんてわたしにはない。だって、わたし達は恋人の振りをしているだけなんだもの――――。
「バルディヤ様!」
その時、男心を擽る高く愛らしい声音が聞こえてきて、わたしは思わず物陰に身を潜めた。
「――――サブリナ嬢、だったかな?」
バルディヤ様の声だ。わたしと接している時とは違い、少々他人行儀な話し方に聴こえる。
(サブリナ嬢ったら、一体何の用かしら?)
あの二人に元々接点は無かった筈。それなのに、いきなり呼び止めるだなんて、一体……。
「わたくし、我が国の第一王子ネイサン殿下の妃になる予定ですの。貴国とは親交も深く、これから顔を合わせる機会も多いかと思いまして、どうしてもご挨拶を差し上げたかったのです」
サブリナはそう言ってニコリと微笑む。可憐な笑み。けれど、彼女はほんの僅かに視線を動かすと、口の端を吊り上げた。
(――――気づいている)
わたしがここに居ること。知っていて、彼女はバルディヤ様に声を掛けたらしい。
サブリナはバルディヤ様の胸元に手を置き、甘えるように擦り寄った。
「是非、仲良くしていただきたいですわ。公の場でも、それ以外の場所でも」
愛らしい――――けれど妖艶な笑み。心臓が嫌な音を立てて鳴り響く。
(止めて)
バルディヤ様に触らないで。そう言いたいのに、あまりのショックに声が出ない。
どうして? どうして彼に手を出すの?
ネイサンが居るのに――――ネイサンだけじゃ足りないの?
嫌だ。
バルディヤ様があの子に微笑むのが。わたしにするみたいに触れるのが。
お願いだから、優しくしないで――――。
「無理だ」
「……え?」
いつになく厳しいバルディヤ様の口調に、わたしもサブリナも目を見開く。
「君とだけは仲良くできない。君は俺の大切な女性を――――ニコルのことを傷つけた。謝罪もせず、まるで彼女が悪いかのように感じさせた。許すつもりはない。今後は俺を見掛けても、二度と声を掛けないで欲しい」
「そっ、そんな……! けれど、それでは」
「貴国の王に対しては、ネイサンが婚約者を裏切り、君のような女性を妃に迎えようとしていることについて、既に苦言を呈している。我が国との外交にも差支えがあると明言をした――――失礼する」
サブリナが唇をワナワナと震わせる。悔しさのせいだろう。頬が真っ赤だ。
「……っ!」
彼女はわたしが居ることを思い出したらしく、勢いよく踵を返した。
***
右手を包む大きな温もり。初めはあんなにも戸惑っていたのに、この一ヶ月ですっかり当たり前になってしまった。
だけど、あと三日でそれも終わり。
バルディヤ様は国に帰ってしまう。
(どうしよう)
寂しくて、苦しくて堪らない。
彼に会えなくなることが。こうして手を繋げなくなることが。
この間、バルディヤ様はわたしを色んな場所に連れて行ってくれた。
本来、皇族である彼の行動範囲は狭い筈。けれど彼は、行きたい場所に行き、したいことをするのだと口にした。
流行りのカフェに仕立屋、馬で遠乗りに出掛けたこともあった。
世の中にこんなに楽しい場所、時間があるなんて知らなかった。時間が惜しいと思ったのは生まれて初めてだった。
こんなにもわたしは――――
「ニコル」
久方ぶりに聞く声に顔を上げる。
見ればそこには、元婚約者であるネイサンが立っていた。
「殿下……」
「話がしたいんだ。君と二人きりで」
苦し気な表情。ネイサンの声は震えている。
「だけど――――」
「行っておいで」
バルディヤ様がそう言って微笑む。その途端、胸がズキンと痛んだ。
わたしに悲しむ資格なんてない。分かってはいるのだけど。
「俺はここで待ってるから、行っておいで」
そう言って優しく背中を押される。躊躇いながら、わたしはネイサンの元に向かった。
「やり直してほしいんだ」
「……え?」
開口一番、ネイサンはそう口にした。彼はわたしの手を取り、切なげに目を細める。
「俺と最初から、やり直してほしい。俺の妃はニコルだけだ」
全く想像していなかった事態。わたしは大きく息を呑む。
「お待ちください。サブリナ嬢のことは? 一体どうしたのです?」
「彼女とは別れた。
僕は馬鹿だった。ニコルは素晴らしい女性なのに……そのことにちっとも気づかず、君のことを傷つけてしまった。離れて初めて分かったよ。僕にはニコルが必要なんだ。一生側に居て欲しい女性はニコルだけだって」
ネイサンはそう言って、真っ直ぐわたしのことを見つめる。
ずっと待ち望んでいた言葉。
その筈なのに、不思議と全く嬉しいと思わない。
わたしが隣に居て欲しい人はもう、ネイサンじゃない。一生を共にしたい人は、彼以外の人なんだって思い知った。
「今すぐ返事をしろとは言わない。
だけど、彼とは――――君はバルディヤに一方的に好意を寄せられているだけなのだろう?」
「違っ――――」
「彼はもうすぐ国に戻るし、君達は将来の約束をしているわけでは無い。彼と共に生きる未来は存在しない。そうだろう?」
それは――――ネイサンの言う通り。
わたし達はあくまで偽りの恋人。
バルディヤ様がわたしに一方的に懸想している――――そういう設定。
だけど、想いを寄せているのはバルディヤ様じゃない。わたしの方だ。
この一ヶ月の間に、わたしは彼のことが好きになってしまった。演技じゃなくて、本気で。
だけど、側に居たいなんて言えない。これから先も一緒に居たいだなんて、とても。
「だったら、僕のところに戻ってきて欲しい。……待ってるから」
ネイサンはそう言って踵を返した。
残されたわたしは、立ち尽くしたまま胸を押さえる。
(どうしよう……どうしたら良いの?)
「良かったね、ニコル」
背後からポンと頭を撫でられる。
振り返ったら、今にも泣きそうな表情のバルディヤ様がそこに居た。
「聞こえていたの?」
「いいや。
だけど、見たら分かる。あいつを――――ネイサンを取り返せたんだろう? 良かったじゃないか」
バルディヤ様はそう言うけれど、顔が全然笑っていない。言葉と表情がチグハグすぎる。
どうして? 恋人の振りはあんなにも上手だったのに、一体どうして……。
「これで俺の役目は終わりだな」
微笑むバルディヤ様。胸が壊れそうな程強く軋む。目頭が熱い。涙が零れ落ちそうになって思わず俯く。
「一か月間楽しかった。ニコルと一緒に過ごせて、すごく幸せだった」
優しい声音。今にも泣きだしそうな表情。見ているこちらの方が苦しくなってしまう。
「ニコル」
強く強く抱き締められる。苦しい。だけど身体よりも心の方が、ずっとずっと苦しかった。
「好きだよ、ニコル」
バルディヤ様が囁く。ゆっくりと、わたしの心に刻みつけるように。
「これからもずっと、ニコルのことが好きだ」
ああ――――バルディヤ様は嘘吐きだ。
ずっと、嘘を吐かれていた。
だって、さっきとは――――『良かったね』って言われた時とは全然違うもの。
(本当は演技、下手糞なんじゃない)
初めてのキスは二人分の涙の味がした。
***
己のバカさ加減にため息が出る。
折角、もう少しで愛しい女性が手に入ったかもしれないのに。
俺は自らの手で、その機会をみすみす逃がしてしまった。
彼女――――ニコルと出会ったのは、俺達がまだ六歳の頃。外交のため、父と初めてこの国を訪れた時のことだった。
「ニコルと申します。よろしくお願いいたします」
幼い頃の彼女は、今とちっとも変わらない。
愛らしく、けれどとても気の強い少女だった。
当時、今とは違って引っ込み思案だった俺は、彼女に引き摺られるようにして、色んな所に連れて行かれた。
「行きたい場所に行って、したいことをするのよ!」
活き活きと笑う彼女が俺には眩しくて堪らない。
完全な一目惚れだった。
国に帰って以降も、俺はニコルを忘れることが出来なかった。
彼女に相応しい男になりたい。そう思って色んなことを頑張った。
けれど、二度目に会った時、彼女はネイサンの婚約者になっていた。
「親が決めた婚約なのよ。生まれる前から決まっていたんですって」
彼女はそう言って微笑んだ。
苦しい――――俺はニコルが好きなのに。もう、想いを伝えることすら許されない。
それから六年。
諦めの悪い俺は、婚約者を作ることもせず、ニコルのことを想い続けていた。
けれど、いつまでも初恋を引き摺るわけにはいかない。タイムリミットは迫っている。
最後の悪あがき――――彼女を諦めるための留学だった。
(人生は何が起こるか分からないな)
留学を始めてから二か月後、ニコルはネイサンに婚約を破棄され、俺に『恋人の振りをしてほしい』と頼んで来た。
気の毒だと思った。悲しむ顔を見たくないと思った。
けれど、それと同時に嬉しかった。彼女が俺を頼ってくれたことが。
ニコルに想いを伝えられることが。
彼女は演技だと思っていたみたいだが、本当は違う。
ニコルに贈った言葉は、全部俺の本心だった。
本気で彼女の恋人になりたいと思っていた。
ニコルが好きだ。
ニコルの笑顔が好きだ。
声も、涙も、彼女の全てが愛おしくて堪らない。
仮初でも彼女と恋人になれて、俺は心の底から幸せだった。
「殿下、そろそろ」
「分かっている」
これから先、ニコルとは外交で顔を合わせることがあるだろう。その時、俺はきちんと笑えるだろうか? 彼女の幸せを祝福することが出来るだろうか?
(無理だろうな)
俺は演技が下手糞だから。ニコルにもきっとバレてしまうだろう。
本当は俺自身の手で彼女を幸せにしたかった――――と。
けれど、従者達に促され、馬車に乗り込もうとしたその時だった。
「バル様!」
愛しい声音。振り向くまでもない。
ニコルだ。
彼女は大きく手を振り、俺の方へと駆けてくる。
俺は急いで彼女の元に向かった。走って、彼女を抱き締めかけて――――それから止めた。
俺はもう、彼女の恋人じゃない。触れることも、想いを伝えることも許されないのだから。
「バル様!」
けれど、そんな俺をニコルがギュッと抱き締めてくれた。
嬉しい――――涙が零れ落ちそうになるのをグッと堪える。
「ニコル、一体どうして……」
別れを告げに来たのだろうか? しかし、彼女はネイサンの婚約者に戻った筈で。一人で俺に会いに来ることは許されない筈なのに。
「対価をお渡ししていなかったことを思い出したんです」
思わぬ言葉に目を見開く。すると、ニコルは花が綻ぶ様に微笑んだ。
「恋人の振りをお願いした時、バル様にわたしが持っているものを――――何でも差し上げるとお約束しました。わたしはまだ、その約束を果たしていません。バル様、どうかお好きなものをお命じください。わたしが持っているものなら、どれでも」
そういえば、そんな約束を交わしていたことを思い出す。
けれど、元より対価など求めていない。ニコルの恋人になれることこそ、俺にとっては何よりの幸せだったのだから。
「いや、もう十分貰っている」
答えれば、ニコルは俺を真っすぐに見上げた。
「それではわたしの気が済みません。父がわたしに与えてくれた騎士団でも国宝級の首飾りでも、何でも構いません。何か、欲しいものは有りませんか?」
首を大きく横に振る。そんなもの、欲しいと思ったことは無い。
俺が欲しいものはただ一つ。
目の前にいる、たった一人の女性だけなのだから。
「でしたら、わたしが選んでも良いですか?」
そう言ってニコルが身を乗り出す。それから彼女は俺のシャツをグイッと引き、唇を重ね合わせた。
「ニコル!?」
驚く俺の首を抱き、ニコルは触れるだけの口付けを続ける。
もどかしい。あまりにも。
抱き締めたい。キスしたい。
もう一度、ニコルにこの想いを伝えたい。
俺の恋人に――――妻に――――なって欲しいと伝えたいのに。
「バル様、わたしを連れて行ってくれませんか?」
ニコルがそう言って目を細める。
「連れて行って、って……」
彼女の言葉の意味が理解できない。
いや――――正確には、自分に都合よく解釈しそうになるのを必死に我慢しているのだが。
「わたしはバル様が好きです! 大好きです! ですから、バル様と一緒にザリンスティーチに行きたい! わたしを連れて行ってください!」
真剣な眼差し。あまりのことに息を呑む。
夢じゃなかろうか?
ニコルが、俺を? 本当に?
戸惑う俺を前に、ニコルは満面の笑みを浮かべた。
「ダメって言われても構いません。もう行くって決めましたから」
躊躇いのない瞳。本気なのだろう。
けれど、俺にはまだ気掛かりが存在した。
「ネイサンのことは?」
「そんなの、こっぴどく振って来たに決まってます! 見物でしたよ。地団太踏んで悔しがってました! 陛下にもこっぴどく叱られて、王位継承権を弟に奪われて。全部バル様のお陰です」
ニコルの笑顔に、涙がグッと込み上げる。
「そうか……」
良かった。俺はニコルの役に立てたのか。
そうだとしたら、心から嬉しい。本当に、心から。
「バル様は本当に、演技が下手糞ですね」
ニコルがそう言って目を細める。
もう、自分を抑えることなどできなかった。
彼女の頬に何度も口づけ、身体が軋むほどに抱き締める。
「ニコル――――愛している」
心からの想いを口にすれば、ニコルはふふ、と声を上げて笑う。
「知っています!」
俺達の間にもう演技は存在しない。
ニコルと俺は微笑み、互いをきつく抱き締めあうのだった。