3
くすぐったい。
足の指先から順に、ぬめぬめとした何かが這い回っているようだ。私はそろりそろりと目を開ける。
うつ伏せで布団を被っていた筈の身体は、布団を取り払われ、仰向けになっていた。
「あぁ、起きたのかい? 僕のアリス」
声を掛けられ、ゆっくりと視線を下に向けると、こちらを見ている男と目が合った。男は何故か私の足元に蹲っていたのである。
「何を、しているんですか?」
「何を? 君には僕が何をしているように見えるんだい?」
質問に質問で返されてしまった。
ゆっくりと上体を起こせば、私の足からはゴテゴテした靴下が取り払われ、血管の浮き出た足がむき出しになっていた。その爪先は僅かに濡れているようで、顔をしかめる。
何をしていたのか、なんて、この状況を見れば想像がついた。
「貴方が、足を舐めていた」
「そう! そうなんだよ! 流石は僕のアリス。とっても賢いね」
「……果たしてこれは賢いと言うんですか?」
ただ状況の断片を並べた結果なのだから。
結局私の問いに彼は答える事なく、微笑みを浮かべたまま再度爪先を舐った。
指の一本一本を丁寧に舐め上げるその行為は、時折私から言葉にならない声を引き出す。爪と皮膚の間に入り込む舌のぬめりが、指と指の間をなぞる熱い塊が、まるで性行為を彷彿とさせられた。
おそらくは、時折彼が「気持ちいい?」などととんでもない事を問うてきた事も、理由の一つなのだろう。
「色を付けたいな」
「……爪に?」
「うん。でも、駄目だね」
何が駄目なのだろうか。その疑問は、直ぐに私の中で解消された。
よくよく考えれば、この部屋には換気扇が無い。ユニットバスがあるのだから、換気扇くらいあればいいのだが、どうにもあった記憶はない。
それが無いという事は、ペディキュアを塗る為には、シャッターが閉まっている窓か、部屋のドアを開けて換気しなくてはいけない。絶対に、という物ではないかもしれないが、万が一にでも私が……あるいは彼が倒れてしまう事を考えていたのだろう。
どちらに転んでも二人は別れる事になる。シャッターやドアを開けるのもまた、私の脱走のリスクが上がるのだから、彼にとってのメリットが何もない。
敢えて何か上げるとするのなら、好みの色を私の爪に塗る事が出来る程度の物だろう。
「まぁ、いいか。君の指の味が変わってしまっても嫌だし」
「味……」
私は私の味を知らないが、少なくとも味が変わったら嫌だと思った事は無い。
きっとこの人は、ちょっと変態なのだ。尤も、誘拐して監禁するくらいなのだから、最初から正常であるようには思えないので、今更足を舐めるのが好きな変態だという事はどうとも思わない。
ただ私の脳裏には、現実逃避で眠りに落ちる前に見た、あの大量の写真がちらついた。
「どうしたの? 僕のアリス」
わずかに顔が引きつったのだろう。
「な、何でもないです」
慌てて首を左右に振ったが、それも直ぐに止められた。彼がこちらに身を乗り出し、私の両頬を両手で包み込んだのだ。押さえつけた、の方が近いかもし知れない。
「どうしたの?」
イヤイヤと逃れようとしたが、彼の力は存外強く、私は結局身動き出来ずに彼の目を見る事になってしまった。
「あ、あの……」
写真の事を言う訳にはいかない。誤魔化さなければ……。
私はせめてもの抵抗で視線だけは外して、「いつから私を好きなんですか?」と問うた。
「……意外な事を聞くね」
彼は頬を拘束する力を抜くと、柔らかく笑って見せる。
「僕は君をずっと見て来たんだ。君だけが僕のアリスだよ。やっと僕の番になったんだ」
「貴方の、番?」
何ともよくわからない表現だ。これではまるで、私が何人もに誘拐されてきたようではないか。
いいや、違う。この場合は、彼よりも先にお付き合いしていた人がいた、という意味か。尤も、誘拐はお付き合いしているとは言わないが。
「やっと僕だけのアリスを手に入れたんだ」
彼は私をぎゅっと抱きしめる。
「……貴方は私に危害を加えない?」
「当然だよ」
私の問いに、嘘偽りのない答え。
それなら、もういいではないか。
変な写真を見付けてしまった。けれども、私はここがどこなのか、それどころか私が何者なのかすら覚えていない。
写真は手掛かりになるのかもしれないが、生憎私以外の人の顔は全て塗り潰されていた。そうなっては、お手上げだ。
危害を加える気が無いのなら、このままでいい。私はあっさりとここから出る事を諦め、状況に甘んじる事にした。
ある意味では私が「空っぽ」であったからこその、決断だった。
私に対して痛い事さえしないのなら、彼がどれだけ私を飾り立てようが、どれだけ足を舐めようが、例えばその先を望んだとしても、構わない。
全身が粟立つあの恐怖も、外へ出て途方に暮れる不安に比べれば、大した事は無い筈だ。
「……私、逃げません」
「え?」
私は抱きしめられた腕の中からもそもそと上を向けば、彼は目をまん丸くしていた。意外だ。
「で、でも、君は……」
「私、何も覚えていないので」
「あぁ、なるほど」
微笑んだまま、私の額にキスを落とす。彼のしたいタイミングで、したい事を。私は僅かに身じろぐ程度で、それ以上抵抗と受け取られそうな事はしなかった。
「外に行くのが怖いの?」
直ぐに頷けば、「僕の事は?」と聞き返された。怖くないと言えば嘘になるが、嘘も方便という言葉もある位だ。多少なら延命に繋がる。
「怖くない、です」
私は嘘をついた。
「ありがとう。嬉しいよ、僕のアリス」
もしかしたら嘘だとバレているかもしれない。それでも彼は優しく微笑んで、髪を梳く。
柔らかな行動一つ一つに妙な心地のよさを感じて、私はそっと目を閉じた。