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誘拐というからには、凄惨な毎日を思い浮かべていた。だが、現実はどうだろうか。
この男は愛おしそうに私を見つめては髪を梳き、この部屋によく合った、可愛らしくもごてごてとしたワンピースを着せ、指先から順にキスをくれる。
食事もとらせてくれるし、眠る時は抱き合って眠る。
まるで恋人のように甘やかな生活が始まったのだ。
不思議な……いや、不気味な事に、私はそれら全てに不快感を抱く事なく、受け入れている。
「アリス、僕のアリス。可愛いね」
「……ありがとう」
私はぎこちなく笑った。不快感を抱いていないが、ニコニコと笑える程の心境ではないらしい。自分の事は、自分が一番分からない。
「少しだけ出掛けて来るから、良い子で待っていてね」
コクリと頷くと、男は部屋を後にした。ガチャリと、ドアの鍵が外側から閉められる音が響く。
あの人がいないだけで、部屋はあっという間に静まり返った。
豪勢なフリルとレースとぬいぐるみの部屋。お人形のような服を着た私。それだけがこの世界の全てのようだ。
いいや、感傷に浸っている場合ではない。
男がいない今が、ここから逃げ出す方法を探すチャンスではないか。
私は無駄に重い装飾品を身に着けたまま、可愛らしいベッドから抜け出して部屋の探索を始めた。
まずは部屋と隣接してある、申し訳程度のユニットバスを覗く。普段から一人でも見る事が出来そうな場所かと言えば、そうでもない。何故ならあの男は、排せつ時も、入浴時も、ずっと一緒に居るからだ。
フリルまみれの可愛い部屋とは打って変わり、ビジネスホテルについているような物をもう一回り小さくしたようなそこには、特に変な箇所は無い。
使えそうな物を上げるとすれば、シャワーカーテンか。
もしもこれを切ったり出来るのなら、長い紐が出来上がる。紐があれば、あいつを絞め殺してここを出ると言う選択肢もあるだろう。
……いや、殺す必要がどこにあるのか。
私はここで不自由していない。閉じ込められているが、嫌だとは感じない。
ここから出て、記憶のあやふやな私はどうしたらいいのか。それよりなら、ここで彼のお人形に甘んじている方が、ずっと、ずっといいかもしれない。
私は頭を振り、ユニットバスを後にした。
まだ彼が帰って来そうな気配はない。私は気を取り直して、部屋の探索を続ける。
毛足の長いラグの下を覗けば、くしゃくしゃになっている包帯が見つかった。何だってこんな場所にこんな物が……。私はずるりとラグの下から取りだすと、しげしげと見つめる。
何の変哲もない、ちょっと伸びやすい真っ白な包帯だった。
何かに使えるかもしれないが、ラグの下にあったとなると、衛生面はちょっと不安だ。とはいえ、このまま見なかった事にするには惜しい。
結局私は枕カバーを開けて、その中に放り込んでおく事にした。
ふんだんにフリルがあしらわれていながら、案外寝心地は悪くない枕のカバーを開ける。
「――ひっ」
中からは、大量の写真が零れた。
ぞっとしながらも摘まみ上げて見れば、その全てに私が写っているようだった。
小さな頃からの物だ。顔を塗り潰された男女に手を繋がれている幼い私。制服を着た私。浴衣を着て、友人と思しき顔を塗り潰されている人物とピースをしている写真。それらの中には、何故かこの可愛らしい部屋で微笑んでいる私もいる。
「何、これ……」
ドクドクと心臓が煩い。
どれもこれも覚えがないが、何故かこれは「私」であると確信していた。
まさかこれ、あの男が? ずっと私を見ていたから、こんなに写真があるの?
ぞわりと寒気が全身を通り抜け、私の肌に鳥のようなふつふつとした痕を残す。
「だ、駄目だ。これは、駄目」
慌てて枕の中に写真と、ついでに包帯を乱暴に突っ込んだ。
見てはいけない物だったに違いない。どうしよう、見てしまった。
もしかしたら記憶があやふやなのも、あいつに何かされたからではないのか?
寒気が止まらない。あんなに冷静で、取り乱しもしなかった筈なのに。どうして今頃になって、怖いなんて思ってしまったのだろうか。
しかし、写真に写る私以外の人は皆、一様に顔が塗り潰されていた。もしかしたら、ここから逃げても、どこにも助けてくれる人なんていないかもしれない。
それならどうすればいい? 私は、ここに居るしかないの?
恐怖に駆られ、ベッドの上のクマのぬいぐるみを抱く。
「……なんか、硬い?」
まさか、とは思った。けれども私は、それをじっくりと確認してしまった。
毛足が長いせいで気が付かなかったが、背中側に無理やり縫い合わせたような跡がある。明らかに後から中に何かを入れた物だ。
鋏やカッターは無い。が、もしかしたら探せばあるだろうか。
仮にあったとしよう。私はこれを開けて、その後どうするのだ。針と糸が無ければ、容易にこれに気が付いたとバレてしまう。
バレたら何をされるのか。様々な嫌な想像が頭を巡り、結局私はクマのぬいぐるみを放り投げるにとどまった。
怖い。
探せば探す程、何かが起こる気がする。
私は震えながらベッドに潜り込んだ。
フリルとレースに彩られた服は重く、ゴージャスな掛け布団に擦れてガサガサと大きな音を立てる。全てが耳障りだ。
探索などしなければよかった。私の逃げ場は、どこかにあるのだろうか。