side彼女
「なんで………」
呟く声がかすれた。理由は、分からない。分かりたくない。目の前に映る光景をだれが真実といったって、私には信じられない。
名ばかりの姫と陰に日向に笑われて生きてきた私が、武功を立てたという夫に嫁いでまだ一年も経っていない。優しい、優しい夫だった。ろくに料理も縫物もできない上に気品のかけらもない私を、それでも笑って見守ってくれる人だった。平民になるには常識がなく、貴族と言い張るには礼儀作法もなっていない、そんな私を妻として扱ってくれた。何不自由ない穏やかな日々を、あの人はくれた。
私と正反対、つまりおとぎ話のお姫様だった姉は彼の兄君と結婚している。私同様に手柄に対する褒賞として降嫁したのだ。兄君はどうやら姉に首ったけのようで、姉にはしょっちゅうのろけ話を聞かされた。
『愛してるよといつも仰るのよ……!』
頬を染めてそう惚気る姉にへえと気のない返事を返したのはいつだったか。最早そこに政略結婚を憂えていた姉はいなくて、幸せそうならよかったと暢気にそう思ったものだ。私はそんなことを憂えるような繊細さは持ち合わせていないので、姫君とは大変だなあとまるっきり他人事にしか考えていなかった。
姉のようなおとぎ話もかくやという体験は、私にはない。
夫は無口ではなかったけれどもとかく色恋には疎いと自分で言っていたし、確かにあまり女性慣れしているようにも見えなかった。私が横着して薄いワンピース一枚で出迎えた時のうろたえぶりなど、とても先の戦の勇将とは思えないものだった。ずっと一緒にいたけれど、夫を見て私の胸が高鳴ることは別になかったし、夫のほうも常識として薄着にうろたえただけであって別に私に魅力を感じてどうこうということは一切なかったそうだ。(これは服を着直して出てきた私に夫が直接告げた。さすがになけなしの乙女心が痛んだ)。
だから、私たちの間に恋なんて言う甘くて桃色の感情は存在していなかったし、お互いそれをどうとも思ってはいなかった。
だけれども。夕食の席であなたがぽつぽつと話してくれる、にわか雨の後にかかった虹のことや、戦場に咲く小さな花。道端に落ちていた綺麗な石の話なんかが、私は本当に好きだった。大したことじゃなくてごめんねと、照れたように前置いて語られる飾り気のない美しいその話たちが、真剣に語ってくれるあなたのその横顔が。私は大好きだった。本当に、大好きだった、のに。
なのに、どうして。
★
隣国との最後の戦ももう間もなく終わる。数週間前の休戦協定で人質として送られてきた私と姉は、敵国の王城で終焉の時を待っていた。
私たちは、戦勝のための布石だ。重要な人質を手に入れたと油断していたこの国は、もはや三日と持たずに落ちるだろう。人質としてもう意味をなさないと分かった私たちは、手が空き次第処刑されることになっていて、同じ部屋で最後の別れを惜しんでいた。
「……勝てそうで、よかったわね」
「勝てますよ、姉様のご夫君と私の夫がいるんだから」
青ざめた姉は、私の返した言葉にそうねとほほ笑んだ。よく泣く姫君であるはずの姉の目に、涙は張っていない。
当たり前だ。だって、私たち王族は国内で絶対の権力をもって君臨している。国民がそれを許すのは、私たちが上に立つことで彼らにも得るものがあるからだ。父や兄たち男性は、その武でもって外難を退け、その智でもって政を治める。ならば力もなく、政治にも疎い私たち女は何をすればいい?何をもって、国民からの畏敬の念に報いればいい?
「ねえ、わたくしたち、有用な駒になれたかしら」
「ええ、ばっちり」
硬い顔ながら冗談めかしてそういう姉に、親指を立てて答える。下品な真似をと言うかと思ったけれど、少ししてから姉も同じ仕草を返してきた。
そう、私たちは有事の際の駒だ。戦を優位に進めて勝利するための、布石。
勇将との婚姻だって形式上のものに過ぎなくて、ようするに「あの」将軍の妻、という役どころに納まるためのものだ。
王族であることに加えて誰かの配偶者であれば、一層価値は高まるし相手は油断する。まさか重要人物の妻を犠牲にして突撃してくるとは思わないからだ。
厳しいようだけれども、それが私たちが生き残るすべだ。王族は、皆これを心得ている。居丈高にふるまっても贅を尽くしても許されるのは、私たちがいざとなれば身を以て国に尽くすからだ。だから怖がりな姉だって泣いたりしない。むしろ牢から引き出された時の落ち着き様は私よりよっぽど肝が据わっているとしか言いようのないものだった。
「姉様、幸せでしたね」
「ええ、幸せだったわ。あんな素敵な旦那様、いないわよ」
「あら、私の夫だっていい人ですよ。ちょっと色恋に疎いだけで」
「それが致命的なのではなくって??」
どうでもいい会話をしながら、二人でくすくす笑う。覚悟はしていた。姫失格だろうが何だろうが、私も一応王族だ。最後くらいは王族の名に恥じない誇り高い死に方をしてみせる。
「ッくそ!こいつらを、こいつらを殺せ!」
赤く染まった剣を持った兵士が部屋に飛び込んでくるのを、二人で落ち着き払って迎える。怖くはなかった。ただ、夫に好きだと言っておけばよかったなとふと思った。人質として出立した時、最後まで別れを惜しんで抱き合っていた姉夫婦の横で、私たちはちょっと笑って二人で流れる雲を見ていた。あの時、好きでしたと伝えておけばよかった。好きだった。恋はしていなかったけれど、そばにいる温かさが、大好きだったから………。
瞬間。疾風のようにもう一人、誰かが部屋へ飛び込んできた。
「死ねぇ!………ぐっ!?」
剣を振り上げた兵士が崩れ落ちる。背を切り裂いたのであろう刀は、私の国のものだった。助けが。どうして、もう。まだ兵たちは到底たどり着けない距離にいるのに。
赤く染まった彼の足から順に、ゆっくりと視線を上げていく。なぜだろう、怖くて顔を見られない。
「………!!」
血まみれの彼を見て、姉が上げた絹を裂くような悲鳴が、耳の底にこびり付いて離れない。
「どう、して」
服はぼろぼろで、左目が赤く染まった布で乱暴に隠されていて、足は変に曲がって引きずっていて、体のいたるところを深紅に染めている、その人は。誰がどう見たってもう瀕死だと、一目でそう分かってしまう程にひどい傷を負っていてその兵は。
「っ!」
彼は、夫だった。優しい、優しいあなたは、見るも無残な姿で、人質部屋までやってきた。
「…………ュ」
ユレイル。彼の名前を呼ぼうとして口を開けたのに、出たきたのは細い悲鳴だけ。体がガタガタと震えて言うことを聞かない。
「……ごめん、びっくりさせたね」
それを、私が怯えてのことだと取ったのだろう。彼は怖がらせてすまないと苦笑して、先ほど切り捨てた兵士の首元もぐっとつかんだ。
「もう、大丈夫だから」
そう言って兵を引きずる力など、一体この蒼白で血塗れの体のどこに残っているのだろう。
違う、私が震えて立てないのは、口を開いても言葉が出てこないのは、そんなことが理由じゃない。あなたの痛々しさが、見ていられなかった。その身に負った痛みを想像するだけで、気が狂いそうだった。
どうして。どうして、私の貴方。
「大丈夫、怖がらないで。すぐに、助け、が、くる」
「違う!」
部屋の外へと兵を引きずっていく彼は、真っ白な顔にそれでも笑みを浮かべてそう言う。違う、待って。だってあの扉の向こうに消えてしまえば、きっとあなたとは二度と会えない。
「好き、だったの。私、あなたのことが、ずっと」
転がり出た言葉を斟酌する余裕もなかった。心のままに、ありのままをさらけ出す。伝えないと。こんなことになるならと、今まで伝えてこなかった気持ちを、こんな時だからこそ。
「恋じゃ、なかった。でも、わたしは、あなたのことが」
貴方のことが、好きで好きで好きで、失いたくなくて。
言葉の波があふれだす直前に、黙って兵を引っ張っていた夫が、扉の前で一瞬だけ振り向いた。――――ちらりと、白い歯が覗く。
「―――知ってたよ」
そう言って浮かべた彼の笑みは、今までで一番優しくて、力強くて、私への温かさで満ちていた。そして、その笑みをちょっと困ったようにゆがめて、彼は「ごめんね」と言った。
「嫌だ、ユレイル――っ!」
伸ばした手は空を切り、扉は無常に音を立てて閉じる。残ったのは呆然と涙を流す姉と、半狂乱で泣きわめく私だけだった。震える足で二、三歩歩きかけて、泣き崩れる。
ユレイル。ユレイル。私の、貴方。ごめんね、なんて、貴方が謝ることは何一つないのに。謝るべきは、望んでもいなかった妻としてあなたに嫁いで、貴方から自由を、恋を、これから先の未来をすべて奪った私のほうなのに。
兵を外に連れ出したのは、私たちに血を見せたくなかったから。集団でくればきっとかすり傷一つ負わなかったはずの彼があんなにひどい怪我をしていたのは、きっとここまで単騎でやってきたから。それが命令だったはずはない、だって私たちの死は決まっていたようなものだった。優秀な彼が、むざむざ死にに行くようなことはなかった。どうして、どうして、ユレイル。
名ばかりの姫を、己からたくさんのものを奪った女を大切にしてくれて、そうしてユレイルは命まで捨ててしまった……。
そして、三日を待たずにその国は白旗を上げ、私と姉は救出された。救出してくれたのは、姉の夫。ユレイルの、兄君。弟を亡くした彼は気丈に私たちの安否を気遣い、国へ帰れるよう手はずを整えてくれた。
物言わぬユレイルと再会したのは、その時。
「……ユレ、イル」
死に化粧などしていないのに、血の気が少しもないユレイル。悲惨な傷をあちこちに負っていた彼の体はほとんどが覆い隠されてしまっていて、私が見ることを許されたのは顔の右半分と、右手だけだった。
ひんやりとした彼の手に触れる。いつだったか、市に出かけた時に人込みではぐれるからと繋いでくれた手だ。あの時の力強さも、弾力も、もうすべてを亡くした手だった。
「……姫君、泣かないでください」
「もう、しわけありません」
ユレイルの兄君が困ったようにそう言う。自身も弟を亡くして辛いだろうに、そんな素振りは一切見せないその強さに、最期のユレイルを重ねてしまってまた涙があふれた。
「アレは……ユレイルは、進軍が決まった瞬間に部隊を副長に投げ渡して、単騎で駆けていきました。将軍として生きることより、妻の命を選ぶと、そういって。昔から、自己評価が低い弟でした。自分が確実にできることにしか手を出そうとしない彼を、私は意気地なしだと散々からかったものです。…けれど、そんなあいつが、絶対に不可能なはずの単騎突破に自ら挑んでいった。誰に言われたのでもない、あいつ自身の意思で。全ては、姫様を助けたいがためです。ご無事で、よかった。きっとあいつも、喜んでいるでしょう」
だから、もう泣かないで下さいと。言われて、懸命に涙を拭った。
「いけない、姉様のご夫君を独り占めしてしまうなんて」
うまく笑顔が作れているだろうか。今だけでも。ばれていると分かっても、浮ついた笑みで私は言う。
「ありがとうございます、もう大丈夫。…帰りの馬車に、ユレイルも乗せていただけますか」
義兄上が黙って手配してくれた馬車の中。帰路の間中声が外に漏れないように、必死に音を噛み殺して、私は泣き続けた。
★
帰宅の前にユレイルの火葬があった。どうしようもなく離れ難かったけれど、時間が経って無残なことになる前に、綺麗な姿で送ることができてよかったのかもしれない。
空へ昇っていく煙を見て、一人で泣いた。次に生まれてくるときには、どうか穏やかで幸福な生を。きちんと恋した人と結ばれて、そうして幸せになってほしい。
どこをどう歩いたか記憶はないけれど、気が付けば足は、私たちの小さな家に帰っていた。
泣き腫らした目で家を見上げる。質素で小さいけれど、温かくて居心地のいい家。家中どこに居たって、貴方の呼び声がすぐに聞こえる家。もう、彼が帰ることはできない、二人の家。
きい、と小さな音を立てて、久方ぶりに自宅の扉を開けて。
「………え」
そこに、小さな絵があった。休日には騎士らしくないこともしたいのだと、一緒に買いに行った絵筆と、お気に入りのキャンバスと。まるで本物と見まがうような大輪のバラが、活き活きと描かれている。
余白には、少し崩れたあの人の文字。――――シェーラに。
『知ってたよ』
最期の言葉が甦って、堪えきれずに咽んだ。
「ユレイル…っ!」
真っ赤なバラの意味は、愛している。恋じゃない、愛なのだ。照れ屋の彼が、きっと精一杯に考えてくれた、私への気持ち。
ユレイル。大好きな、誰よりも大好きな、私の最愛の人。軍規に背いて、敬愛していた兄を振り切って、たった一人で死ぬために…私を生かすために、助けに来てくれた貴方。
恋じゃない。そう、夫に言った。彼は、笑って知っていたと答えた。
ああ、本当にそうだ。私たちの間に恋なんてなかった。そんな甘くて軽いものなんかじゃ、なかったのだ。
私は、あの人を愛していた。なにがあっても、たとえ死が二人を別っても、ずっとずっと愛していけるくらいに、あの人のことが好きだったのだと。
ハッピーまではいかなくても、バッドじゃない終わりを目指しました。
追記;ポイント評価してくださった方、ありがとうございます!とてもうれしいです!よかったら感想お聞かせください。
誤字報告ありがとうございます!自分ではなかなか気づけないのでありがたいです。
ハッピーエンドのお話も投稿しました、テーマは婚約破棄じゃなくて側近拒否です。よろしけれ
ばこちらもぜひ!「帰る場所は、行く場所で」