私の見つけた言葉
「夜中の静物」
夜中に住宅地を歩いたことがあるだろうか
夜中は静物が更に静物みを増すのが面白い
電気の消された家々の窓、車のいない道路、車が眠る駐車場、列車のまばらな駅舎、湿った歩道を青白く照らす街灯
遠くから何かが鳴くような甲高い声が聞こえる
家は昼間に動く訳ではないが、夜に人々の家の外観を見てみると、実は昼間見た家々は動いていたのではないかと錯覚するほど実に静を纏っている
不燃ゴミを指定の場所に投げ入れる音だけが新興住宅地に響く
行く前は億劫だった夜中のゴミ捨てが
帰ってくる時は決まって好きになっている
多分、私は夜が好きで、静が好きだ
「老後に見えるもの」
「子供にしか見えないもの」は割とよく聞く話である。子供の目線の低さや着眼点からしか見えない、大人は気付かないもののことである。しかし、私は最近、祖父母にしか見えないものの存在を知った。
キジである。
若い私や叔父がいくら目を凝らしても見えなかった擬態したメスのキジが祖父母には見えていた。
そしてメスが温めていた卵にまで気を遣っているのである。
何も年を取ることを悲観する必要はない。昔は見えていたものが見えなくなっていく代わりに昔は見えていなかったものが見えてくる。その変化を楽しむべきである。
老いは衰えではなく、緩やかな成長だと思いたい。
「短歌の存在意義」
こんなくだらぬ短歌だか和歌に存在意義はあるのか
そう問われると文学は揺らいでしまいます
一見役に立たない日本語の羅列でしかないかも分かりません
しかし、一部の現代人が千年前の和歌を読んで感じ入るように
この和歌にも未来人の生の励みになる能力があるのです
そもそも存在意義を問うのが間違いかもしれません
人間の存在意義でさえはっきり答えられない
偶然生まれたと言えばそれまでです
「縁」
人には縁がある
いくら苦心しても寄り添うことができないのはその人の隣にあるべきなのが自分ではないから
いくら苦心しても同じ時間を過ごせないのは私の隣にあるべきなのがその人ではないから
訳も分からず気付くといつも隣にいるのが自分が寄り添うべき人間なのだろう
それに気が付いた時、私はまた運命に抗おうとした
「告白」
私は、あなたがかつて私にこぼした
「僕は長くは生きられない。そんな気がする。」
「僕は死ぬのが怖い。」
という言葉を真に受けていた。
「(あなたがそんなに苦しんでいる理由は何だろう。)」
私は彼を助けたかった。私は、自分が釈迦から学んだことを彼に教授した。苦しみの本質について。
しかし、返ってくるのは反論ばかり。
あの、彼が私に見せた弱さは、彼が吐いた弱音は、
私を惑わせる為の虚言だったのだろうか。いや、虚言というよりは悪戯だったのかもしれない。
もう、あなたとは遊ばない。私は一人で遊戯する。
だからもう、私を揶揄うのはやめてくれないか。
私はどうせ生きるなら、人を生かす人間でありたいと願った。
しかし、私があなたを救おうとすることは無意味だった。
悪戯には取り合わない。
私は私の心に従って生きる。
はっきり言う。
私はあなたのことが嫌いだ。
最初から、これが恋愛に至らないことは分かっていた。
でも
恋愛映画を見て回想するのはあなたとお喋りしたことばかりだ。
「出家」
私にとっての出家とは
「世俗、家族、身分、過去、自分を引き留める全てを捨て、自ら仏門に入り、安穏に暮らすこと。」
だった。
しかし、現代における出家は
「僧侶という職業に就くこと。」または、「実家の寺を継ぐこと。」だったんだ。
現代を生きる古人はショックを受けた。
私は出家を、実質、一度「死ぬこと」だと思っていたから。
「怖いくらいの」
嬉しいのに涙が止まらない
優しさがつらい
どこにも行かないで
そんな感情すっかり忘れていた
そんな感情を思い出した
つらいときに誰かに慰められるのはいつぶりだろう
初めてかもしれない
いつの間に人を頼らなくなっていたんだろう
突如として頼るべきものが現れたとき
自分はこんなにも脆く、誰かを必要としていたんだなんて気付く
気付いたらこんなに必要としている自分がいる
我慢し続けた涙が零れる今、悲しいわけじゃない
この人の前なら泣いてもいいんだって思えたんだ