花の命も散りぬれど
ぱちり、と目を開けるとそこは夕闇だった。少し薄暗い夕方。おうちに帰る時間だ。
……おうちって、どこだっけ?
わたしは辺りを見回した。そこには何人か子どもがいて、大人の人……くらいの背格好の鬼がいた。たぶん鬼だろう。各々に花の絵が描かれた着物を着ている。それで、額から一対の角を生やしているのだ。聞いたことのある赤い肌や青い肌のような人間らしからぬ色はしておらず、むしろ真っ白なくらいだ。言うなら、人間に角を生やしたような感じ。
その鬼たちと、子どもが花を抱えながら話している。目を輝かせていたり、俯き加減だったり、子どもによって、様々な表情を見せていて、鬼はお父さんやお母さんがいたならこんな感じなのかなっていう表情で……? お父さんやお母さんって、何だっけ?
わたしはぼうっとしばらくそれを見ていたけれど、何もしないと進展がないということに気づき、立ち上がった。わたしは簡素な着物を着ており、特に柄はない。桜みたいな色のそれは土で薄汚れていた。それを払ってとてとてと歩き始める。
歩いていくと、少し足を大きく広げれば飛び越えられそうなくらいの小川があって、その向こうには花やら木やらが生えている。偶然かもしれないが、そこいらにいる鬼の着物の柄と同じ花だ。
黄色い菊に真っ赤な彼岸花。向こうには桜が咲いていて、下手に触ったら切れそうなくらい尖った葉っぱは杉のものだろうか。淡く紫に色づくのは紫苑の花。それに混じって秋桜が咲いている。この芳しい匂いは橘だろうか。白い花と青い実が木に成っている。それとは別に、服に染み着いたような香りもする。芳香剤とか、虫除けのような……
「お嬢さん、お嬢さん」
髪をおかっぱみたいに切って、半分だけ結い上げている女の鬼が声をかけてきた。鬼に男も女もあるのかは疑問だけれど、口に紅を射しているから、たぶん女の人だろう。
その人は特に面白味のない木が描かれた緑の着物をまとって、くすくす、と笑っている。何を笑っているのだろうか。笑われているのだとしたら癪だ。
「お話ししたいなら、花や木の枝折っといで」
「え!?」
それはあまりにも衝撃的な提案だった。花はともかく、木の枝を折るとは殺生な。
わたしが驚いて固まっていると、その鬼はくすくすと笑い、目を細める。この人、わたしの反応を見て楽しんでいるんだ。なんて質の悪い……
ちょっと悔しかったので、その鬼の着物に描いてある木の枝を折ろうと思った。着物の柄と草木そのものに何の関係があるのかはさっぱりだが、なんとなくの意趣返しだ。
小川をぴょん、と飛び越える。さらさらと水の流れていく音が鼓膜を撫でた。近くで見ると異様な光景だ。だって、春に咲く桜が咲いて、夏に咲く橘が咲いて、秋に成るはずの橘の実があり、季節が頓珍漢だ。まるで季節などないとでも言うかのように。そのことにおののいていると、そよそよと風が吹いて、木々の香りを運んでくる。
たぶん、着物に染み着いたような香りのあの木だ。親切なことに、子どものわたしでも手が届くところに手頃な枝があり、わたしは精一杯力を込めて、ぱきりと折った。
折ったところでふと気づく。折って何になるというのだろうか。何の意味があるのだろうか。確かにくすくす笑う鬼に「折っておいで」と言われたが、それが何になるのだろう。折った先はぎざぎざしているため、刺したら怪我をしそうだが、血が滲む程度だろう。擦り傷やかすり傷と何ら変わらない。
何をやっているのか、ととぼとぼ小川へ向かう。すると、川の向こうで緑の着物を着た笑う鬼が待っていた。
「おやおや、アタシと話したかったのかい?」
「いや、そういうわけじゃ……」
というか、木と鬼と話すことに何の関係があるのだろう。自分が話したいだけではないのか、とわたしは呆れながら、川向こうに戻る。
笑う鬼に手招きされながら、わたしは他の鬼や子どもを眺めた。よく見れば、子どもの手の中には話し相手となっている鬼の着物の柄と同じ花や木の枝、葉っぱなどがある。
「つまりねえ、アタシらと話したかったら、アタシらに対応する草花を持ってくればいいのさ」
笑う鬼が面白いだろう? とわたしに目を寄越す。面白いかどうかはさておき、何故そんなことをしなければならないのか、疑問で仕方なかった。
そんなこと、とは鬼と話すことか、はたまたそのために草木を手折ることか。わたしは上手く判別できず、むず痒い思いをした。
「わたしは、あなたと話さなきゃならないの?」
「そんな嫌そうな顔をしなさんな。ふふ、アタシはちいとばかし笑う鬼だよ。楠の鬼って呼ばれとるねえ」
楠……ああ、なんとなく思い出した。楠の匂いは虫が嫌うから、着物を仕舞うときに使う虫除けに使われているのだ。だから、匂いが着物に染み着いて、楠の匂いになるわけだ。
「ここの鬼は生き物と話すのが好きなのさ。だから『花す鬼』と呼ばれている。鬼は普通、生き物を食う化け物だからねえ。ここにいる鬼は普通の鬼とは違うのさ。ああ、紫苑だけは気をつけな。あいつは『私怨』を司るんだ。いっつもいっつも気が立っててねえ。あいつと話すと嫌でも病んじまうよ」
「はあ……」
楠の鬼に示されて見た紫苑の着物を着た鬼は確かに病的な見た目をしていた。他の鬼と同じ白い肌でも、そこに生気はなく、暗く淀んだ紫の目の下には、ふざけて墨でも塗ったのではないかというほどの隈。白地の儚げな着物は美しさというより、死装束のようなおどろおどろしい雰囲気を醸し出している。確かに近づきたくはない。
その話し相手になっている子どもも、盲にでもなったかのような暗い虚ろな目で相槌を打っているのが怖かった。これでは普通の人を食う鬼と変わらない。
ぞくり、と背筋を悪寒が走り、わたしは身を震わせ、肩を抱いた。それを見て、楠の鬼は、やはりくすくすと笑っていたけれど、優しくわたしの背中を撫でてくれた。現金な話かもしれないが、少しだけ、この楠の鬼を信用してもいいかな、なんて思った。
「なんでそういう鬼がここにいるの?」
「さあねえ。アタシら『花す鬼』はここに来た生き物を救ってやるのが役目だ。けれど、綺麗事ばかりじゃ救えないってことかねえ。おっと、お嬢さんには難しかったかな」
「馬鹿にしてるでしょ?」
楠の鬼がくすくす笑う。やっぱり人が悪い。まあ、鬼だから、意地悪なのは仕方ないのかもしれない。
とはいえ、紫苑の鬼を除いた他の鬼たちは朗らかで温かみのある、とても「鬼」という形容の似合わない鬼たちに見える。鬼という化け物がわたしの認識通り悪い化け物なのなら、確かに彼らは変わった鬼なのかもしれない。
「生き物を救って、どうするの? 徳を積んだところで鬼は鬼だわ」
「おお、お嬢さん、なかなか辛辣なことを言うねえ。確かにその通りだ。でも、だからこそなんだ。ここにいる『花す鬼』たちは徳を積んで鬼じゃないものに生まれ変わりたいとか、そういうことを思っているわけじゃない、変わり者の集まりなのさ。だからこそ選ばれた」
「誰に?」
「本来なら鬼と敵対するこわーいお仏さまだよ」
「お仏さまは怖くないわ」
そりゃそうだ、と楠の鬼はくすくす笑った。
「そりゃ、お仏さまは生き物に慈悲深いさ。元は生き物だったんだもの」
「化け物と生き物の何が違うの? どっちも生きてるじゃない」
「さぁて、何が違うのだか。アタシにゃわからんね。神さんにでも聞いたらどうだい?」
神様がその辺に転がっているわけもなく、わたしは煙に巻かれたのでむっとした。
それを見て、おやおや、と楠の鬼は笑う。どこか笑える場所があっただろうか。
「アタシは随分嫌われているようだ。それなら、橘の花か実でも千切ってらっしゃい。橘は座りはしないが人当たりがよくて話しやすいらしいよ」
「あなたに比べれば、誰だってそうでしょうよ」
「こりゃ参った」
最後までふざけた人だ、と悶々としながら、わたしは再び小川を渡った。
橘はなんとなく嗅ぐと悲しい気持ちになる。橘の鬼の着物は空色で、華奢な男の人といった感じの鬼だ。わたしは花にするか実にするか決められなくて、両方採ってしまった。
花と実が同居する、普通なら見られない光景にわたしは不思議な気持ちがした。花は親、実は子どものようなものだ。ずっとこうして、一緒にいられたらいいのに……
どうして、こんなことを思うのだろう、と思いながら、ぴょん、と小川を越える。橘の鬼は少しだけ長い後ろ髪を尻尾のように揺っている。その尻尾は多くの子どもたちに囲まれ、楽しげに話す中で、感情豊かに揺れたり跳ねたりしていた。やはり鬼だから、人とは違うのだろう。
橘の鬼は人気のようで、子どもが常に五人はいた。その輪の中に入るのが、わたしにはとても難しいことのように思えたけれど、橘の鬼は微塵も気にした様子はなく、花と実を持ったわたしににこにこと話しかけてきた。
「やあ、きみは新しい子かな? おれは橘の鬼だ。こうして立ち話をするのが好きでね、『花す鬼』に一番最初に選ばれたんだよ」
かなり気さくに話しかけてきた。その男性の持つ独特な柔らかい声はわたしの心をするりとほどいた。少し、入りがたさとか、居づらさがなくなったような気がする。
周りの子どもたちもきゃいきゃいと新しい顔に騒いでいるが、嫌そうではなかった。みんな歓迎してくれている。よかった、とわたしは胸を撫で下ろした。
「選ばれたって、誰にー?」
無邪気な子どもの問いかけが飛ぶ。橘の鬼は苦笑いをして、お仏さまだよ、と答えた。
「お仏さまってなぁに?」
「みんなを守ってくれる人だよ」
まあ、死後は子孫を守るというのが一般認識だ。ただ、子どもたちには「守る」という言葉が難しかった。
「何から守るの?」
「化け物からとかだよ」
「え、でも鬼さん優しいじゃん」
「ありがとう」
橘の鬼は角さえなければただの優しい青年にしか見えなかった。子どもの頭を撫でる姿も、微笑む姿も。
「きみはそろそろ、桜も見たいかな」
「うん! 桜、綺麗!」
何か違和感があった。
何故、桜を見ることが意味のあることであるかのように言うのだろう?
そこまで考えたところで、橘の鬼がこちらを振り向いたので、わたしはどきりとする。
「きみは可愛いね。桜色の着物だ」
「えと」
「頬が赤いよ。まあ、健康な証かな」
何を自分は緊張しているのだろう。話しかけられているだけなのに。
何人かの子どもが、桜を採りに行くのを見送って、橘の鬼がわたしに微笑む。
「きみは時間が要りそうだ」
「え……」
その言葉には、何か深い意味はあるのだろうか。さっきの子はもう桜を採りに行ってしまった。わたしは駄目、なんてことがあるのだろうか。
「子どもはね、無垢でなくてはいけないんだよ」
「? どういう意味です?」
「……わからない方がいいんだよ。おれたちの意味なんて」
鬼がここにいる意味……確か、生き物を救うためだとか、楠の鬼が言っていたっけ。それはわたしたちが知らない方がいい? ならば何故楠の鬼はわたしに話したんだろう。
「きみ、好きな花は何だい?」
「唐突になんですか?」
橘の鬼が、とても悲しそうな顔をした。それは役目とやらを果たせないからだろうか。
「ここにきみの好きな花はあるかなって思って」
「好きな花……考えたことないかも」
わたしは昔から、そういうものに触らせてもらえなかったから。
……昔? わたしまだ手の指で足りるくらいしか生きていないわ。何故昔なんて。というか。
「ここはいつ……?」
頭が空っぽになる。なんでそんなことを考えなくちゃいけないんだろう。
そっと、橘の鬼がわたしを抱きしめた。割れ物に触るみたいに、慎重に。繊細に。
「考えなくていいのに、きみにはそれができないんだね。姿形を変えただけじゃ、どうしようもないってことかな」
「姿形?」
「きみに必要なのは、過去と話を聞いてもらうことだね。おれでは役不足だ。話すことは得意なんだけど、話しすぎてしまう」
それはわたしとは話したくないということだろうか。
「違うよ。『花す鬼』は杉の鬼以外、余計なことを話すのは駄目なんだ」
「余計なこと? わたしの過去に何があったかとか、ここがいつかとかは余計なことなの?」
橘の鬼はだいぶ躊躇ったけれど、しっかり頷いた。
「きみは杉の葉と、菊の花を持つんだ。あの二人は『花す鬼』の中では口下手だけど、とっても親切なやつだから」
信じるか、迷ったけれど、わたしにとってここは不確かなものばかりだから、信じるしかない。
「じゃあね」
橘の鬼と別れて、わたしは小川の向こうへと行った。
杉の葉と菊を言われた通りに持とうとしたところで、小川のこちら側にただ一人、鬼がいることに気づいた。
それは夕闇の色に桜を咲かせた着物の鬼だった。たぶん、桜の鬼なのだろう。一つに高く括った髪を風に靡かせて、憂いを帯びた表情で桜の下に立っている。
そこへ、先程橘の鬼に桜のところへ行くよう言われていた子どもが現れた。桜の鬼に駆け寄る子どもに桜の鬼は優しい顔で手を翳し……
桜の鬼が頭を撫でると、子どもは風にでも溶けたかのように、ふわりと消えた。
「今のは……」
わたしが思わず呟くと、桜の鬼が気づいて、唇に人差し指を当てた。詮索してはいけないらしい。
それとも、「余計なこと」を話していい杉の鬼なら話してくれるのだろうか。
わたしは気になって、杉の葉を握りしめ、杉の鬼の元へと向かった。
杉の鬼は首に三本の引っ掻き傷がある鬼だった。でも、怖くはない。少し、無愛想に見えるけれど。
「あの」
声をかけると、藍色の中に木を溶け込ませた着物が振り向いた。右目が隠れるくらい前髪が長いのがゆらりと揺れる。
「俺に話しにくるとはまたとんでもないやつだ。何百年ぶりだろう」
どういう意味だろう。橘の鬼は口下手だと言っていたから、話し相手がいなかった可能性もある。首の傷、大きいからみんなは怖いのかもしれない。
「川辺に行こう」
「え」
「俺が話すのは誰彼に話していい話じゃないんだ」
それは「余計なこと」だからだろうか。でも、わたしにとって大事なことでもある。
小川でも少し川幅の広い方に行く。ぽこっと脇に水が溜まり、湖面のようになっている。
そこは鏡池のようになっていた。川はさらさらと流れているはずなのに、そこだけ時が止まってしまったかのように静かに水を湛えている。
そこには、わたしの顔が映った。けれど、杉の鬼の顔は映らない。
何故だろう、と不思議に思うと、杉の鬼が言った。
「その鏡池には真実の姿が映るという」
「真実の姿? あなたは映っていないけれど」
「化け物は映さないんだ」
そうか、この人は鬼という化け物なのだ。……角が生えているだけで、他の姿形は人と何ら変わりないのに。
そう思っていると、鏡池に映ったわたしの顔が少し大人びた。十つ半ばくらいだろうか。それくらいの姿になっている。今のわたしは五つくらいなのに。
鏡池の中のわたしは男の人や女の人に打たれてぼろぼろになっていた。頬が腫れ、転んだ拍子に肌を擦って手や着物に血が滲んでいた。
「汚い小娘が!」
鏡池の中から声が聞こえてきて、わたしはじり、と後退る。
そんなわたしの背中を支えたのは杉の鬼だった。とても大きくて、がっしりしていて、力強さがあった。
わたしは湖面の向こうに映る世界が怖くて仕方なかった。湖面に映る少女が自分とは限らないのに、全身が痛んでくる。まるで痛みを知っているかのように。
わたしは知らない。こんなの知らない。
震えが止まらない肩を杉の鬼がそっと抱く。
それから、わたしに聞き取りづらいぼそぼそとした声で語った。
「これはお前の過ぎ去った現実だ。ここは現から免れるための虚構に過ぎない」
「うそ、うそ! こんなの……」
人に痛めつけられて、ただ「ごめんなさい」としか繰り返さない、そのように仕組まれた人形のような人間では、ない。
……誰が? わたしが?
そういえば、わたしが人間の子どもの形をしていることに何の違和感も抱かなかったが、これがわたしの過去だというのなら、わたしは人間だったことになる。何故、他の生き物とか、化け物とかだと思わなかったのだろう。
湖面の中の男が言う。
「所詮、化け物の娘よ。当てにするだけ馬鹿馬鹿しい」
え。
今、この男は何と言った? 化け物の娘? それはわたしのこと?
杉の鬼は相変わらずぼそぼそという。
「お前はな、旦那のいない娘から生まれたんだ。その娘はお前を孕んでから、まともに口を聞けなくなった。そもそも、まともな場所で働いていないから、環境は過酷だったが、それでも耐えていた。そんなやつが毎日毎日怯え散らかすなんて、異常以外の何者でもないだろう。だから、化け物に無理矢理犯されたのだとされ、生まれたお前は化け物の子どもという烙印を押された」
ぼそぼそとしたその声は、過去に怯えるわたしに対しての気遣いだったのかもしれない。恐ろしい話だった。わたしの母という人が、化け物に襲われたというのも、わたしが化け物の子どもだというのも、恐ろしい話だった。
「お前の出自は俺たちにはわからない。けれど、お前は病気になった母親のために懸命に働いた。それは事実だ」
「待って、それじゃまるで」
その先の言葉を続けるのが怖くて、わたしはきゅ、と唇を結んだ。全身がわなわなと震えている。恐怖だろうか、悲哀だろうか。
「まあ、ここは、そういう報われない生き物のための場所だ。つまり、お前は化け物ではなく、『生き物』だったということだよ」
杉の鬼の言葉にはっとする。
これまで聞いたことをまとめると、ここには「花す鬼」以外の化け物はいない。つまりわたしは生き物なのだ。「だった」というのが気になるけれど、思い当たる節のあることをわざわざ聞くほど頭は悪くない。
「……俺ができるのはここまでだ」
「え、でもまだ全然お話ししてないじゃない」
「話を聞いてほしいなら、菊の鬼のところに行くといい。菊も摘んできたんだろう?」
そういえば、ぎゅ、と握りしめていたため、茎がしおしおとなっているが、菊が手の中にあった。
「摘み直してきた方が……」
「奴はそんなことは気にせん」
そういう問題でもないような気がするけれど、なんだかこれ以上話すのは、杉の鬼が嫌そうだった。「花す鬼」とは話し好きの鬼ではなかっただろうか。
橘の鬼が言っていた通り、口下手だからなのだろう。何百年も話していないと言っていたし、話すのが苦手になってしまったのかもしれない。
わたしはしおしおの菊を携えて、菊の鬼の元へ向かった。
菊の鬼は短い髪を白い菊の簪でまとめており、着物は位の高そうな紫地である。紫の中に黄色い菊が二輪、三輪、大きく描かれた様は気品を漂わせながらも、堂々とした様子を感じられた。
ん、と菊の鬼がこちらに気づく。わたしはびくびくとしながら、ぺこりと頭を下げた。
「お話、いいですか?」
「ああ」
菊の鬼は女性にしては低い声だった。男性ほどではないが。少し、安心を感じる。
「好きに話すといい」
「ありがとうございます」
わたしが話していいのだろうか。菊の鬼は自ら口を開く様子がないので、わたしが話さざるを得ないようだが。
何を話したらいいだろう?
「わたし、化け物の子どもなんですって」
思わずこぼした一言は、初対面に言うような台詞ではなかった。
そこからぼろぼろと言葉が零れていく。自然に水の流れるように。
「わたしのお母さんは、化かされて、わたしを生んだって」
さっき、杉の鬼に過去を見せられたからだろう。記憶がだんだん鮮明になっていく。
雑巾のように身も心もぼろぼろになったお母さん。それを看病するために奉公先を探したわたしは、お母さんと同じ勤め先に呼ばれた。まさか、お母さんと同じようにぼろぼろになるまで働かされるとは思っていなかった。
女将さんはわたしをあちこちに使い回して、一つでもできないと「のろま」と罵って叩くし、旦那さまはわたしを汚い化け物の子とか、人間の成り損ないとかそんな言葉ばかりぶつけてきた。わたしは何度も涙を流しそうになりながら、ごめんなさい、ごめんなさいと最後まで仕事を続けた。
最後まで。
そこで不意に思い出し、わたしは面白くもないのに笑った。
「ああ、そっか、わたし、死んじゃったんだ」
菊の鬼は何も言わない。ただ聞いているだけ。それだけで、わたしはよかった。
「ごめんなさい以外の言葉も言いたかったなぁ。わたし、お母さんが死んじゃったときも、わたしのせいで死んだんだと思って、もう喋らないお母さんに、ごめんなさい、ごめんなさいって言い続けてたの。他に言うことも、あっただろうにね。化け物の子どもなのに、生んでくれてありがとうとか、育ててくれてありがとうとか、一緒に生きたい、まだ生きてほしい、死なないで……とかさ」
言葉と涙が一斉に溢れて止まらない。これを止めたらこれから先、ずっと話す機会もないだろうから、わたしは話すのをやめなかった。今まで近所の子どもですら聞いてくれなかったわたしの話を菊の鬼は黙って聞いてくれた。その沈黙がとても心地よかった。
わたし、たくさんたくさん頑張った。でも、話を聞いてくれる人はいないし、認めてくれる人もいなかった。それが辛くて辛くて仕方なかったんだ、と実感した。
だからこの人は「菊」の鬼なのだろう。「花す鬼」には色々いる。くすくす笑う楠の鬼、立ち話が好きな橘の鬼、過ぎたことを語る杉の鬼、話を聞く菊の鬼。
「ねえ、わたしの話、つまらなくない? 聞いてて不愉快じゃない?」
じっとして何も言わないものだから、わたしは思わず菊の鬼に尋ねた。すると、菊の鬼は柔らかくわたしに微笑んだ。
「話したかったんだろう? 私は人の話を聞くのが好きなんだ。時間はたくさんある。人に話を聞いてもらえなかった未練を晴らせれば、お前も先に行けるだろう」
「まるで幽霊だわ」
「だから鬼が話を聞くのさ」
「あはは、そっか」
笑ったのなんて、いつぶりだろう。この人となら、いつまででも話せるように思えた。
「先に行くって、どういうこと?」
「ここに来た生き物は最後には桜に祝福され、文字通り先に行くことができる。……前に進むことができる」
でも、気の済むまで留まっていればいい、と菊の鬼はわたしの頭を撫でた。白くて細い手はお母さんのそれに似ていて、わたしは泣き笑いをした。
「ありがとう、優しい鬼さん」