5.社畜と突然のお見合い
「確かに、私は独身ですが……」
古川の唐突な問いに、俺は弱々しく答えた。本当は、理瀬と付き合っている、と胸を張って言うべきなのだろうが、この場で火に油を注ぐような真似はしたくなかった。
「伏見は、私が以前勤めていた部局での部下でして、彼女が新人の頃からよく知っています。とても優秀で、省内でも一目置かれる存在です。将来は私のように、いや私なんか軽く越えてしまうでしょう」
「古川次官には、入省してからずっとお世話になっています」
古川の視線を受けて、すらすらと決まったセリフのように答える伏見。
「そんな彼女に、個人的なお願いとして、理瀬の相談相手をしてもらっているのです」
「相談相手、ですか」
「はい。宮本さんはすでにお聞き及びでしょうが、私は和枝と急に離婚して、それ以降理瀬とは関わってきませんでした。血がつながっているとはいえ、こんな中年男を年頃の女の子が信用してくれるとは思えません。考えようによっては、娘を捨てた父親なのですから。私はそんなつもりはなかったのですが」
娘を捨てた父親、なんて軽く言ったところで、俺は少し苛立った。自覚があるなら、今までも含めてもっと理瀬のことをケアしていればよかったのだ。基本的には養育費を支払えば子供との面会は可能なのだし、それを怠ってきたのは古川自身だ。
しかし、自分は娘を捨てたつもりはない、というところは引っかかる。このあたりは、和枝さんとの過去のしがらみの部分だろう。何があったのか、後で前田さんに確認するか。
「そこで、より年齢が近い伏見に事情を話し、理瀬の相談相手をお願いしたのです。衣食住は私で面倒を見られますが、年頃の女の子の繊細な心は、ケアしきれないと思いまして。伏見には、個人的なことで無理を言って、本当に申し訳ないと思っています」
「いえ。古川次官から受けたご指導に比べれば、大したことではありません」
伏見のあまりの従順さに、俺の体に悪寒が走った。うちの営業部の女性陣なんて、課長のハゲ頭のことをナスカの地上絵とかなんとか言ってげらげら笑ってるのに。官僚は、というかエリートはみんなこんな風に、上司に従順なのだろうか。
ただ、大組織においては上司に媚を売って出世するのが最も効率的なのだと、一応大企業勤めの俺もなんとなく知っている。人事考課のポイントを握っているのは、結局のところ上司なのだ。なので伏見の気持ちはわからなくもない。そういう奴もいる、というだけだ。
「今話したとおり、伏見はとても優秀なのですが――」
古川が三本目のザ・ピースに火をつけた。ここからが本番だな、と俺は感づく。
「仕事が多忙なせいか、男性との出会いがないようでして」
とても嫌な予感がする。
伏見は軽い笑顔のままだ。営業スマイルの一種だと、俺にはわかる。俺も営業マンだからな。
「その……宮本さんさえよろしければ、伏見とお見合いをしていただけませんんか」
返事ができなかった。
俺が独身だという話題が急に出てから、なんとなくそんな気がしていたのだが。
理瀬を取り戻そうと画策している俺に、古川は新しい女性を紹介してきた。
まさかこんな手があるとは思わなかった。理瀬を取り戻す、という最終目標地が、急に奈落の底へ沈み、そこまでの道筋が全くわからない。そんな気持ちだった。
「やだ、古川次官。今どきの若い子はお見合いなんて堅苦しい言葉は使いませんよ」
「そう、なのか?」
「そうですよ。宮本さんが固まってしまっているじゃないですか」
伏見はあらかじめこの話を古川から聞いているだろうから、驚かないのは当たり前なのだが。それにしても、俺の気を引くためにこんな茶番を打つとは。
俺もサラリーマンとして、真意を隠しつつ演技を打つことはある。しかし、これは個人的な、恋愛の問題だ。それを仕事のためだと言って割り切るのは、俺には無理だ。
この伏見という女、芯まで仕事に、いや出世に染まっているタイプなのだろうか。
「デート、でいいですよね。あっ、宮本さんがよければ、ですけど」
「私からもお願いします。私自身、若い頃は仕事ばかりで、友人から和枝を紹介されなければ、結婚とは無縁でした。まあ、私の結婚生活は長続きしませんでしたが……後輩に同じ轍を踏ませたくないのです。まあ、行き過ぎた老婆心、というものかもしれませんが」
「は、はあ。すいません、まさかこんな話をされるとは思わなかったので、どうすればいいか」
「宮本さん。私に興味がないのかもしれませんが、もしよければ理瀬さんの話をいろいろ聞かせてもらえませんか。理瀬さんといろいろ話しているのですが、私は今二十四歳で、けっこう歳が離れているので……正直、まだ私に他人行儀なところがあるんです。もう少しうまく話せないかな、ってちょっと悩んでます。宮本さんの話を理瀬さんにすれば、話が盛り上がるかもしれませんし」
ここで古川が、少し顔をしかめた。
俺はその瞬間を見逃さなかった。古川はやはり、極力俺を理瀬に近づけたくないのだ。
それに対して、伏見が理瀬の話題を出してきたのは、本当に理瀬とのコミュニケーションで悩みがあるのかもしれないが、まずは俺の気を引くために、身近な理瀬の話題を出しただけだ。
もちろん、共通の話題をもとに仲を深めるのはコミュニケーションの定石だから、不自然な事ではない。古川もそれはわかっていて、理瀬の話をすることに反対はしない。だが、本能的な不快感は消せなかったようだ。
「そうですね。俺も、理瀬が最近どうしてるか、ちょっと気になりますし」
俺があえて古川を試すためにそう言うと、シガーケースから四本目のザ・ピースを取り出し、火をつけていた。やはり苛立っているようだ。しかしこのおっさん、相当なチェーンスモーカーだな。
「……話はまとまったようですな。まあ、ここからは若い人だけで楽しんでください」
古川はくわえタバコのまま背広の内ポケットから財布を取り出し、万札の束を伏見に渡した。たぶん十枚以上はあった。伏見は「ありがとうございます」と、特に悪びれもなく受け取った。
「私はこのへんで失礼します。それで楽しんで来なさい。行きたいところが特になければ、この前教えた銀座のバーのマスターに話してあるから、そこで飲めばいい」
「はい。そうします。この喫茶店、知ってる人がよく来るので、落ち着かないんですよね」
古川はザ・ピースの火を消し、あらためて立ち上がり「では」と一礼をした。俺も合わせて、立って礼をした。喫茶店には、俺と伏見が残された。どうすんだこれ。
「ごめんなさいね。急にこんな話になって」
古川からもらった札束を財布に収めながら、伏見が言った。上司がいなくなったら態度を豹変させるかもしれない、と俺は期待したが、雰囲気は変わらなかった。
「銀座のバーでいいですか? あっ、もしかしてお酒は苦手ですか」
「いや、少しは飲めますよ。普段ほとんど飲まないんですけど」
「よかった。このところ仕事が忙しすぎて、飲みに行く暇もないんですよ。私、女ですけどお酒の強さには自身ありますから」
自分で『酒が強い』と言うやつの九割は、たいして飲めない……まあ、俺が異常に強いせいで、そう感じるだけかもしれないが。
こうして、俺たちは銀座へ向かうことになった。
電車の中で、俺と伏見はお互いの仕事の話をした。俺はエリート官僚の仕事に興味があったのだが、伏見のほうが積極的に質問してきて、俺が話す羽目になった。優秀なやつは、人に話させるのが上手い。伏見にとって俺のような営業職は未知の世界なので、それなりに楽しく聞いているようだった。
この女が、本当のところ何を考えているのか、まだまだ見抜けそうにない。




