19.社畜と母娘愛
俺は高熱でうなっている篠田に事情を伝え、理瀬と一緒に病院へ向かった。篠田を一人で放っておくのも危険なことだったが、優先順位をつけるとしたら和枝さんの生死にちがいない。
篠田もそこは理解してくれた。ひたすら頷いていただけなので、もしかしたらちゃんと理解していなかったかもしれないが。
病院に着き、俺と理瀬は医師から説明を受けた。電話がかかってきた時点で一番容態が悪く、一時は死も覚悟したらしい(それを聞いて、理瀬は体から魂が出ていきそうな顔をした)。今は若干落ち着いており、ICUで治療を受けている。
俺と理瀬は許可を得て、ICUにいる和枝さんの顔を見た。
和枝さんは、落ち着いた様子で静かに眠っていた。俺はついさっき見たが、理瀬は病気で老け込んだ和枝さんの姿を初めて見る。そのためか、じっと見ていると理瀬は泣くのをぐっとこらえてひくひく言い始めた。そのあたりで俺たちはICUから出た。
和枝さんが運び出され、誰もいない個室で俺と理瀬は回復を待つ。
「お母さん、ほんとに死んだらどうしよう……」
俺はもう症状が落ち着いてるんだ、心配するな、ということを夜が明けるまで理瀬に言い続けた。
和枝さんの意識が戻ったのは翌朝のことだった。個室に運ばれてきて、俺が医師からの説明を受けている間、理瀬はずっと「お母さん、お母さん」と和枝さんのそばで繰り返し、わんわん泣いていた。
医師によると、危険な状態は脱したらしい。だが糖尿病に必要な生活習慣の改善や投薬を全く行っていないため、慢性的な低血糖に陥っている。放置すればまた繰り返し、最後は死ぬだろうとのこと。
俺と医師の話が終わったころには、理瀬も落ち着いていた。和枝さんは、まだ意識がはっきりとしないのか、ぼうっとした目で理瀬を見ていた。夢でも見ているような顔をしていた。
「理瀬……」
「お母さん……」
和枝さんは、娘がそんなに自分を心配するとは思ってなかったのだろう。実際に見れば、それは明らかだ。過ごしてきた時間の違いはあっても、理瀬の心配は、子が親を思う気持ちに変わりない。
「全部話しましたよ。後見人の話のことも、理瀬さんに会わないまま死のうとしていたことも」
「……そう」
和枝さんは負けを認めたかのように、肩をすくめた。
「お母さん」
「なあに、理瀬」
「お母さんが死ぬのは絶対いや」
「でも仕方ないでしょう。病気なのよ。もう治らないわ。突然死ぬ前に、あなたが生きていくための用意をしなければならなかったの」
「お母さんがいない人生なんて考えたくないよ!」
「私がいなくたって、することはいくらでもあるでしょう。投資も、あなたの夢の研究者になるための勉強も、まだまだ足りないでしょう」
「ないよ!」
「ない?」
「お母さんが私のあこがれなのに、お母さんがいなくなったら夢なんかなくなるよ!」
「私が、夢?」
今までの理瀬からは想像できなかった、子供のような理屈で、和枝さんはやっと納得したらしい。
和枝さんは、(おそらく、かつての自分がそうだったように)理瀬が向上心の塊で、とにかく勉強ばかりしていたい人間だと、勝手に思っていたが。
理瀬からすれば、今までずっと、母親の背中を追いかけていただけなのだ。
「私は……お母さんに褒めてもらうために、早く一人立ちして、お母さんに迷惑をかけず生きていこうと思ってたんだよ。お母さんがいなくなったら意味なくなるし、アメリカなんてやめて一緒にいてくれるなら、それでもよかったんだよ」
「理瀬……」
ベッドの隣でひざまずいている理瀬の頭を、和枝さんが優しく撫でる。
初めて、和枝さんが一人の母親であるように見えた。
「ごめんなさい、私やっぱりあなたには迷惑ばかりかけているわね」
「別にいいよ。お母さんが働いているおかげで私は生きられるんだから」
「今はもう、お金を手に入れたでしょう」
「お母さんが今の仕事してなかったら、投資しようなんて思わなかったもん」
「投資……」
しばらく親子の甘々しい会話が続いていたが、『投資』という言葉でなぜか和枝さんが固まった。急に真剣な顔になり、俺を見る。
「ねえ、私が救急車で運ばれてから、今まで何日くらい経ってるの?」
「一週間くらいですけど……」
「一週間……」
和枝さんが青ざめる。その表情は、何かに気づいたらしい理瀬にも波及した。
「お母さん、まさか」
「……この一週間、一切マーケットの情報見てないわ」
「お、お母さん、まずいよ! パソコン出して! 先週アメリカがイラン攻撃して中東関係の株価大荒れだよ!」
「はああああ!? 理瀬、あんたはこっちを調べなさい!」
こうして感動の再会は、俺にはわけのわからない株価チェックの時間に変わった。
大変なことが起きているようだが、慌てふためく二人の姿もどこか楽しそうで、俺が心配していた親子の不仲はもうなくなっていた。
* * *
俺にはよくわからない株価のチェックやら何やらが終わったころ、やっと二人とも落ち着きはじめた。理瀬によると、幸いにも和枝さんの資産に大きな損害はなかったらしい。なるほど仕事をしなくても保有資産を転がすだけで生きていけるのだ。このあたり、上級国民様と一般的な社畜との差を見せつけられたようで、俺はちょっと寂しくなる。
一呼吸おいて、和枝さんがおもむろに話しはじめた。
「宮本さん。後見人の話、もう一度ちゃんと考えてほしいの」
俺はちゃんとした回答をしていない。和枝さんはもともと、俺を後見人にして自分はひっそり死ぬ予定だった。今とは事情が違う。理瀬は、和枝さんの病気を知っている。
「私はいつ死ぬかわからない。理瀬は十分な資産を持っているけど、それだけで生きていけるような環境じゃないことは、宮本さんがよく知っているでしょう」
「ええ。俺も、理瀬さんを一人にするのはまだ心配です。だから、こうしましょう。和枝さんは遺言状を書いて、その中に後見人を俺にすると記述しておいてください。俺が後見人を引き受けるのは、万が一和枝さんが亡くなった時だけです」
「……なるほどね」
俺としては、あくまで保護者の立場にあるべきなのは和枝さんだという気持ちだ。しかし人の命は、本当にいつどうなるかわからない。そのリスクを和枝さんが心配するなら、そこだけははっきりさせておく。これで、今までと変わらない関係が続く。
「……お母さん、そんなに調子が悪いの?」
理瀬が心配そうに言う。遺言状、という言葉に反応したらしい。
「さあね。今日みたいなことがいつ起こるか、誰にもわからないから」
どこか引っかかる言い方だった。
この人、自分の病状を何も知らないんじゃないか。
「和枝さん、糖尿病で病院には行ってないんですか?」
「え? 行ってないわよ。診断だけは受けに行ったけど、もう治らないんでしょ」
「いや……治すのは難しいですけど、生活習慣の管理や投薬治療で進行を遅らせることはできますよ。うちの祖父がそうでしたから」
「お母さん……病院、怖いから行ってないんでしょ」
理瀬が言った。どうやら図星らしく、和枝さんが苦笑いしている。
「人生五十年ってよく言うじゃない?」
「よく言わないよ! ちゃんと病院行けばマシになるんだよ!」
「もう、私が酔って帰った時みたいな怖い顔しないでよ」
「……ここは救急病院だし、とりあえず次の入院先を探すところからだな」
「ええー」
「ええー、じゃないよ!」
病院の話になると、急に子供のように拒否しはじめる和枝さん。
この先どうなるかはわからないが、理瀬の機転もあり、和枝さんはしばらく入院治療をすることになった。やはり本物の親子、お互いのことは何でも知っている。
とりあえず、まだ希望はあるというわけだ。
この先つらい治療が続く和枝さんは大変だろうが、親子がすれ違いを終えて正常な関係に戻った。俺はそのことがたまらなく嬉しかった。




