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17.バリキャリ母親と娘への思い

 翌日。

三郎太の葬儀をすべて理瀬と篠田に任せ、新橋の高級ホテル付近を管轄する消防署に電話をした。

和枝さんは理瀬や俺を避けているのではなく、話せるような状況ではないのだ。

死んだ三郎太の様子を見たあと、そう直感した。

電話した結果、同じ名前の人物が救急搬送されていると教えてくれた。搬送先の病院を聞いたが、個人情報保護のため、本人の許可がなければ教えられないという。

予感は、的中した。

だが情報は不完全だった。一度搬送されたというだけで今は元気なのかもしれないし、最悪のケースではもう亡くなっているかもしれない。

このことを理瀬に伝えるべきか、俺は悩んだ。いま伝えても、いたずらに不安を大きくするだけだ。少なくとも、和枝さんの所在をはっきりさせなければ伝えられない、と俺は考えた。

次の一手をどうすべきか迷っていると、消防署のほうから電話があった。


「宮本さまは、搬送された常磐さまのお知り合いですか?」

「そうです。常磐さんが海外へ単身赴任していて、娘さんの様子を代理で見ているんです」


消防署の女性は「はあ」と少し浮かない返事をした。俺と理瀬と和枝さんの関係は特殊すぎて、普通の人からは理解されないだろう。だが仕方ない。下手に嘘をついて、信用されなくなるのが一番まずい。アラサーになる俺がこれまでの社会人生活で学んだことだ。

消防署は消防署で、これまでの経験で「特殊な人間関係」なんて何度も経験しているのだろう。すぐに話を再開した。


「再度確認したのですが、実は常磐さんの関係者の方の連絡先が一切わからなくて、病院が困っているようなんです。本人も、意識は戻りましたが、話をするのがまだ難しいらしくて」


 関係者がいない。意識は戻った(つまり一時期、意識不明だった)。さまざまな情報を含む言葉に、俺は息を飲んだ。しかし消防署の人に食いついても、お互いに時間の無駄だ。


「勤め先の方とかに連絡してないんですかね?」

「お勤め先ですか? 無職となっておりますが」

「無職? ああ、体調を崩す前後でなにかあったみたいなんですよ。とにかく私と娘さんで確認しますから、病院の名前を教えていただけませんか」


 動揺を隠しながら、なんとか消防署から病院名を聞き出した。俺は一人で、指定された都内の病院へ向かった。都心に近い、大きな救急病院だった。

 受付で事情を伝えると、いちおう免許証で本人確認をしたうえで病室に通された。

 案内してくれた看護婦さんいわく、消防署や警察の力を借りて身元を確認したがほとんどわからず、本人も何も話さないという。病状はもちろんだが、医療費が払えるのかという心配をしているのだろう。あとはなんとかします、と適当に答えておいた。

 和枝さんは、前に見た時よりも十歳くらい老け込んでいるように見えた。もともと三十代くらいの若いお姉さんに見えたから、年相応になったと言うべきか。それにしても、短期間で老化した人の姿は痛ましい。


「糖尿病ですか」


 何も話そうとしない和枝さんに俺が言うと、ふふ、と笑った。その一瞬だけは、以前に見た和枝さんの若さやエネルギーが復活しているように見えた。


「よくわかったわね」

「死んだ祖父が糖尿病だったんです。いま打ってる点滴、同じものだなあと思って。それに、なんとなくですが以前、体から甘い匂いがしたような気がしたので」


 糖尿病。

 酒量がおそろしく多いうえ、不規則な生活をしている和枝さんのことだ。五十代で発症していても、おかしくはない。

 俺に後見人をやってくれ、と話をしたのも納得がいく。俺を気に入ったのではなく、手近なところで理瀬を任せられる人材を探していたのだ。


「勘がいいわね。それだけ勘がいいと、いろいろなことに気づいちゃって辛いでしょう」

「おっしゃるとおりです。まあ、勘がいいおかげであなたが救急搬送されたって思いつきましたし、得もしてますよ」

「あなたなら、理瀬の面倒をうまく見てもらえそうね」


 一瞬、和枝さんを殴りたくなるほど怒りがこみ上げた。何を思っているのか、この時点ではわからなかったが、それはとても無責任な言葉に聞こえた。


「倒れて救急車のお世話になるほどひどい糖尿病で、会社もやめて。どうして理瀬さんに言わないんですか。まず言うべきなのは、実の娘である理瀬さんでしょう」

「私が死にそう、なんて知ったら、十代の貴重な時間が無駄になるでしょう」

「は?」

「十代はもっとも頭が働く期間よ。老いぼれた今の私なんかより、ずっと効率的に勉強できる。それに友達との関係、つまり社会性だって身につけなければならない。そんな時に、母親のことが心配で勉強が手に付かない、なんてことになったらあの子の将来にかかわる。私が死んだあとに知って、一度だけ悲しめばいいのよ」

「ふざけるな!」


 俺はベッド脇にどんと手をつき、和枝さんに怒りを向けた。怒りを抑えられなかった。直接殴らなかったのを褒めてやりたいくらいだった。

 だが和枝さんはひるまず、むしろ冷たい目で睨み返してきた。

 その目はどこか、理瀬に似ていた。

 俺は思い出した。自分の能力や生活、人生観などをすべて論理だてて考え、損か得かで最終的に判断する姿は、理瀬も、和枝さんも同じなのだ。


「私の人生はもう残り少ない。娘の面倒はほとんど見られなかった。むしろ見てもらってたくらいよ。だからせめて、最後に迷惑をかける訳にはいかないの」


 これまでの俺なら、説得をあきらめていたかもしれない。

 世界最高クラスの年収を誇る人たちは、貧乏人の俺などとは考えが違う。親子であっても、時には非情な決断をすることもある、なんて考えて。


「死ぬのは怖くないわ。私の実家は代々、炭鉱夫だったの。三十年以上前に閉山した常磐炭田で、ずっと暗い炭鉱の中で石炭を掘っていたのよ。だからみんな、六十歳までいかないくらいで死んでいった。私はそれが嫌で勉強して、大学に行って、今の仕事を手に入れたけど、結局同じような人生だったわ。猛烈に働いて、歳になったら死ぬ。同じことよ」


 だがこの時の俺は、一つだけ、どうしても言いたいことがあった。

 和枝さんの意志がどんなに固くても、これだけは伝えなければならなかった。


「あなたがあと何年生きるかなんて、俺はもう知りません。でも、理瀬さんはあなたに会いたがっている。あなたと連絡がつかなくなった時、泣きそうな顔をして相談しにきたんですよ、あの子は。そこまで心配している娘の気持ちを無視して、一人で死のうっていうんですか?」


 和枝さんはこの時、初めて驚きの顔を見せた。


「理瀬が、私を、心配している?」

「当たり前でしょうが、そんなこと。実の親なんですよ」

「嘘よ。毎日酔っ払って帰って、鬱陶しい母親だと思われてるに違いないわ」

「そりゃ酔っ払ってるときは鬱陶しかったでしょう。でも、あなたはそれで理瀬さんのことを殴ったり、無視したり、ひどい扱いをしていた訳じゃない。仕事でボロボロになって、酒の力を借りて心を癒やしていた時も、あなたは理瀬さんのことを忘れていなかった。近くにいて、心と体を通わせていたんです。だから理瀬さんは、あなたのことが好きなんです」


 理瀬から聞いていたことだ。

 毎日酔っ払って、とんでもない母親だということはわかっていた。それをネタにされ、学校で馬鹿にされたこともあったという。

 だが一方で、酔っ払っても和枝さんは優しかった。

 夜、酔っ払った和枝さんとくだらない話をしながら介抱することだけが、二人の、親子としての温かい時間だったのだ。

 二人とも、親子愛を忘れたわけではない。

 互いに、自分の存在が負担になるのではないか、と疑っているのだ。

 和枝さんが病に侵され、理瀬が高校生という最も心が不安定な時期に、二人は決定的なすれちがいをしている。

 俺は、どうしても、すれ違いをしたままで終わってほしくなかった。


「理瀬が……?」

「だから、今すぐにでも理瀬さんと会ってください」

「理瀬には、まだ、言わないで……」


 ふと突然ろうそくの火が消えたかのように、和枝さんが倒れた。

 俺はすぐナースコールを押し、事情を説明した。とりあえず病室からは出ていくように言われ、そのとおりにした。駆けつけた医者がかなり焦っていて、ものすごく不安になる。

 ふと携帯を見ると、理瀬から三回も着信があった。おやすみモードにしていて、気がつかなかったのだ。

 電話をかけると、理瀬はすぐに出た。


『宮本さん!』

「どうした?」

『篠田さんが、すごい熱出して寝込んじゃったんですよ!』

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