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3.バリキャリ母と高級ホテル

 理瀬の母親が滞在しているホテルは新橋にあった。

 新橋や有楽町のあたりは取引先が多く、なにより豊洲から有楽町まで電車一本なのでよく知っている。接待でよく使う飲み屋リストがうちの部署に存在するくらいだ。

 豊洲がハイ・ソサエティ(ぶっている)街だとすれば、新橋はごく平均的な日本のサラリーマンの街だ。

 高級店で染められているのは銀座のあたりだけで、新橋にあるほとんどの会社は俺の会社と同じく、ごく平均的な大企業。年収は悪くないが、そこまで高くない。平社員なら豊洲のタワーマンションを買えるような年収にならず、千葉や埼玉、西東京あたりから満員電車に乗って通勤しなければならない。

 飲み屋は単価高めの店もあるが、ものすごく安い店も多い。ほとんどのサラリーマンはお小遣い制だから、いかに安くアルコールを摂取するかが大事なのだ。普段酒を飲まない俺にはどうでもいい話だが、取引先との二次会で「いつもの店」と言われて二千円でおつまみつき二時間飲み放題の店へ連れて行かれた時、この人たちも苦労しているなあと思ったものだ。

 一方で、大企業の役員クラスはそれなりの金持ち。大きな会社ほど、見栄を張るために高いレストランやホテルを使用する。会社の金で、だ。

 理瀬の母親が滞在しているのは、新橋駅から徒歩十分ほどのところにある高級ホテル。駅からちょっと遠いな、と思ったがよく考えたら本物の金持ちはハイヤーで送迎されるから、騒々しい駅からは離れていたほうがいいのだ。一泊いくらするのか、出張の時によく使うホテル予約アプリで調べたらそもそも登録されていなかった。世界が違うのだ。

 平日の夜八時。俺はホテルのラウンジバーに向かい、スタッフに待ち合わせしていると伝えた。

 理瀬の母親――常磐和枝は、カウンター席でカクテルを飲んでいた。


「ふふ。ごめんなさいね、先に飲んじゃった」


 俺は言葉を失っていたのだが、それは先に飲み始めていることに対してではない。四十代半ばだという和枝はとても若く、そして美しく見えた。理瀬は同年代にしては少し大人っぽい感じで、和枝もまたいい大人の色気を感じさせるのだが、『老い』が全く感じられない。

 ベテランの映画女優のように、洗練された美しさだった。

 こんな人の隣に、しかも超高級ホテルで一緒に酒を飲んでいてもいいのか、と俺は戸惑いながらも、和枝の隣に座った。


「はじめまして。あたしは常磐和枝。常磐理瀬の母親です。あなたのことは、理瀬からいろいろ聞いています」

「宮本剛です。理瀬さんにはお世話になってます」

「とんでもない。お世話になっているのは理瀬のほうよ。病気の理瀬を助けてくれたのも、一人暮らしの知恵を教えてくれたのもあなたでしょう」


 理瀬の家でシェアハウスという名のヒモと化していることを怒られるかと思ったら、むしろ感謝されているらしい。


「なにか飲む? あたしの会社のお金で出すから、遠慮しないでいいわよ」

「それ大丈夫なんですか……」


 うちの会社にも接待費はあるのだが、私用で使ったら大問題になる。最悪、業務上横領罪で検挙されたうえにクビだ。


「お硬い日本の大企業とは違うのよ。何が飲みたい?」

「バーとかあまり来ないんでよくわからないんですけど、ウィスキーをロックでもらえますか」

「いいわね。飲める男は好きよ。マスター、おすすめのスコッチをロックでお願い」


 ほどなくして、ダブルグラスにゴルフボール並に大きい氷が入ったウィスキーが出てきた。本格的なバーだとこんな風に出てくるんだ。すげえ。


「バーには来ないの?」

「酒はあまり飲まないんです。取引先との付き合いで安い居酒屋へ行くくらいで」

「でもウイスキー飲んでるじゃない」

「あまり酔わないんですよね。ビールとかだと全然酔わなくて、濃い酒じゃないと」

「すごいわね、それ。私なんて、付き合いがあるのにお酒弱いから若い頃はだいぶ苦労したわよ。今は慣れたけどね。欧米系の男って、ウィスキーをストレートで飲むのよ」

「流石にそこまでではないですね……」


 和枝はとてもオープンな感じの人で、年の差がある俺とも距離感を感じさせない話し方だった。うっかり俺のほうがタメ口になってしまいそうなほどだ。


「俺のこと、疑ってはいないんですか?」


 ウイスキーが少し回り、明日も仕事ということもあって、いちばん聞きたいことを早めに持ちかける。


「疑ってるに決まってるじゃないの。男が女に近寄る目的なんて体しかないんだから」

「じゃあ、なんで俺と理瀬さんとのシェアハウスを許可したんですか?」

「あの家はあの子のものだから、あたしが決めることじゃないからよ」

「あの家を買うお金を稼いだのが理瀬さんだから、というのはわかりますけど、やっぱり大人の男との同棲なんて、母親なら何が何でも阻止すると思います」

「初めはそのつもりだったわ。異性と同居するリスク、特に性的なことに関してはメールと電話で真剣に伝えた。自分がそう思ってなくても相手のスイッチが入ってしまうこともあるってね。実際、あの子も思い当たるところがあったみたいよ」

「あ、あったんですか……」


 俺はただただ冷や汗をかいていた。理瀬と俺は十歳以上離れているが、和枝さんは俺から見て一回り大人。『友達のかーちゃん』みたいなもの。

 普段は大人として子供の理瀬と話している俺が、今日ばかりは子供に戻り、理瀬の母親という大人にやり込められている。そんな感じで、非常に居心地が悪い。


「でもね、あの子の意思がものすごく硬かったのよ。宮本くんはすごくいい人で絶対にそんなことはないって。あの子も一人暮らしを始めて、自分がまだ子供で、周りに支えてくれる大人が必要だということを理解したみたいね。あたしがアメリカに行くと決めてしまった以上、日本に戻ることもできなかったし。そこまで言うなら、ということで許可したわ」

「それは、俺も感じていました。放っておけなかったんです、本当に」

「そんな真面目な顔で言わなくても、あなたが理瀬を助けたいだけだということは疑っていないわよ。理瀬はなんだかんだで、人とお金を見る目のある子だから。あたしと一緒でね」

「俺だけならともかく、篠田と……俺が交際している女性とまで同居を認めたのは?」

「そこは深く考えなかったわ。あなたのガールフレンドがそばにいれば、理瀬が襲われるリスクは減る。まさか本命の彼女のすぐ近くで別の女に手を出したりしないでしょうからね。それに理瀬にとっても、大人の女性が近くにいた方がいい。どんなに宮本くんが優しくても、女の子にしかわからないこともあるから。増えるリスクといえば、近くでいちゃいちゃされて理瀬が居づらくなることくらいよ」


 俺と理瀬との間に起こっている異常な状況を、おそろしく論理的に解釈して説明している。

 理瀬が俺に話す時と同じだ。やはり親子だな、と俺は思う。


「まあ、とはいえ一度本物の宮本くんを見て確かめたかったのも本当よ。見た目は悪くないし、お酒も飲めるし、何も問題なかったけどね」

「酒が飲めるのは、理瀬の事と関係ないような……」

「あの子、小学生の頃に麦茶と間違えてあたしのウィスキーをぐいっと飲んじゃったんだけど、にがっ、って言っただけで全然酔わなかったのよ。相当強いわよ、きっと」

「だからって、未成年に酒を飲ませるのはだめですよ。昔は就職したら、とか大学生になったら、とか言って飲ませてたみたいですけど、今は会社でも大学でも二十歳厳守ですからね」

「えっそうなの? 時代は変わったわね」


 ……まあ、俺も酒覚えたのは大学に入学してすぐだったし、偉そうなことは言えないんだけど。ここ数年で、タバコとアルコールに関するモラルは急激に進化している。


「豊洲のマンションにはいつ来るんですか?」

「えっ?」


 俺はもうひとつ気になっていたことを聞いた。和枝さんと二人で会うのと、理瀬と篠田を加えて話すのでは全然、状況が違う。篠田は間違いなくテンパるし(あるいは状況が特殊すぎて、どうしたらいいのかわからなくて黙りこむかもしれない)、理瀬が俺のことをどんな風に言うかは想像もできない。その日がわかるのなら、早めに知りたかった。

 しかし、和枝さんは少し驚いた顔をしていた。


「マンションを見てみたい、って理瀬に言ってたんじゃないんですか?」

「そうだったかしら。部屋は完成した時に理瀬と一緒に見たし、家具を揃えるのも二人でやったから、もう見るところはないのだけど」

「俺や篠田が入ったことで、生活感がどう変わっているか確かめたいんじゃないんですか」

「そこは気になるけど、宮本くんと話すくらいでいいと思うわ」

「というか、日本に帰ってきてから理瀬と直接話してませんよね? いくら俺のことが気になっても、普通は娘と先に会うもんじゃないんですか?」

「スケジュールが詰まってて、基本ホテルから出られないの。今日だって、夜中から急に働けって言われるかもしれない。本社があるアメリカとは時差があるから。そこに無理やりスケジュールをねじ込んだのよ」

「同じようにして、理瀬さんをホテルに呼べばいいじゃないですか」

「……あの子は、あたしになんて、別に会いたくないわよ」


 今日の会話のなかで、俺は始めて、和枝さんの態度に違和感を覚えた。

 理瀬は、自分の母親のことを誇りに思っている。だからこそ単身アメリカに渡るという選択を認め、自分は一人暮らしをするという大胆な提案をした。

 会ってはいないもののメールや電話で普段からやり取りしている和枝さんは、そのことを理解していると思っていたが。

 今の和枝さんは、どこかよそよそしく、理瀬を遠ざけたい感じすらあった。


「そんなことないと思いますけど」

「実際、理瀬から私に会いたい、って言ってきたことないもの」

「それは理瀬さんが遠慮してるんですよ。和枝さんは忙しいし、そうでなくても難しいお年頃で、母親へストレートに甘えるのは少し恥ずかしいんでしょう」

「あたしはストレートに伝えられた意思しか受け取らないことにしてるの」


 そう言って和枝さんは席を立ち、マスターにお勘定、と告げた。


「今日はもう遅いから、ここまでにしましょう。理瀬によろしくね、Good night」


 和枝さんはかなり飲んでいたが、しっかりとした足取りでバーを出た。

 俺はカウンター席に残り、まだ半分残っているウィスキーをすすりながら、理瀬と和枝さんが親子として暮らしている姿を想像してみた。どうやってもうまく想像できなかった。

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