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10.社畜と後輩と

 まさか焼肉屋で婚姻届を見るとは思わなかった俺は、目が点になった。

 篠田が、俺に振り回されないよう作戦を考えた、というのは一応理解できる。しかしその作戦が婚姻届の提出、結婚とはどういう事なのか。


「提出、するだけか?」

「……宮本さん、婚姻届を提出する意味わかってます?」

「それは……結婚するって事だ。でもお前、俺と結婚するってことは、一緒に住んで、家庭を持つという事だぞ」

「そういう事ですよ。宮本さんは私と社内恋愛で結婚して、会社の人みんな呼んで盛大な結婚式を開いて、私の実家に近い栃木に家を買って、子供をつくって、普通のサラリーマンとして生きるんです。それなら理瀬ちゃんも納得するでしょ?」

「確かに、理瀬を説得するには十分だが……お前、俺と結婚したいの?」

「今更何言わせるんですか。さっき言ったからもう言いませんよ」

「いや……お前は、俺のことをまだ恨んでいると思ってたから」

「恨んでます。まあでも、恨んでいても結婚はできるし、一緒に生活しながらその罪を償ってくれれば、そのうち恨み晴れるかもしれませんし」

「罪を償うってなんだ?」

「私のことを、理瀬ちゃんみたいに優しく扱ってください」


 篠田の言葉には、まだ棘があった。完全に俺を信用してはいないのだろうか。

 しかし、結婚してしまったら、俺だけでなく篠田の人生も縛ることになる。今の篠田が、俺と一生一緒にいることを認めるとは思えなかった。

 

「優しくって、具体的にどういうことだ?」

「もう、そんな恥ずかしいこと聞かないでください。なるべく一緒にいてくれれば、それでいいですよ。ちょっと前の、普通の先輩と後輩みたいな感じで」

「しかし……それでお前を傷つけた罪を償えるとは思えない」

「私に、理瀬ちゃんといる時みたいに優しくはできないってことですか?」

「いや……そういう訳ではないが」

「ああ、いいです。そういう優柔不断なところも知ってますから。私の伝え方が悪かったので、言い直します。宮本さんが理瀬ちゃんを助けるために手段を選ばなくなったように、私も宮本さんを手に入れるためになりふり構わなくなったんです」


 そう言われると、確かに、少し納得できた。

 俺が理瀬に対して動いているのと同じような気持ちで、篠田は俺に対してアピールしている。


「……見事な三角関係だな」

「だーっ! そこは私のことが好きって男らしく言ってください」


 酔っているためか、篠田はいつもより積極的だ。声も大きく、そろそろ周りの視線が気になってきた。


「で、どうするんですか。結婚する以外に、私がこれ以上協力する方法はないですから」

「わかったよ」

「え?」

「お前が望むなら、そうする」

「……え、ほんとに? マジで?」

「本当だ。婚姻届を役所に出すまで一緒に付き合ってやるよ。だが、流石に焼肉屋で婚姻届を書きたくはないな」

「それはそうですね……」


 俺たちは焼肉屋を出た。約束通り俺のおごりだ。もう金額を知りたくもなかったので、さっさとクレジットカードで払ってしまった。

 そのまま俺たちは、近くのラブホテルになだれ込んだ。

 二人ともスイッチが入っていて、シャワーを浴びる前に俺が篠田を押し倒してしまった。

 篠田と体を交えるのは久々だったが、後ろめたさは一切なかった。篠田も全く拒否していなかった。

 俺が理瀬へ夢中になっているから、百パーセント篠田だけを愛しているとは感じてくれないだろう。しかし、先輩と後輩として数年間積み上げてきた信頼は、まだ崩れていなかった。

 体力が尽きるまで抱き合ったあと、二人でシャワーを浴び、裸のままベッドで横になった。


「婚姻届、書くか」

「……まだいいです」

「えっ? それが条件なんだろ」

「……条件とかもういいです。焼肉おごってくれて、その後付き合ってくれただけで十分でした」

「しかし、そうしないと決意を示せないだろう」

「私が幸せだからいいんですよ」


 篠田は俺の胸にもぐり込み、とても幸せそうな顔で寝てしまった。


** *


 翌朝。

 俺は平気だったが、篠田は完全に二日酔いしていて、介抱するところから始まった。

 ふらふらする篠田に水を飲ませ、服を着せる。酔っ払いの介抱は照子と一緒にいたから慣れている。

 帰り際、机の上に残っていた婚姻届を、篠田はゴミ箱に捨ててしまった。


「いいのか?」

「いいです。っていうか、あれ栃木のやつなんでこのへんじゃ使えないです」

「何だよ……やっぱり、ただの脅しだったのか」

「あ、でも結婚はしてもらいますから」

「お、おう」

「嫌ですか? だったら理瀬ちゃんを助ける作戦には協力しませんよ」

「いや、もう決めたことだから。そんな大事なことで嘘はつかない」

「……やっぱり、理瀬ちゃんの事になると目の色変わりますね。でも、もうそれでいいですよ。なんか、慣れてきました」


 どう受け止めればいいかわからなかったが、篠田の機嫌が治ったので、俺はほっとした。

 この日、俺達は駅で別れるまで、手をつないで歩いた。篠田の希望だった。


「この歳になると、手をつないで歩くのって、エッチするより難しい気がします」

「そうか?」

「いつまでもピュアな宮本さんにはわからないんですね」

「俺がピュアだって? どのへんが」

「おじさんなのに女子高生へ何の迷いもなく惚れてしまうところです」

「手、つなぎながらそれ言うか」

「悪いのは宮本さんですよ。じゃ、次に会うまでに婚約指輪買ってくださいね。私、宮本さんの給料だいたい知ってますから、ごまかせませんよ」

「はあ……しばらく絶食するか」

「冗談ですよ。そういう大事なことは二人で決めましょう?」


 改札に入る時、手を離そうとしたら、篠田が嫌がって強く握ってきた。

理瀬と同じように、これからは篠田を守らなければいけない。そんな思いが、篠田に手を握られてから、どんどん強くなっていった。

照子とひどい別れ方をしてから、俺はもうあの時みたいに女を愛することはできない、と思っていたが――篠田と一緒にいれば、不思議とそんな気持ちは忘れられた。

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