02 白南
おれはどうやら、小さな休憩所のような場所にいるらしかった。
日除け程度に伸びた天井とぼろぼろになった木の壁が見える。画面端には雲ひとつない青空がある。
頭がくらくらした。
それが暑さのためか、少女のためかわからない。だが、まともではない。
少女はウェーブがかった柔らかな色のブロンドヘアを揺らし、おれの顔をじっと覗き込んでいた。
前髪を小さな装飾のあるヘアピンで留めていた。
装飾は眼の色と同じ、深い碧色をしている。
絹のキャミソールは胸の膨らみを微かに伝える。
腕も首も折れてしまいそうなほど細いが、やや日焼けしているようで、鎖骨のあたりにくっきりと日焼け跡が見えた。
ここでようやく、おれの頭の下にある心地よいクッションの正体に気づいた。
身体を動かそうとすると、少女はおれの胸をトンと押し戻す。
少女はおれの髪を優しく撫でる。
おれはただ、少女を見つめる。
瞳を通して心をやりとりしているような気分になった。
おれと少女の瞳を結ぶ、不可視の流れ。砂時計の砂のようにさらさらと心が行き来する。
砂時計は一方通行だが、心の砂は物理法則が当てはまらない。少女の瞳は吸い上げるようにおれの心を知ろうとしていた。
心の砂の流れが滞ることはなかった。おれの心は少女の瞳に、少女の心はおれの瞳に溶けていった。
そうしていることは、いつまでもできた。
しかし、僅かな理性が身体を動かす。
起き上がろうとする。
そんなおれを、やはり少女は静かに押し戻す。
「動くんじゃない。――君が助かったのは奇跡のようなものだ。君は長時間呼吸せずに川の底にいた。不思議と水は飲んでいなかったが、君は過度な酸素不足に陥っていた。あと一歩遅ければ、君は助からなかった。わかるかい?」
少女の少女らしからぬ話し方に少し驚く。
目を細めて微笑み、少女はおれの手を取る。
「手足に痺れはないか?」
返事の代わりに手のひらを閉じたり開いたりする。足も軽く動かす。
「上出来だね……」
そう言って少女はまた微笑み、細い手でおれの頬を包み込む。
少女には不思議な安心感があった。
しかし、甘え続ける子供みたいだな、とも思った。
流石に恥ずかしくなり、顔を背ける。
キャミソールが風に揺れて、小さな臍が見え隠れした。
おれは頬の紅潮を感じながら、片目で少女を見る。
「あんたの名前は?」
「シラハだ。君は?」
不思議な語感だった。シラハはじっとおれを見ている。
名乗るべきか迷った。おれを助けたと言うシラハを信用していないわけではなかったが、言いたくない事情があった。
それに、自分の名があまり好きではなかった。
「おれは……」
黙っていると、シラハが不思議そうに見つめてくる。
「なんだ、思い出せないのか?」
シラハのその問が、おれの川底睡眠事件の後遺症を心配してくれていることは明白だった。
「そうじゃねえけど……」
「言えない事情があるのか? それとも、好きじゃないのか? 自分が」
おれの心は見透かされていた。
助けを求めるようにシラハと目を合わせる。
本当に子供みたいだ。甘えてしまう……。
シラハはますます眼を細めて、慈しむようにおれの頬を撫でる。
「こんな辺鄙な場所の川で溺れるような人間、名乗るべき名などないに等しいか。よかろう、私が君に名を授けよう」
「あんたが?」
「光栄だろう? それと、あんたではなくシラハだ」
「シラハ」
シラハは満足そうにうなずくと、おれの耳元に手を添える。
「君との出会いはとても運命的だ。いつもなら、こんな日中に外出することなどない。ところがどうだ、今や水の底の君を助け出し、君の名前を決めようとしている。こんな数奇なことがあるか? 私は君の意識が戻るまでずっと考えていた……ずっと、君のことを」
少女の爛々とした瞳がおれを射抜く。
「――エラン! それが君の名前だ」
衝撃が、おれの心臓を強く叩いた。
鼓動が加速し、全身が熱い。目が泳ぐ。
顔がこれでもかというほど赤く染まる。
――まるで命を与えられたかのようだった。
「わ……、お、おれは、そんな」
動揺のあまり声が震える。思わず目を閉じる。
「なにを動揺している? ――名前が気に入らないか?」
「……なんで、そんな女っぽい」
「エラン。私は、君がとても魅力的な女性に思える」
このとき、はじめて自分と、自分の置かれている状況に注意を向けた。
水に濡れてぴったりと身体に張り付いた下着と、下ろした髪。
そこに居たのは、男装した魔道士などではなく、少女に穏やかに見つめられ、恥ずかしそうに顔を赤らめるがさつな女――エランだった。