第1話
神化元年10月30日。
閉じられたカーテンの隙間から伸びる日差しが、空気中をあてどなく彷徨う埃を可視化させる。
その光景は、いつかテレビで見た海の中を漂うマリンスノーを彷彿とさせた。
少年は一人、安アパートの一室で携帯端末をぼんやりと弄りながらテレビのニュースに耳を傾けている。
1LDKの狭い部屋の中を、電子音声が響く。
時折ノイズが入るようになったテレビが、最近幾度となく耳にするようになった注意を再三にわたり促している。
『
ザザザ……現在、世界中で磁気異常が発生している現象に関してですが、
国際地磁気研究機構の発表によりますと、数万年に一度の頻度で地球の地磁気が反転する、『ポールシフト』の前兆である可能性が高いことが判明いたしました。
ポールシフトとは、数万年から数十万年の頻度で地磁気のN極とS極が反転する現象です。
研究者によりますと、既にいつ起こってもおかしくない状態であり、仮にポールシフトが発生した場合、磁気異常により機械類に不具合が生じる可能性があります。
その際、世界のあらゆる通信や製品の製造、果ては流通に至るまで多大な混乱が予想されます。
万が一の状況に備え、念の為、各ご家庭に十分な量の食料と水の備蓄を推奨しています。』
要するに、電子機器が壊れたりして色々問題起こるから気を付けてってことらしい。
一応保存のきく携帯食料と水を買い込んだし大丈夫だろう。
今日、神化元年10月30日は今年から新しく出来た祝日により、休みとなっている。
無趣味な俺は特にすることも無く、ニュースを垂れ流すテレビをぼんやりと眺めながら、なろう小説を読んでいる。
「俺も便利な能力欲しいなー」
小説を読みながらダラダラする。
最高に贅沢な時間の使い方だ。
ちらりと時計を見ると、時刻はもうすぐ12時になるところか。
小腹がすいたので、備蓄してある栄養バランスに定評のある携帯食料と冷蔵庫の野菜ジュースを腹に入れる。
……備蓄はこういう時に使っていかないとな。
災害用の食料を少し食べてしまったことに対して自分で言い訳しつつ、とある音が耳に入ってきた。
…ザザザ……ザ…ザ……ザ
そんなテレビのノイズが走ったと思うと、いきなりテレビの電源が切れてしまった。
慌ててスマホをタッチするも、画面が黒いばかりで何も起こらない。
「おわっ、ポールシフトってやつが始まっちゃったのか?」
俺は災害用品が詰まったリュックを背負い、ジャージと安全靴を履いて外に出てみることにした。
──外は、戦場だった。
アパートの部屋から出てまず目に付いたのは、そこかしこで立ち昇る黒い煙。
そして、至る所から聴こえる悲鳴。
俺の部屋は二階にあり、部屋から出ると大通りの一部が視界に入るのだが、車道がまともに機能している様子はない。
人が、
人が何かに襲われている。
道路に点在する停まった車の間を、人々が何かから必死で逃げ惑う。
その後ろから現れたのは、緑色の醜悪な生き物の大群だった。
簡素な腰布だけを纏った緑の生き物は、各々がその手に持つ棍棒や切っ先の尖った木の槍を用いて、逃げ惑う人々を追い立てている。
不幸にも追い付かれてしまった人間は、槍で突かれ、棍棒で滅多打ちにされ痙攣し、やがて動かなくなっていく。
大通りは既に人間の死体がいくつも転がり、血の絨毯が広がる凄惨な光景となっている。
「なんだ……これ」
行くか?戻るか?
緊張の現れか、心なしか視界が薄い赤に染まる。
先ずは、部屋に戻って考えを整理しよう。
武器になるような物も欲しい。
俺はすぐ後ろの部屋に戻ることにした。
気がつくと赤かった視界が元に戻っている。
ドアを閉め、鍵をかけてチェーンもかける。
靴を脱いで部屋に入ると慌てて使えそうな物を物色していく。
が、中々武器になりそうなものは無い。
「部活で使ってたテニスラケット、は軽すぎるか。武術の心得が無い以上は長めの棒とかのが良いか
包丁、長さが心許ないが使える」
俺は通販で買ったダマスカス鋼柄の包丁を握り締めた。
あとは、長めの棒なんてないよな……。
いや、あるか。
洗濯で使っている物干し竿。
一人暮らし用の長さ2メートルくらいのがベランダにあったはず。
薄っすらと赤く染まる視界をベランダの方に向け、鍵を開けて扉を開けた。
素早く物干し竿を回収し、部屋に戻ろうとしたところで気がついた。
見られている。
それは、向かい側のアパートの玄関扉から、こちらを覗く緑の相貌。
黄色くぎょろりとした目玉。
尖った耳。
にやりと三日月のように上がる口角からちらりと見えるギザギザの牙。
RPGとかで序盤のモンスターとして知られるゴブリンというモンスターだ。
そいつが返り血を舐めながら、扉の裏からこちらを見ている!
俺は慌てて物干し竿を持って部屋に戻り鍵を締める。
見られた。
どうする、どうする。
やばい。
視界が赤く染まっていく。
赤い。
赤い。
なんだこれは。
赤く染まる視界の中、一点だけ赤くなっていないところが部屋の中にあった。
部屋の片隅にある押入れだ。
俺は暴れる心臓に手を添えて、直感に従い押入れの中に入り襖を閉める。
物干し竿の先端が出てしまうが、仕方がない。
物干し竿を捨てるか?
いや、捨てない方が良い気がする。
直後、ガラスが割れる音と共に何かが部屋の中に飛び込んできた。
恐らく先ほどのゴブリンか。
ゴブリンは俺を探してか、部屋の中をぐるぐる歩き回っているようだ。
早鐘のように鳴り響く心音を感じながら、早く諦めてくれるように祈る。
しばらくして、ゴブリンは俺が既に去ったと思ったのか、怒りを露わにしているようだ。
頬から汗が一雫落ちる。
押入れから飛び出している物干し竿の先端が見つからないかドキドキである。
次の瞬間、ゴブリンは何かを発見したかのように押入れの方へ近寄ってきた。
(…っ!?)
ゴブリンが見つけたのは、食べ掛けの携帯食料だった。
押入れの前に落っことした俺の携帯食料を、喜んで頬張るゴブリンの姿。
押入れの隙間から見えたその姿は、あまりに無防備だった。
物干し竿を突き出せば、丁度ゴブリンの顔面に直撃する位置。
物干し竿を握る手に自然と力がこもる。
──やるか。
即座に俺は、物干し竿を力いっぱい突き出した。
「ガッ!?」
ゴブリンが驚愕の声を上げる。
物干し竿の先っぽがゴブリンの口の中にヒットし、喉の奥にまでめり込んでいる。
苦悶の声をあげるゴブリンに対して、更に物干し竿を突き出す腕に力を込め、押入れの襖を開け放った。
同時に、ダマスカス柄の包丁を取り出し、倒れるゴブリンへと肉薄す。
包丁はゴブリンの土手っ腹へと深々と突き刺さった。
肉を穿つ感覚が腕に伝わると共に、赤い血が噴き出る。
「〜〜〜ッ!」
既に声帯が潰れているのか、ゴブリンは声にならない声を出して苦しがる。
俺は包丁を抜くと、二度三度続けてゴブリンの腹部を滅多刺しにした。
数度の痙攣の後、ゴブリンはやがて動かなくなった。