一話
「あぁ、悪い夢を見たな。」
今日は悪い夢を見たよ、叶。昨日は綺麗な夢を見れたのにどうしてだろう? いくら考えても分からないや。
今日も綺麗な彼女の写真を見て、そっと彼女の輪郭を撫でる。洗面所へ行って顔を水で洗う。部屋へ戻ると今日も兄からのメールが何件もきていた。一人暮らしを始めてからと言うもの毎日こう。随分と心配性な兄をもったものだ。いつもとはちょっと違う返しを打って、朝ご飯の準備を始める。
「今日は少ししょっぱかったかな?」
何てこと無い普通の朝。兄へのメールの返し以外いつも通り。今日は兄にこの借りているマンションの部屋の住所と地図を送った。遠回しの『会いに来て。』だ。少しわくわくしている。メールは頻繁にしているけど久し振りに会うから。
「よし、これで大丈夫。」
趣味のいろいろな調べ物が書かれているファイルと日頃の出来事を書き留めていた日記を机に並べる。兄にこれを自慢したいから。そして一枚の紙とセロファンテープを手に持って玄関の扉を開ける。表に出て扉に『屋上に来て。』と書かれている紙をセロファンテープで留めた。ちょっとしたサプライズがしたい。だって今日は兄の彼女で私の親友の白沢 叶の特別な日だからね。昨晩叶も誘ったから来てくれると思う。
「屋上だ。久し振りに来たかも。」
腰を掛けながら呟く。引っ越してから趣味以外で外に出るのは珍しいくらいだから、夏の青空は酷く眩しかった。あの日も辛く感じるくらい強い日差しがあった。嗚咽が口から零れてくるほど鮮明に、悲しく残っている。
「___ 夢乃!」
乱暴に開かれた屋上の扉から忘れていた今の姿の兄だと思われる人が飛び出してきた。まだ大学生なのにスーツ姿。でもそのスーツはよれよれ、余程急がないとああはならない。それが少しだけ嬉しい。最後にちゃんと会ったのはいつだっけ、思い出せない。
それにしてもいきなり大声を出すなんて久し振りの再会なのに穏やかじゃないなあ。
「お前どこに座っているんだ!!」
私をギラギラした目で見つめる兄。美しくないよ、そんな目。少なくとも叶が好きだった兄さんの目じゃない。私と同じ綺麗な目じゃない。
「久し振り。どこって…フェンスの上だけど?」
少しでも外側にバランスを崩せば落ちてしまうような屋上のフェンスの上。平然と言ってのけた唇は僅かに震えている。どれだけ意地を張っても恐怖心というものは拭えないものだ。でも、不思議と鳥肌が立つようなあの感覚はしない。
叶の元に行けるのが嬉しいのだ。なかなか決心が行かなかったけど叶と、初めてちゃんと愛せた彼の為なら…。
「決めたんだ兄さん。雪兎君の為にも私の存在は、良く…ないよ。」
一人の人に依存して、一人の人を追い詰めて、一人の人を愛した故に死んでいく。___あぁ、ほら美しいね、最後だけ。汚れた一人の人の末路、それが美しい愛だなんて、滑稽だ。
「さよなら、兄さん。こんな妹でごめんなさい。さよなら、雪兎君。___愛しています、いつまでも。」
足を遠くの地面目掛けて伸ばす。先程も聞いたような鈍い音がして振り返った。そこには、
「夢乃!!」
必死に手を伸ばしてる。愛してる人。
「好きだよ。」
この言葉は届かなかったかもしれない。だけど、最後に残したから。ちゃんと見てね。日記とファイル。たくさんのありがとうを込めて。
好きって言って告白してくれてありがとう。仲良くしてくれてありがとう。助けてくれてありがとう。一緒にいてくれてありがとう。忘れて良いって言ってくれてありがとう。最後まで、
「愛してくれてありがとう。」
落ちていくなか、零れてくる涙。聞こえる蝉の嫌いな声。もっと大嫌いな車の音。最後まで生きているって感じたい。でもこれで最後だ。笑うのも泣くのも憎むのも愛すのも、全部全部。
「今逝くよ、叶。最後まで一緒。夢が叶ったね。これで___ハッピーエ」
全身に激痛が走る。最後に、叶の笑い声が聞こえた気がした。
白沢叶の命日,海崎夢乃はマンションの屋上から飛び降りた。屋上では残された二人が言い争っている。数分後救急車が来るまでの間彼女は鉄板のようなアスファルトに横たわっていた。その横顔は微笑んでいるように見えた。