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ミス・ラーナー

作者: 鱗田陽

 私が生まれた時、母は酷く落胆したらしい。生まれたばかりの私の小さい頭が、お気に召さなかったのだ。欠陥品を生んだと叫んで、産婆と看護師を激しく殴りつけたという。

 その現場を目の当たりにしていたら、私は侮蔑の心に押し潰されて精神に異常をきたしていたに違いない。物心が付いたあとでさえ、あの母親と過ごすのは苦痛だったのだ。

「あなたは駄目な人間なのだから、せめても誠実でいるんですよ」

 これが母の口癖だった。彼女はこれを言うだけで、現世での善行を積んだ、と勘違いしていたのだろう。

 ある時など、私の物を盗んだ小娘に対して、笑みを浮かべてこう言ったのだ。

「この子は誠実ですからね。それがあなたの持ち物であると分かっていますよ」

 そうして、愛想良く小さな泥棒を帰してしまった。その帰り道で、娘という名の聞き分けのない獣に、どのように道理を説いてやるべきか思案していた。

 そしてその鉄面皮に、薄い――偽善に満ちた――笑みを浮かべた。

「あれはあの子の物でしょう?」

 いいや違う、と私が言うと、母は今度こそ怒りに駆られて、私の手の甲を叩いた。その痛みにおののいていると、母は根気強く諭すような、教育者然とした馬鹿げた顔をしたのだ。

「何故、そう聞きわけがないの? 私のことが嫌い?」

 母は私の物を他人にあげるのが好きだった。なにしろ自分の腹は痛まないのに、人に良いことをした気になれる。

「いいんですよ。あの子も良く分かっていますわ。あの子は誠実な子ですからね」

 誠実とは、どういう意味なのだろう。私はずっと疑問に思っていた。文字の読み書きが達者でない頃は、この母の口癖が、どのような類のものなのか見当もつかなかった。人に物をあげることなのか、娘の物を捨ててしまうことなのか。ろくでもない言葉だというのは感じていた。母が口を酸っぱくして言うものだから。

 幼少期の私は、暗く、みすぼらしい子供だった。なにしろ着ている物といえば姉のお下がりだったし、何でもかんでも人にあげてしまう母によって、そうした貧相な品々でさえ失われてゆく。私を見た大人の大半は、必ず眉をひそめ、そして虚無にも似た薄い笑みを浮かべて言うのだ。

「ラーナーさんの娘さんは、二人とも愛らしいですわね」

 これが世辞であったことは誰の目にも明らかだった。姉に関してはそれが当てはまっただろうが、私に関しては当てはまらなかった。つぎはぎだらけの服を着て、意固地に執着したがる私には。

「誠実でいるんですよ」

 薄笑いを浮かべた他人の母親達が、口を揃えて貧相な私に言うのだ。その言葉は、私にとっては剣と同じだ。その鋭利な言葉に貫かれて、私は悄然と立ちすくんだ。誠実であるということ――それは私にとって、恐ろしい死刑宣告だった。

 他人の目が気になるようになった。皆が私を監視して、私の誠実さを試しているような気がした。

必然的に、私もその目から逃れるために、心の片隅に散った誠実さを必死に集めて回った。自分の物に執着しなくなった、と言ってもいい。母の言う誠実さにかけて、私は謙虚であるようにした。欲しいという人があれば、例え愛用の品でさえ差し出した。

 もちろん、小さい内はこれで良かったのだが、少しでも大きくなると、私ではなく姉が心配するようになった。今でもそうだが、彼女は心配性で、いつでも私のことを気にかけようとする。

 この姉は、どうして母の腹から生まれてきたのだろう、と思えるほどの人であった。気が優しく、絶えず友達と呼ばれる人が近くにいた。そして何より、私のような人間にも慈悲を分け与えてくれるし、太陽のように朗らかな笑みを浮かべる人なのだ。姉の純然な慈愛を向けられている時だけは、私の心も穏やかだったように思う。

 ただ、他人はそう捉えてくれなかったが。

「お前は実に不誠実だ」

 と言ったのは父だった。それは私が姉からお下がりを貰っている時だったか、それを友達に上げてしまった時だったか、定かではないが、彼も母と同じ言葉で私をなじった。またしても私は、誠実さとは何か、という問題に頭を悩ませねばならなかったのだ。

「誠実さとは何でしょう?」

 ある時、両親に尋ねたことがある。

「お前のような人間が持っていないことは確かだ」

 と父が言った。対して母は独善的な笑みを浮かべて、私の手を握り締めた。それには嫌でも怖気が走ったが、しかし私は誠実さを目の色に秘めて、じっと母を見つめた。

 途端に母がたじろいだ。

「人のために生きることです」

 やっとの思いでそう言葉を紡いだが、視線はずっと泳いでいた。どのような顔をして、この両親を見ていたのだろうか。心地よいものでないことは確かだ。

 何故なら、私は誠実さという言葉に憎悪を抱いていた。自己犠牲の、なんと馬鹿げたことだろう。

 しかし、私の中の感情と行動とは噛み合わなかった。私は誠実さという言葉が嫌いではあったが、不誠実であろうとは思わなかったのだ。私は変わらず、人に惜しみなく何かを与える人であったし、その根源が姉であったことを否定する気はない。

「あなたは立派な人よ」

 と姉は言ってくれたが、幼い私には何の慰めにもならなかった。

 しばらく時が経って、乙女と呼ばれる年頃になった。私は相変わらず誠実さが嫌いだったが、けれども心だけは高潔だった。姉の結婚式の日でさえ、私は誠実であろうと努め、惜しみなく人に尽くした。そのおかげで栄えある姉の花嫁姿が見られなかったことが、人生の心残りである。

「あなたは誠実な人ね」

 と、人は誰でも私をほめそやした。両親も鼻高々で、様々な人の家に私を連れて行っては、嫁の貰い手はありませんか、と尋ねた。まあ、この行動は芳しくなかった。私の外見はいかにも貧相で、誠実さとは無縁だったからだ。

 この頃から、私の眉間には深いしわが出来るようになった。私はその外面に反して気難しくなり、それがますます人を惹きつける結果になった。私を囲む欺瞞の仮面をつけた人達は、いかにも不誠実そうだったにもかかわらず、私は誠実であろうとして、それらを突き放すことが出来なかった。

 思春期を迎えた私は、自分自身がどういう類の人間であるのかを理解していた。私は本質的に誠実ではないし、人が好く性質の人間でもない。その上、厄介だったのは、生涯に渡って悪癖だと自覚している孤独性を発症してしまった。

 私は常に一人であろうとした。人のいない方へと歩いていって、孤独であることを好むようになった。誰の目も向いていない時だけ、私は誠実さの鎧を外して、ただ一人の人間として生きられるようになったのだ。

 それでも、他人は私を探し当てようと苦心した。私に誠実さの衣を着せようと躍起になった。それがどれほどの恐怖であったのか、誰にも分かるまい。偽善家の母と、毒舌家を自負する父とに囲まれて、誠実さを押し付けられる私の気持ちが――姉のお下がりを貰えなくなり、より一層貧相になっていく私の気持ちが。

「あなたは誠実であるべきです」

 母は馬鹿みたいに繰り返したが、どのような意味を持つのか、私には皆目見当もつかなかった。もう、私には与える物が何一つとしてなかったからだ。私が持っていたのは、年頃の娘に必要な服と、そして堅牢な城砦に守られた心だけだった。

 そして、この誠実さが、私から男を引き離す結果になった。男達は地味な色を好むくせに、女には色彩豊かでいてほしいと願うものらしい。

 それを十全に理解していた乙女達は、影までかき分けて、私を孤独の縁から引きずり出そうとした。みすぼらしい私を活気づく街の中央に連れていけば、自らが魅力的に見えるということを本能的に察していたからだ。

 私にとっては、この上なく苦痛な時間だった。私を取り囲む乙女達が、一体誠実さと何の因果関係があるのだろうと思っていた。浮かない顔をした私に、彼女達は心配そうな顔を向けてきたが、それがより一層、私の不信感を煽りたてるのだ。猜疑心の牙が心を噛み、嫌悪感をむき出しにする。

 私がより孤独であろうとすればするほど、彼女達は私の周りに集まった。

「あなたは不誠実です」

 ある時、父の書斎で本を読んでいた私に、母が喚き散らした。歳を重ね、彼女の中の誠実さは複雑怪奇な変貌を遂げていた。

「一体何が不誠実だというのです?」

 私が問い返すと、母は私の手の内にあった本を叩き落として、激甚な声を放った。この声量で窓が震えたことを今でも覚えている。この時に耳道をつんざいた耳鳴りが、今でも幻聴となって聞こえるような気がするのだ。

「あなたは誠実であるべきです。あなたの友達は、あなたを待っているのですから」

「でも、私は望んでいません。こうして静かに、本を読んでいたいのです」

 人生で初めて口答えをした私に返ってきたのは、強烈な平手打ちだった。母は訳の分からぬことを言い、それから足音荒く書斎を出ていった。その日の内に、隣町にある修道院に入れられることが決まった。

「これで満足でしょう? あなたは誠実ではないのですから。聖なる御人の膝元で、その腐った性根を叩き直していらっしゃい」

 これ幸いにと少ない荷物をかき集めて、翌日中には出発した。嫁いでいた姉が見送りに来て、お餞別の品をくれたが、それらは全て、修道院で出会った乙女達に誠実さの欠片として渡してしまった。私の手元には一つだって残らなかった。

 ともかく、誠実さの代償として修道院で暮らすことになった。ここは誠実さの象徴だと誰もが言うが、何を以ってそういうのか、今でも私には分からない。淫行と汚職と、それから権謀とに渦巻くこの場所の、どこに誠実さがあるというのだろうか。

 私の疑問はさておいて、私はこの場所で孤独をむさぼることが出来た。ここでは最低限の仕事をこなせば、修道士の書斎で本を読んでいても、貸本屋に本を借りに行っても、文句を言う者はなかった。私は誠実さから一歩分だけ離れて、一人でいることに熱中した。

 ただ、これで完全に孤独が訪れたというわけではない。この修道院という中でも、影の中を嗅ぎ回り、私を見つけて、メッキを張った美しい言葉と偽りの泥で塗り固められた笑顔を向けてくる者があった。そのうちの一人――名前は失念したが、顔は忘れていない――は狡猾な蛇のようでいて、そして獲物を前にした狐のようだった。

 なにしろ私を見つけるなり、心の内にずかずかと入りこみ、そして薄ら寒い笑みを浮かべながら、私の心の隙間を指先でいじくりまわすのだから。

「ねえ、ラーナーさん?」

 彼女は必ずこの言葉から話を始めた。偽りの善意を振りかざし、私の孤独をひどく浸食してくる行動力には辟易するしかない。

「ねえ、ラーナーさん? 一人でいては駄目よ」

「ねえ、ラーナーさん? きっと楽しいわ」

「ねえ、ラーナーさん? 正直になるべきよ」

 きっと尋問される容疑者や、自問自答を繰り返す死刑囚という者達は、このような言葉を現実の内に、そして幻想の真ん中で浴びせかけられるのだろう。

 私の心は酷くけば立った。何度辛く、酷薄な言葉をぶつけたか知らないが、この女は飽きることなく私に近づこうとするのだ。おぞましくも頬を涙で濡らしながら、私の懐に潜り込もうとする。その距離感と清廉さの欠片もない表情とに、私は恐怖を抱いた。

 そんな私を見て、その場にいる全ての人間も嫌気がさしていたらしい。彼女達は、あの忌まわしい女を庇い、そして私をなじった。

「ミス・ラーナー、あなたは不誠実ですよ」

 これは私の心に強い衝撃を与えた。過日の思い出が蘇り、苦々しい感覚が口の中に広がった。私はますます人が嫌いになった。読書に熱中し、そして持てる全ての時間を使って勉学に勤しんだ。この風変わりで不誠実な乙女を、もう誰も相手にしたりはしなかった。物好きなあの女が許嫁に迎えられて修道院を出たからだ。

 さて、私が淑女となった時、私にも大きな変化が訪れた。許嫁が迎えに来たわけではない。両親はもう初めての孫と、そして義理の娘とに熱中していて、私のことなど覚えてはいなかった。私の元にやってきたのは家庭教師としての務めだ。どこかの大きな屋敷の子供達に勉学を教えるのが私に課せられた使命となった。

「ミス・ラーナー、どうか誠実にね」

 修道士の一人がそう言って、去りゆく私に声を掛けてくれた。この言葉は大層心外だったが、しかし数年の内に身につけた欺瞞によって、私は愛想の良い笑みを浮かべた。

 もう人を騙すことに躊躇いはなかった。こうあれ、という人物像を的確に読み取り、その型の中に自分の精神を注ぎ込むことを苦と思わなくなった。

 このみすぼらしい私を迎えたのは屋敷の女主人であった。夫に先立たれ、幼い子供を抱えつつ、事業に邁進しているのだという。初対面の時から彼女の境遇が全く嘘ではないということくらい分かっていた。彼女の子供達には乳母が付けられていて、忙しい母に代わって世話を焼いているのである。

「こちらがラーナー先生です。今日からあなた達の勉強を見るのですよ」

 手早く自分の子供達と引き合わせると、この女主人は仕事に戻っていった。男の世界で女が生きるというのは恐ろしいことで、人一倍の努力を必要とするのだ。もちろん逆もまた同じである。

 それはさておいて、子供達と相対した私も、その女主人の勇気と努力に見合うよう厳格さを滲ませて接することにした。これが功を奏したのか、彼らは私に酷く懐いた。

 この無垢な魂には幾ばくか救われる思いがしたが、すぐにそれが純白でないことに気がついて、冷厳さを強く抱きしめた。彼らに対して、家庭教師としての努力は最大限したつもりだ。

 この環境で私を辟易とさせたのは、子供達でも、女主人でもない。乳母達だ。

「ラーナー先生を見習いなさい」

「ラーナー先生は素晴らしいお方ですわ」

「ラーナー先生、どうかこの子達に誠実さを教えてやってください」

 あの修道院で出会った忌まわしい女と同じように、私の高潔な精神を荒んだ口八丁で汚そうとしたのだ。私は私なりの節度を持って、女主人と子供達に接してきたつもりだったが、やはりこの狂った乳母達によって、そうした線引きは曖昧にされそうになり、私を悩ませる羽目になった。

「あら、ラーナー先生はお加減が悪いようですね」

「あんた達、ラーナー先生を困らせてはなりませんよ」

「ちょっと、ラーナー先生のところに行ってきなさい。体にお気をつけくださいと声を掛けたり、何かお薬を持っていって差し上げなさい。それが誠実さですよ」

 私をひどく苛立たせたのは、この乳母達だったということを、もう一度記す必要があるだろう。私の母と、そしてあの忌まわしい女と、そして乳母達と、どうして私の中の感覚を破壊して、平気な顔をしていられるのであろう。偽りの仮面が音を立てて崩れていくようだった。愛想笑いの表情にも綻びが生じ、そして乳母達の粗さが目についた。最初の頃のような余裕が全くなくなった。

 子供達が、少年や乙女と呼ばれるような年頃になった頃、私は遂に堪りかね、誠実さの鋳型から己の精神を取り外した。この時の自分自身を鑑みる術はないが、酷く苛立っていたことは事実だ。子供達は怖々と私を窺い、私の機嫌が悪くないことを確認してから、いつもの通り勉学に打ち込むようになった。

 ただ、職務の遂行という点に関して、私は気を長く持っていたつもりだったから、こうした子供達の態度にも落胆を覚えた。私は平等であったはずだ。

 ある日――それが春の日のことだったのは覚えている――窓から差し込む白光の中で、職務についての葛藤と戦っていた最中に、私の元に女主人がやってきた。

 初めて会った時と比べれば皺も刻まれていたが、まだ若々しく、仕事に打ち込んでも差し支えない年齢であった。

「ラーナー先生、今日の御機嫌は?」

 この突然の物言いに私は酷く立腹し、もうどうにも我慢が出来なくなった。

日差しの中から見ると、女主人の顔に影がかかっていて、それが酷薄な――本物の表情を浮かびあがらせているような気がした。この女も、どうやら無遠慮な他人と同類であるらしい。私に慈悲を与えたつもりで、現世で善行を積んだ気になっている。

「ええ、主様。大変悪いですわ」

 この率直な物言いに女主人は顔を歪めた。それまでは彼女を名で呼んでいたからだ。

「先生、気を悪くなさったの? でも、ここ最近、辛そうな顔をしていたから」

「ええ、主様。大層辛い気分です。なにしろ私は過不足なく仕事をしたつもりでいるのに、誰一人として正当な評価を下さらないのですから」

「ラーナー先生。わたくしは十分に評価をしていますわ。あなたの誠実さに触れれば、子供達も紳士淑女になれるはずです」

 それが私の心に油を注いだ。衝動的な憤怒が我が身を灼き、もはやあとに引き返せないほどの激情が身を動かしていた。私はかぶりを振り、女主人を睨みつけた。

「心外です。誠実さなど一つとして教えてはおりません。あのような物を教えるくらいならば、もっと身につけるべき礼法があったはずです」

「先生、あなたは疲れていらっしゃるんだわ。そんなことをおっしゃるなんて。確かに、ここに来てから長い御休みは一度たりとも取ったことがありませんものね。遠くの保養地で、ひと月ばかり羽を休めてはどうかしら?」

「そうして私を追い出して、あの子供達に何を教えるのです? 誠実さですか?」

「先生、言葉は素直に受け取るものです。あなたはたくさん勉強をなさったから、どうしても裏があると思い込んでいるのですよ」

 だが、もう耐えきれなかった。例え裏があろうと表だろうと、私の心は悲鳴を上げていた。誠実さの型は年々窮屈になるし、求められる期待は募るばかりだ。私は、彼女達が私を陥れようとしていると確信していた。

 乳母達の目は囚人を監視する刑務官のようで、子供達の言動は私を打ち据える鞭のようだ。そしてこの女主人である。恐るべき仮面を秘めて、虎視眈々と私を狙っていた。私がボロを出すその瞬間を。そして私はこの日差しの中で彼女に綻びを見せたのだ。

「主様、今月で御暇を頂きます」

「どうしてです、先生。子供達はあなたに懐いております。わたくしもあなたには満足しております。不満などないはずでしょう? 名誉が欲しいのですか? それともお金?」

 確かに不満はない。私の領分に不釣り合いなほど立派な物が与えられていた。だが、私はもう誠実さの仮面をつけていたくはなかった。何もかもを与えつくし、もう私の手元には一つだって残ってはいないのだ。

「後任者をお探しください。来月にはここを去りますので」

 私は何を求めていたのだろうか。最後の勤務日、子供達を力強く抱きしめて、その耳元でいくつかの助言を与えた。それは淑女となりて、初めて芽生えた感情だ。これに名を付ける術を、私は生涯で一度も持つことはなかった。

 こうして私は屋敷を辞した。その後、何度か家庭教師として住み込むことはあったが、この時のような強烈な劣等感に苦しむことはなかった。他の子供達を可愛いと思ったことも、一度たりとてない。

 ともかく、金を得るたびに職場を変え、そして各地を転々とした。まるでサーカス団のようだ、と自分でも思う。文字通り根なし草で、風の吹くまま、気の向くまま、寒いところや、暖かいところへ流れていった。

 幾年もそうして生活し、老年に差し掛かる頃になって、私は一人の少女と出会った。話すうちに気を許し、彼女を臨終の立会人とすることにした。もう旅行鞄を持つのは辛く――黒々としていた髪の毛は銀灰色に染まっていた――そして人生の集大成を得るには好都合だった。私はもう棺桶に両足を突っ込んでいたのだから。

 私のような人間についてくるくらいだから、この少女にもいくつかの問題があった。それは、両親に見捨てられた境遇だとか、少々無口で無愛想だとかいうことである。

「これは彼女の物でしょう?」

 何より、この少女には占有権の概念が理解できていないようだった。自分の物か、他人の物か、判然としないのである。何かを取り上げるたびに、彼女は険しい顔をした。

「何故? これはあたしの物よ」

 彼女は必ず反論してきた。こういう時、家庭教師としての経験から、どう返答するのが最適か、と頭を悩ませた。その度に彼女は意固地になり、ある物全部を他人に上げるようになった。彼女の地味な外見が、みすぼらしく、貧相になっていく。それを見かねて街に連れ出したり、少女らしい物を与えたりするのだが、彼女は決して承服しなかった。

 彼女は一層無愛想になった。彼女に友情を感じてくれる子もいたが、この少女は二重の側面を持つ事象を嫌った。言葉か態度か、どちらか一方の意味しか取れないのである。

彼女はより一層暗い場所で一人きりになりたがった。誰の助言も聞きはせず、彼女はただ一人、孤独であろうと努めているようだった。

 ついには私も堪りかね、この少女に問いかけた。

「どうして私の言うことを聞かないの? 私が嫌い?」

「それは……、でも、あたしにだって考えはあるのよ」

 この答えは到底、私を納得させなかった。孤独であろうとするのはともかくとして、圭角をむき出しにして、差し出された善意を無下にする行為だけは許せそうにない。この少女の友達は、軽薄な態度の裏側に純然な好意を秘めていたのだから。

 このもどかしさに耐えかねて、私は彼女に囁いた。

「あなたはもっと誠実になるべきだわ」


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