溺れる
学園最後の卒業式の日。学園の庭にはたくさんの花が咲き、あたりをその香りで包んでいた。
バルコニーからまっすぐ伸びる道の先に、噴水がある。そこから吹き出る水が、春の日差しを浴びて光り輝き、落ちていく。
私はバルコニーから出た。花に囲まれる道を歩き、つるりとした大理石でできた噴水に腰をかけた。花の香りが一層強くなる。水面から勢いよく跳ねた水滴が私のドレスを少し濡らす。
バルコニーの方へ目を向ければ、卒業を控えた生徒が和気あいあいと話している。彼らはこの噴水を見ようとしない。あるがままの美しさを感じられないからだ。彼らはこの噴水に過去を見る。
1年前、ここである一人の女生徒が死んだ。彼女は朗らかな人で、多くの人から好かれていた。物語に出てくるプリンセスのような金髪と、海のように青い瞳を持った彼女は、多くの男から好意を向けられていた。だからと言って、それを自慢することもない。そんな彼女は、女から妬まれることもなかった。
聖女だと称えられていた彼女は、一年前にこの噴水で溺死した。殺されたのだ。だからパーティーに参加している人たちは、この噴水に目を当てることができない。心美しい彼女が死んだ事実を恐れているから。
「ユリアを思い出していたのか?」
「えぇ」
私の隣に伯爵家の長男のゲイルが座った。彼もまた、噴水の水に目を下ろし、ユリアの事を思い出している。
「きっともう少しでローレルも来る。挨拶が終わりそうだった」
私とローレルとユリアは、よくこの噴水で物語を読んだ。ローレルはロマンチストで、既存の物語から新たな物語を生み出すのが得意だった。私とユリアはそれを聞いて、乙女心を躍らせていた。
ゲイルはユリアに想いを寄せていた。私とローレルはゲイルの恋愛相談を何度か受けたことがある。真剣に悩むゲイルを揶揄いつつ、私たちは彼を応援していた。
「アイリス。暗い顔をしているわ。それでは貴方の王子様が悲しむわ」
「ユリアのことを思い出しているんだもの。わかってくれるわ」
「そうね」
ユリアと私とローレルとゲイル。そしてあともう一人。私の婚約者である第一王子のジャック。私たちは彼女が生きている間の学園生活での殆どを、この5人で過ごしていた。それぞれ高い身分であった私たちは、平民の感性を持ちつつ、貴族の品を身につけたユリアとの穏やかな時間を好んでいた。
三人で噴水に腰をかけ、それぞれに過去を思い返していると、音もなくジャックが私たちの背後に立った。私はそれを彼の影で知る。
「学園も今日で卒業ね。ユリアともお別れだわ」
ローレルが涙を流しながら言った。
「また来ればいい」
ゲイルの言葉に頷いたローレルは、彼の肩に頭を預けた。ユリアの死をきっかけに、ゲイルとローレルの距離は急速に近づいた。深い傷を舐め合う関係を彼らは選んだのだ。
「彼女が死ぬなんて、誰も想像していなかった。事故だって、彼女なら神の加護で逃れられると言われていたのに、まさか殺人だなんて」
有り得ない。ゲイルは大理石の端を、力強く握りしめた。その手は、彼女を殺した犯人を殺したがっている。ゲイルは心からユリアを愛していた。
私の後ろに立っていたジャックが、憤慨するゲイルと泣き続けるローレルの肩に手を乗せた。私にはその慰めの手が届かない。
「俺が証拠を見つけ出し、犯人を裁く」
短い言葉に詰められた多くの決意。その決意に自らの意思を乗せるように、ゲイルとローレルはジャックの手を握った。三人の目には、輝く金髪を靡かせ美しく笑うユリアが見えているのだろうか。その美しい彼女の姿を通して、彼女の笑顔を奪った人間への恨みを感じているのだろうか。私には分からない。
「さぁ戻ろう。俺たちにはまだ挨拶が残っているからね」
その場の雰囲気を払拭するような明るいジャックの声に、ゲイルとローレルはゆっくりと立ち上がった。
「アイリスも行きましょう?」
ローレルの誘いに私は首を振った。
「まだここに居るわ」
そう、とローレルは頷き、ゲイルとともにバルコニーにへ戻っていく。ジャックの足は動かない。私に用があるみたいだ。
「幸せか?」
私はその問いになんの反応も返さなかった。ジャックはわずかな間を置いあと、踵を返しゲイルとローレルの後を追った。
私は果たして、幸せなのだろうか。
私が純粋に受け取ることのできない恋物語を、楽しげにローレルと話す彼女が許せなかった。
誰の反感も得ないようにと、笑顔を保ち続けた私の努力を越えて、自然体のままで多くの人間に好かれる彼女が憎かった。
私の婚約者であるジャックに甘い笑みを向けられ、それに同じ笑みを返していた彼女を許すことが出来なかった。
私の人生の、目の上のたんこぶだった彼女を殺して、私は幸せになったのだろうか。幸せになれるのだろうか。
ジャックは私が彼女を殺したと感じている。私がユリアに向ける視線を彼は感じ取っていたのだろう。なにせ、彼はずっとユリアの隣にいたのだから。
噴水の水がゆらゆら揺れる。飛んでくる細かい水滴がドレスの色を変える。ユリアの頭を水に漬けた時も、同じようにドレスの色が変わった。噴水の水は吹き上がっていなかったが、彼女のもがく手が、青白くなった小さな唇から吐き出される水泡が、たくさんの水滴を飛ばしたから。
私は幸せにはなれない。
もがき苦しむ彼女は、次第に弱り最後には死んだ。その時に私もきっと死んだのだ。彼女を憎んでいた私も、幸せを感じる私も、すべてを1年前の噴水に沈めてしまったのだろう。
腐ることない私は、今も噴水の水の底に沈んだままだ。