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西園寺が目覚める頃にはもう顔の血は引いていた。といっても五分ほどの間だが。
「おちついたか? 桜井」
「あんたこそ大丈夫?」
「お、気遣ってくれるのか? やさしいな」
「そ、そんなんじゃないけど」
殴られたわりに、西園寺は穏やかな顔だ。
「よし、そろそろ始めるか」
「何を」
「決まってるだろう。スーパーマリアだ」
「やっぱりか……」
「わかっているのなら訊くな」
「わかりたくなかったのよ! 私、あんたと一緒にゲームする気なんてさらさらないから」
「なんだと!」
西園寺の驚いたような表情。
「約束を反故にするのか!?」
「約束なんてしてないわよ!」
どこまで自己中心的な男なのだ。
「俺は四時間以上も待ち続けたのだぞ」
「勝手に待ってたあんたが悪いんでしょ。気をつけてお帰りください。どうか暴漢に襲われますように」
「そうはいかない。俺には桜井にマリアの攻略法を伝授するという使命があるのだ」
「そんな使命はゴミ箱に投げ捨てろ!」
「俺が今日ここでマリアのどこがどう革命的なのかを実際のプレイを交えつつ説明することは、今後ゲームを作っていく上で必ず有益になる。たとえ桜井がキャラクターデザインを主に担当するとしてもだ。どうしてその重要性がわからないのだ、桜井!」
「だ、か、ら!」
私は足をリズミカルにダン、ダン、ダンと踏みならす。
「私はゲームなんて作らないって、どうしてそれがわからないのよ西園寺!」
何だかもうめまいがしてきて、私はベッドに倒れ込んだ。
「頼むから、早く出ていってちょうだい。このたくさんのゲームも貸してくれなくていい。持って帰って」
「む? これは貸したわけではないぞ。既にもう桜井のものだ」
「はい?」
「全て桜井にプレゼントするということだ」
「え……」
大量のゲーム機とソフト。
これを全部、プレゼントだって?
「何言ってるの、そんな、貰えないわよ。貰う理由がない」
「理由ならある。一緒にゲームを作るのだから」
「作らないんだから理由はないでしょ」
「とにかくもう俺のものではない。持って帰ってくれと言われても困る。どうしてもと言われたら、ゴミ捨て場に全て破棄しなければならない」
頑固な野郎である。
「でもこれ、すごく高い値段なんじゃ……」
「そうでもない。ハードは大体平均して一台二万円ほどで買えた。ソフトも一本五千円ほどだから、全て合わせても五十万は越えなかったのではないかな、たしか」
「充分高額じゃない! あんた金持ちのボンボン?」
「自分のための買い物に親の金を使うわけがないだろう。全て自腹だ」
「自腹、って……」
「俺はフリーのプログラマーとして仕事をしているからな。貯蓄はある」
「仕事って、アルバイト?」
「まあ、そう言えばそうだな。だがアルバイトよりは格段に給料が良い」
「……それって、結構すごいことなんじゃないの」
同年代の人間がすでに仕事をしているなんて、私には信じがたい事実だ。
「海外では俺くらいの年齢で会社を興している人物もいる。驚くことではない」
いや驚くって。
「でも、それにしたって五十万は大金じゃ……」
「心配するな。俺の貯金は五千万円を越えている。それに比べたら微々たるものだ」
絶句。
五千万円?
それは、何万円だ?
「そこらの大人より金持ちじゃない!」
「そうか? まあ金などいくらあってもあまり意味はないがな」
その台詞、金持ちになってから言ってみたい。
「まあ、あんたが金持ってるのはわかったわよ。でもさ」
私は指さす。
赤と白の、ピカピカの、最初期型のエタコン。
「それ、最初期型なんでしょ。二十五年以上も昔のハードがまだ売ってるわけ?」
「この型はとっくの昔に生産終了している」
「じゃあ、それ、お金じゃ買えない大切なものなんじゃないの?」
「そんなことない。プレミアはついているが、手を尽くしてそれなりの金を積めば手に入らないことはない。現に俺は同じ機種をあと二台所有している」
「ああ、そうなの。なるほど……」
「まあ、そのエタコンは母親の形見だがな」
「プライスレス!」
……って、え?
形見?
形見と言ったか?
「信じらんない!」
「何が?」
「そんな大切なものを気軽に人にあげるなんて、正気じゃないわ!」
それも、昨日初めてまともに会話したような人物に。
「あんた本当に馬鹿じゃないの!? この親不孝者!」
「……仕方のないことだ。俺だって断腸の思いだ」
西園寺は口元を少し震わせた。
「俺が三歳の時、母は死んだ。赤信号を無視したトラックに跳ねられるという、どこにでも転がっているような事故でな。即死だった。大人たちは幼い俺に亡骸も見せてはくれなかった。
そんな母との一番の思い出が、一緒にゲームを遊んだことだ。母はレトロなゲームが好きでな。共に遊んだマリアやトラクエやトトリス……それは強く強く印象に残っている。俺とゲームを遊ぶとき、母は本当に楽しそうに笑っていた。全て、そのエタコンでプレイしたゲームだ」
「……そんな大事なものなら、なおさら大切に保管しておかないと」
「俺は、それほどに重要なものを差し出さないと吊り合わないと思ったのだ。これから一緒にゲームを作る仲間に対して」
西園寺は私の目を見つめた。
「俺は桜井に心からの誠意を見せなければいけない。見せるべきだ。そうしないと同じ目的を共有する真の仲間になれるわけがない。その方法を、これしか思いつかなかった」
「……」
つまり、西園寺は、私に共にテレビゲームを作る仲間になってもらうために、ただそれだけのために、大切な母親との思い出を差し出したのだ。
私は何も言えなくて、エタコンに目を落とす。
「本当はこんなこと、話すべきではないのだがな。すまない。要するに俺の自己満足だ。気にするな、忘れろ」
忘れられるわけがない。
「では帰るかな」
西園寺はおもむろに立ち上がった。
「え?」
「今日のところはこれでさようならだ」
「でも、あんた、さっきまであんなに強引に……」
「俺だって引き際くらいわきまえている」
西園寺は小さな肩掛けバッグを左手に持ち、そして扉に手をかける。
「ま、待ちなさい!」
私は叫んだ。
思わず叫んでいた。
西園寺は振り返る。
無言で。
私を見つめている。