化学反応
「それどっちかっていうとドブスの女子だろ!」
その一言がキッカケだ。すでに前後の文脈はすでに忘れてしまった。ただ、僕が何気なく発したその一言と周りの友達の爆笑。それだけははっきりと覚えている。
化学反応だ……そう思った。勉強なんてからっきしで化学反応ってものが何なのかもまるで理解していなかった馬鹿な中学生のくせに、それでも化学反応という言葉がぴったりと当てはまるように思えた。
田村の発した発言、それだけでは笑いにはならなかった。その発言に、良いタイミングで僕の発言、いわゆるツッコミが重なることで、それは笑いという反応を生んだ。それがあまりに快感で、あまりに楽しくて僕は一瞬で虜になった。笑いの、ツッコミの虜になったんだ。
「そうか、それで勘違いしちゃったんだなぁ」
勘違いと言われて一瞬むっとなったが、怒れるほど的外れな発言ではなかったので、冷静に言い返す。
「勘違いってなんだよ」
「勘違いだろ。その一言で自分にはお笑いの才能がある。ツッコミの才能があるって思ったんなら、はっきりと勘違いだと言い切れるね。それに付き合わされた田村は悲惨だ。もはや悲劇だね。これを小説にして芥川賞にでも投稿しろよ。今よりよっぽどいい暮らしできるんじゃねーの」
四畳半のボロアパートでジュースよりも安い薄い薄いビールをあおりながらそう絡んでくる木下に真っ向から言い返せないのがつらかった。お笑い学校を出て三年、まるで芽が出ず鳴かず飛ばず。劇場に上がるよりもアルバイトで汗を流す時間のほうが圧倒的に多い。自分が芸人だと言い張ってるから、芸人だと周りから認知される程度の地位にぼくはいた。前にいる木下も似たようなものだ。ただ、お前も似たようなもんだというセリフだけは口に出したくなかった。それを口にする恐怖、才能の無さを認める事の恐怖に僕は怯えていた。
「うるせーうるせー小説家になって観客笑わせられんのかよ!これからだよこれから。男の花道見せてやるよ」
まるで自分に言い聞かせるように精一杯の虚勢を張る。油断すれば口をついて出てきそうな弱音や不安を薄いビールをあおって胃の中へと押し戻す。
「まぁせいぜい頑張ってくれや。俺はもう無理だわ」
何故かぼんやりと天井を見つめながら木下は力なくつぶやいた。
「あ?」
「地元に戻って仕事する」
それがどういう意味の発言かは理解できた。この一言を口にするまで、この決断を下すまで、どれほどの葛藤があったのかも理解できる。けれど、それでも……
「逃げんのかよ……」
返事はない
「諦めんのかよ」
木下はまるでそこに何かがあるかのように天井を見つめたままだった。
「ふざけんな……」
しばらくの沈黙の後、木下はやはり上を向いたままで口を開いた。
「俺らの、24期の中ですら、俺はトップになれなかった」
僕は木下の言葉を待った。間をおいて木下は続ける。
「おれは、勘違いする事すらできなかった。相方勧められるがままになんとなくお笑い学校に入って、なんとなく頑張って、なんとなく努力して、今までやってきたけど、自分が面白いなんて思ったことは一度もなかった。お前のことも、お前らコンビの事も一度も面白いなんて思ったことねーけど、でも、お前らは24期の中で一番評価されてたし、勘違いする事ができてた」
「え、お前ケンカ売ってんの?褒めてんの?どっち?」
思わず口をはさんでしまった。
「どっちでもねーよ。要するに、お前は無理にでも勘違いしたまま行けってことだ。強いて言うなら何も言わねーでついてくる田村を信じてやれ」
「意味わかんねー」
「男の花、テレビで見せてくれ。応援はしねーけど」
「そこはしろよ。ていうか、男の花ってなんだよ……もううるせーぜってー売れる!死んでも売れる!」
僕が叫ぶと木下はがははと笑って安いビールのプルトップを開けた。プシュっという気持ちいい音が響いて、隣人が壁を叩いて僕達の笑い声にクレームを入れてくる。がはは、プシュ、ドンッ
狙いすましたかのように音が重なりあう。まるで化学反応のようだった。僕と木下は一瞬目があってから、声を上げてがははと笑った。正直、何が面白いのかよくわからない。
けれど、
部屋は爆笑に包まれた。