未亡人の靴のサイズ
2004年に三田文学新人賞を落選したものを加筆訂正しました。
「じゃあその子は、駆け落ちしたって訳?」
と妹の芳子が、身を乗り出すようにして尋ねた。その瞳にかすかな好奇心が輝いているのを里沙子は少し冷ややかな顔で認めた。女っていうのはどうしてこうも、下世話な噂話が好きなんだろう。それも中年女は特に、と里沙子は自分も同じ中年女であることを棚に上げて少々意地悪な目つきで妹を眺めた。
先月四十五歳になった芳子は、どこから見ても非の打ち所の無い立派なおばさんだ。ややパーマのかかりすぎた縮れた髪。小太りな体を包む、およそファッショナブルとは呼びがたい花柄のシャツと、ウエストがゴムでできた小豆色のスカート。こうして台所の椅子に腰掛けている姿が実によく似合う。
しかしこの家の台所に実際に芳子が立つのは、今日のように、彼女が里沙子宅を訪れた時だけに限られた。今夜はおそらく久しぶりに、姉妹がそろって夕餉の支度を調える姿が見られるだろう。里沙子は妹よりも頭一つ分背が高い上に目方は妹よりもぐっと軽く、服装もごくごくシックな物を好んだから、二人が台所で立ち働く姿は、はたから見れば他人同士のように見えるかも知れないが。
けれど二人が夕餉の準備を始めるのは、少なくとも三~四時間後のことになるはずだ。つい先ほどこの家で三ヶ月振りに再会した姉妹には、互いの近況報告が山ほどあった。しかも今回は、里沙子の周辺に駆け落ち事件が持ち上がったという。
芳子はドングリのように丸い目をくりっとさせて、やや前のめりに座り直した。芳子とテーブルを挟んで対面に腰掛けている里沙子は、妹よりも端整な顔を少し曇らせながら
「そうなのよ。まさか自分とこの下宿の子がそんなことするなんてね」
と溜め息を吐いた。
里沙子は六年前に夫に先立たれた後、自宅の二階を、学生相手の下宿として開放していた。十七年の結婚生活の中で夫婦の間に子供は無かった。舅夫妻もすでにこの世に無く、一軒家に一人残された里沙子にとって、寂しさを埋めるためのせめてもの手段だった。近所の短大に斡旋を依頼した里沙子は、下宿の家賃収入の他にもう一軒、夫が残した小さなアパートの部屋代で、夫の死後の生活資金を賄っていた。
「どんな子なの?」
と芳子がポットの湯を急須に注ぎながら尋ねた。ふくよかな体格に似合わず、芳子はこまごまと働く女だ。急須の茶も自分の湯のみより先に姉の方へサッと注いだ。
この二つしか歳の違わない妹の気の利いた行動を、里沙子は長年の、姉という立場への甘えからたいして気にも留めず
「ちょっとおとなしいけどでも普通の子よ。いくら安いとはいっても、今時こんな不自由な間借り生活送るような子は、たいてい質素で真面目な親に育てられてるし」
と答えた。自嘲とも傲慢ともとれる物言いだ。
「真面目な子だからこそ、思い詰めちゃったのかしらね」
「それもあるけど、何より妊娠が引き金になったみたいね。親御さんに中絶勧められた途端、姿消しちゃった訳だから」
「そうかあ。じゃあやっぱ男んとこに逃げ込んだのかあ」
芳子は少し嬉しそうな顔をした。若い頃は美人と言えなくもない顔立ちだったが、姉に比べると芳子の容姿は少々劣った。その上重ねた年月によって得た脂肪により、更に容色を割り引かれた芳子は、とうに恋愛ドラマのヒロインになる可能性を、失ったことを認めていたが、その反動から、恋愛ドラマの視聴者になることには並々ならぬ関心を抱いているのだった。
妹の低俗な野次馬根性に、里沙子はげんなりした気分になったが、かといって話を打ち切りもせず
「でも実際のとこは分かんないのよ。行方は分かんなくなっちゃったんだし。もちろん彼女……、蘭ちゃんはカレんとこに行っただろうけど、カレが蘭ちゃんを果たして受け入れたかどうか分かんないし」
と言って整った眉を寄せた。
「んーでもカレに捨てられたら、親んとこに戻るでしょ」
「でも親に堕ろすよう言われて、行方をくらましたってことは、蘭ちゃんはどうしても生みたいって思ってるってことよ。そしたら中絶を勧める両親の元には、戻らないんじゃない? それに……」
里沙子が不意に言葉を切ったので、芳子が「何?」と真剣な面持ちで姉を促すと、里沙子は
「これは憶測なんだけど、あの家、親子関係が上手くいってない気がするのよ」
と言って黒々を長いまつ毛を伏せた。
「どうして?」
「先々週蘭ちゃんの荷物を引き取りにみえて、その時少しお話したんだけど、妊娠した娘の行方を案じてるっていうよりは、勝手なことをした娘に、腹を立ててるって感じだったのよね」
「それはお姉さんに対する申し訳なさとか、恥ずかしさもあって、そうゆうポーズ取ったんじゃないの? 実際下宿のおかみさんに心配かけちゃったんだから、娘に対して怒ってみせないと格好つかなかったんじゃない?」
芳子は狸のような愛嬌のある顔で分析した。この根っからの末っ子気質の妹には、姉以上に両親に甘やかされて育った生い立ちゆえに、これだけ幼児虐待の報道がなされている現代に於いても尚、親の愛というものをつい万民に当てはめて考えてしまう、愚かで罪深い大衆としての顔があった。
「でもわたし文句言われたわよ。『下宿に預けたから安全だと思ってたのに』って。『あんたは子供を持ったことが無いから、認識が甘すぎる』って」
「認識が甘いって、どういうこと?」
「蘭ちゃん、『ゼミの研修旅行に行って、そのまま里帰りします』って言って出てったのよ。ちょうど夏休みが始まる頃だったからわたしも気にも留めなくて……。そしたら一週間後に親御さんから、『娘が帰って来ない』って連絡あるじゃない。最初は実家に帰る途中で事故にでも遭ったのかと思ったんだけど、どうやらゼミの研修旅行も、嘘だったみたいなの。おそらく発覚を恐れて時間稼ぎしたんだと思うんだけど」
蘭の出奔の経緯を里沙子が暗い顔で説明すると、芳子は
「ちょっと待ってよ。認識が甘いのは親の方じゃない。娘が妊娠したのは知ってたんでしょ。それなのに一週間も娘をほっといたってこと?」
と、ただでさえ丸い目を更に丸くした。親の愛というものに無条件の信頼を寄せるこの太平楽な妹も、ようやく蘭の両親の愛情に戸惑いを覚え始めた。
「もしかしたら一週間以上かも。蘭ちゃんがいつ、親御さんに妊娠を告白したのかは分かんないし……」
「……子供への愛情が欠落してるのかも知れないわね。中絶を勧めたのも、子供への愛情というよりは、自分たちの世間体のためだったのかも知れないってことか」
「こういう場合、生ませるのが愛情なのか堕ろさせるのが愛情なのか、わたしには子供がいないから分かんないんだけど、ただ蘭ちゃんの両親の場合は……、愛情だったようには思えないのよね……」
生まれつき、悲劇のヒロインになることを運命づけられてでもいるかのような、少々古臭い型の美人である里沙子は、他人の不幸にその美しい顔を曇らせた。その顔は実に悲劇的で、一体事件の主役は誰だったのかと周囲の人間を混乱させかねないほどに、その顔は悲しみに覆われ始めた。
姉のその悲劇的な表情に思わず釣り込まれた芳子は
「その蘭ちゃんて子は、生みたい気持ちももちろんだけど、何よりそんな親から逃れたくて恋人の元に走ったのかも知れないわね。可哀想に」
と先ほどまでの低俗な主婦感覚とは打って変わって、コメンテーターのような発言をした。もっともそれはありふれた意見だったが。
「そんな蘭ちゃんだからこそ、もしそのカレと上手くいかなかったら、どうするんだろうって思うのよねえ」
「相手は……、どんな人?」
「さあ? 二十一歳のサラリーマンってことしか知らないわ」
その時、自分の息子も二十一歳のサラリーマンであることを思い出した芳子は、二十一歳のサラリーマンは、果たして駆け落ち相手として安心に足るかどうかという以前に、その符合にぎょっとして
「あらやだ。礼司と同じじゃない」
と、すっとんきょうな声をあげた。
「礼ちゃんのはず無いじゃないの。毎日うちに帰って来てるでしょう」
「やあね。分かってるわよ。ただ……、何ていうの? 難しいのよ。男の子って。年頃になると親になーんにも話さなくなっちゃうし。最近じゃあ週末になると、友達のうちを泊まり歩いて、家になんかいた試しが無いんだから」
「男の子って、そういうものなのかしらね」
不平を鳴らす妹をあしらいながら、里沙子の心境は複雑だった。
子供を持てば、持ったなりの悩みがあるということ。けれどそれは持てる者の悩みなのだと彼女は少し芳子を羨んだが、芳子はそれに気付かずに
「それに来月転勤で、県外に行くことが決まったのよ。まあうちにいても、『メシ』『風呂』『寝る』しか言わないような子だから、いてもいなくても、同じようなものなんだけどね」
と愚痴を続けた。
「今日も礼ちゃんは、出かけてるの?」
「今日は土曜日なのに珍しくうちにいるわ。もっとも明日からは、また出かけるんでしょうけど。やっと夏休みが取れたのよ。あの子。まあ九月になってからなんて正確には夏休みとは言えないけど」
「じゃあ今から呼びなさいよ。県外に行っちゃったら滅多に会えなくなるもの。その前に会っておきたいわ」
先ほど感じた一抹の寂しさを、久しぶりに甥の姿を眺めることで、埋めようと考えた里沙子はそう提案した。礼司は芳子にとっては可愛い一人息子だが、里沙子にとっても可愛い甥っ子に違いなかった。
「それもそうね。今日一緒に来ればよかったけどでも今ならまだ明るい内に着けるわね」
芳子はバッグからケイタイを取り出し、礼司にコールし始めた。それを眺めながら里沙子は、下宿生たちが帰省中で本当によかったと考えた。もっとも学生たちが寄宿している時であろうと、里沙子が親戚を家に泊めるのは自由なのだが、うら若い女子学生たちにいらぬ気を遣わせることを彼女は好まなかった。
普段なら寂しく感じる短大の長い夏休みを、里沙子は今日はありがたく思った。今夜は久し振りに賑やかで楽しい夜になるだろうと、彼女は期待しつつ、通話する妹の姿を眺め微笑んだ。
礼司は黙って料理を咀嚼している。「美味い」とも「不味い」とも口にしない。とはいえ彼の好物の、ハンバーグとポテトサラダを用意したのだから、大丈夫だろうと考えながら里沙子は
「さっきは、蛍光灯取り替えてもらって助かったわ」
と声をかけた。
礼司は「うん」と短く答えると少し考えた後
「他になにかやること無い? あったらやっとくけど」
とボソリと言った。
「いいの?」
「……もう、ここにはあんまり来れなくなるし」
「あら今日は随分気が利くじゃないの。だったらうちの蛍光灯も付け替えてよ」
すかさず芳子が横から口を出すと、彼は
「そんなの、オヤジに頼めよ」
と白米をかきこんだ。
こうして二人が並んでいる所を眺めると、礼司と芳子は、やはり親子なのだと里沙子は思う。丸く立体感のある目といい少し肉厚な唇といい、甥の顔のパーツは母親にそっくりだ。男の子は外見が女親に似ることが多いと聞くがなるほど、確かにこの子は体型以外は妹によく似ている。
そんなことに感心しながら里沙子は
「分かった。礼ちゃん。お小遣い目当てでしょ」
とからかうように尋ねた。礼司はへへっと照れたように微笑んだ。
「駄目よ。お姉さん。礼司はもう働いてるんだからお小遣いなんかいらないわ」
「いいのよ。来月から一人暮らしなら何かと物入りでしょ。その代わり色々やってもらうから。ええと工具箱はどこだったかしら」
椅子から立ち上がりながら里沙子は、甥を優しい子だと思った。確かに口数はあまり多い方ではないがそれは母親と伯母から見た姿だ。家の中ではおとなしい子が、案外友達の前では賑やかにしゃべっていたりするものだ。まあそうはいっても、息子が必要最低限のことしか話そうとしなければ、母としては物足りなさを覚えるのだろうが。
そんなことを考えつつ里沙子は、台所を出て廊下を渡り納戸へと向かったが、まだ食事の終わっていない礼司を急かすこともあるまいと思い直した。そこで里沙子は、先に礼司の布団を出しておこうと、和室のふすまに手をかけた。
部屋に入ると何かが里沙子の足にぶつかりドサリと音を立てた。照明を点すと、ここへ来た際に甥が持って来たスポーツバッグが横に倒れ、その周辺に、ブラシやら財布やらといった小物が散乱しているのが見てとれる。どうやら部屋に入る時に、足を引っ掛けてしまったらしい。
全く男の子っていうものねと思いながら里沙子はバックを起こした。部屋の入口に、ファスナーを明けたままのバッグを置いておくなんて、いかにも男の子のやりそうなことに思われた。
世話の焼ける息子を持った母親のような気分で、里沙子は散らばった小物類を、バックに戻し始めたが、定期入れに手を伸ばした瞬間ぴたりと手が止まった。……これは一体。里沙子は震える手で定期入れを掴むと、まじまじとそれを凝視した。カードケースに入れられた一枚の写真。そこに写っていたのは紛れもなく失踪した蘭の顔だった。これは一体どういうことなんだろう。里沙子は食い入るようにその写真を見詰めた。
蘭のはずは無い。よく似た子だ。願望と理性の入り混じった瞳で里沙子はじっとその写真に目を凝らした。少しえらの張った輪郭。白目の勝った理知的なしかし見ようによっては冷ややかにも取れる硬い眼差し。微笑んでいても、どこか相手に気を許していないような、張り詰めた笑顔。
これは蘭だ。ここに写っているのは蘭その人だ。そう里沙子が確信した時背後からドタバタと足音が聞こえた。里沙子は慌てて定期入れをバックにしまい込んだ。
「お姉さん、いるの?」
芳子の呼びかけに、里沙子は「ここよ」と答えながら廊下に出ると、とっさに普段の表情を作った。自分の狼狽を妹に悟られてはならなかった。
けれど芳子の
「礼司が、『帰る』って言ってるんだけど」
という一言に里沙子の美しい顔は再び歪んだ。妹のセリフに対する戸惑いと、先ほどの驚きの余韻。表情を取り繕う必要が無くなったことに対する軽い安堵。そんな諸々の感情の中「どうして?」と里沙子は尋ねた。
「友達が事故に遭ったんだって。今、礼司のケイタイに連絡があって……」
「おばさん、ごめん。悪いけど帰るから」
母親の言葉を遮るようにして、礼司は口早にそう言いながら芳子の背後から現れると、スポーツバックをつかんで、玄関へ足早に向かった。
「あ、それチャックが……」
里沙子が言いかけると、芳子がすぐにその言葉に被せるようにして
「礼司、バックのジッパー開いてるって。忘れ物無いの? 落ち着いてゆっくり行きなさいよ。状況分かったら電話しなさい」
と怒鳴るように言いながら息子の後を追った。
里沙子は妹の「忘れ物無いの?」という言葉を受けて、慌てて室内に目を走らせた。もう落ちている物は無い。そこで里沙子は台所に取って返しテーブルの上を眺めた。汚れた箸や食器が雑然と並ぶ食卓には、甥の持ち物らしき物は見当たらない。里沙子は台所を出て玄関に向かいながら、そういえばさっき台所の方から、ケイタイの着信音と電話に応対しているらしい礼司の声を、聞いた気がすると漠然と思った。
遠くの物音を耳に感じつつも、その認識が遅れてしまうほど、自分が衝撃を受けたことを里沙子が改めて感じた時、バタンとドアの閉まる音が響いて、礼司の足音が速やかに消えていった。入れ違いで玄関に現れた里沙子を芳子が振り返り、里沙子はゴクリと生唾を飲み込んだ。
「……友達って言ってたけど、女の子なんじゃないかしら」
不意に妹がつぶやいた言葉にドキリとして、里沙子が「え?」と聞き返すと、芳子は黙って台所へと向かって行った。里沙子は後を追いながら
「礼ちゃん、恋人がいるの?」
と妹に尋ねた。
芳子は食卓の食器を盆に載せながら
「分かんない。あの子そういうこと言わないし……。聞いても、いるんだかいないんだかよく分かんない返事なのよね……」
と、淡々と語った。
「年頃なんだし、ガールフレンドがいたっていいじゃないの」
内心の動揺を押し隠し里沙子が言うと、芳子は
「そりゃあガールフレンドだろうがカノジョだろうが構わないわよ。ただ……、親としては気になるじゃない? さっきの蘭ちゃんて子の話じゃないけど、年頃の男女が付き合えば色々……、妊娠とか……、あるじゃない?」
と思い詰めた顔をした。
妊娠……。蘭のお腹の子の父親は礼司なんだろうか。蘭の駆け落ち相手とは礼司だったんだろうか。里沙子はその疑問を振り払うかのように
「でも礼ちゃんは真面目だし、いい子だし」
と笑って言った。
「金曜の朝から月曜の夜まで家を空ける子が、いい子かしら」
芳子が運んで来た食器を洗おうと、ゴム手袋に手を伸ばしかけていた里沙子は、妹の言葉に一驚してそちらに向き直った。
「週末出歩いてるって……。え? 週末は全くうちに帰って来ないってことなの?」
「どう考えても男友達じゃないわよ。そんな毎週毎週、判押したような生活してるなんて。それでいてカノジョがいること隠すなんて、心配にもなるわ」
「……照れてるんじゃないの? やっぱ男の子だもん。女親には言い辛いのよ」
定期入れの写真。週末の不審な行動。礼司にとって不利な物的証拠と状況証拠を眺めつつも、里沙子はその疑惑を必死で心の隅に追いやり心にも無い返事をした。不確かな憶測で妹の心をいたずらに惑わせたくなかった。
「でもあの子、男親に対してはもっと無口よ」
「栄一さんも、おとなしい人だから……」
「男の人って無口な人が多いのよねえ。やんなるわ。全く」
芳子が吐き捨てるように言うと、里沙子は
「変に口が軽過ぎる人よりは、いいじゃないの」
と取り成すような返事をした。
実は里沙子も寡黙な男は苦手だったが、だからといって彼女は、人の悪口の尻馬に乗るような真似は好まなかった。妹が栄一との離婚を考えるほど、追い込まれているならまだしも、結婚生活を続ける前提での不満を漏らしている以上、短所というものは見方を変えれば長所にも転じ得るということを、自分は第三者として芳子に伝えるべきだと、この姉は考えた。
すると芳子は、何食わぬ顔で食器を洗い始めた里沙子をじっと眺めながら
「何かさあ息子を持つのって、言い方悪いけど、オス猫を飼ってるみたいな気分になるのよ」
と妙に冷静な口調で言った。
「何よ。それ」
「一方的な意思表示しかしてこない。マイペースでこっちの気持ちにお構い無し。フラッと出てったっきり何日も戻らない。どうかすれば一生戻って来ない。別宅を持ってるケースもある。そして避妊手術の必要無し」
「ふうん。一理あるわね」
何やら言いえて妙な発言をする妹に里沙子がそう返事をすると、芳子は
「その点メス猫飼うのって大変じゃない? 避妊手術受けさせなきゃいけなくてさ。費用もそうだけど、手術すると猫は長生きできないのよねえ。でもだからといって商売じゃあるまいし、じゃんじゃん子猫を生ませる訳にもいかないじゃない?」
と言いながら、ソースとケチャップを冷蔵庫にしまい込んだ。
「まあね。捨てて野良猫にする訳にもいかないしね」
「そういうややこしさを、メス猫の飼い主にだけ押し付けて、のほほんとしててもいいのかなあと思う訳よ」
「そうねえ。責任は半々であるはずよねえ」
そう答えながら里沙子はふと、「人は皆、自分の靴のサイズで物事を計る」というドイツのことわざを思い出した。芳子は末っ子でありまたその愛嬌のある性格から、両親の寵愛を欲しいままにしていた。そして彼女は、自分の息子に対しても多くの愛情を注いでいる。そんな芳子は親の愛を受けない人間に対しての理解は遅いものの、男の子の母親としての責任には、深い考えを持っているのだなと里沙子は判断した。
すると芳子は
「いや男の方が責任は重いわよ。女は自分のおなかに身ごもるけど、男はばっくれることが可能でしょ。責任を回避できる立場にいる方が、事が起こる前に問題を未然に防ぐための気遣いを持つべきじゃない?」
と殊勝な意見を述べた。
これがもし、娘を持つ母親の意見だったなら、それは他力本願な思想だと言わざるを得ないが、彼女は男の子の母親だったため、里沙子はその発言に感心し
「それもそうね。実際に性行為のイニシアチブを取るのも男が大半だしね」
と賛同した。
しかし里沙子が感心したのも束の間、芳子は
「たださあ……、母親としては息子に避妊を教えるのって抵抗があるのよねえ」
とすぐさま頼りない返答をした。
里沙子はいささか拍子抜けしたが、同じ女として妹のためらいは理解できたので
「確かにねえ。そういうのは父親に任せたいっていうのはあるわよねえ」
と同調のセリフを口にした。
「だからうちの人に言ったのよ。もう大分前……、礼司が小学生の時だけどね。『礼司が年頃になったら、避妊するよう言って欲しい』って。そしたら『年頃っていつ頃?』って聞かれてわたし困っちゃってさあ」
「確かに、初体験の年齢は人それぞれだしねえ」
「早い子は中学生とかでしょ。でもだからといって、中学生の息子に『避妊しなさい』とはこっちも言いにくい訳よ。だって避妊を勧めることイコール、セックスを是認することになっちゃうでしょ」
そう言って姉から目を逸らし、盆をゴシゴシを拭き始めた妹を眺め里沙子は、子供を持つということは、随分と生々しい苦労を持つものだと考えた。
そもそも子供が誕生するに当たっては、男女間の生々しい事実が不可欠なのだから、生々しい気苦労を親にかけることは理にかなったことなのだろうが、そうはいっても、幼い頃は天使のようだった我が子が、生臭い悩みの種に成り果てる事実は、それこそ大いなる親の愛無くしては受け止められないだろう。
そんなことを思いつつ里沙子は
「そうよねえ。避妊の話を持ちかけることで、かえって性の目覚めを触発しちゃう可能性もあるわよねえ」
と深刻な顔つきをした。
「やっぱ親としては、寝た子を起こすような真似はしたくないって部分があるのよね。でもそうやって逡巡してる間に、礼司は成人しちゃったんだけど」
そう言って溜め息を吐く芳子の息も、何やら生臭いものを含んでいそうで、里沙子は薄ら寒い思いを抱いた。
姉妹というこの血のつながり。自分と血生臭い関係を持った妹の抱く、息子という名の血生臭い存在に起因する生々しい暗黒。その暗黒の秘密の切れ端を、彼女はつい先ほど握ってしまったかも知れないのだ。
ああ自分はなぜ血縁を、血生臭いなどと感じるのかと里沙子は思った。血の縁というものは、通常ならば愛の結晶を思い起こさせるものではないだろうか。それにも関わらずそこに生臭さを覚えてしまうのは、甥がその件をひた隠しにしているせいだろうか。自分はその隠匿の行為に淫靡な臭いを嗅ぎ取っているのだろうか。それともこの感情は、子を成したことのない石女の、冷たく固い石のような拒否の情なのだろうか。
夕飯の片付けをすませると、里沙子は芳子に先に風呂を使わせ、自分は台所の椅子に腰掛けて頬杖をついた。脳裏に先ほど目撃した蘭の写真がチラつく。写真の彼女は今時とんと見かけなくなったクラシックなセーラー服を身に着けていた。あれはどれくらい前に撮影されたものなのだろうと里沙子は思った。
甥が蘭の写真を持っていたからといって、彼が子供の父親だとは限らない。昔の恋人かも知れないし礼司の一方的な片想いの可能性もある。いずれにしろ甥がなぜ蘭の存在を知り得たのかが里沙子には不可解だった。
礼司の住む町と里沙子の下宿とでは、電車で一時間の距離がある。知り合い同士ならばさして苦にもならない距離だが、学生と社会人という、生活の全く異なる者同士が出会う距離としては、有り得ない話ではないものの少々考え辛いと里沙子は思った。よしんば蘭の入学前に知り合ったとしても、蘭の実家は下宿から電車で三時間の距離がある。二人が蘭の入学前に知り合った可能性は、更に薄い。
そして先ほど礼司が受けたという事故の電話。蘭の駆け落ち相手が、仮に礼司だったとして、では事故に遭った友人は蘭のことかというとこれも定かではない。もし蘭だったとしたら容態はどうなのだろう。おなかの子は無事なんだろうか。
あれこれ考えた挙句、里沙子は、直接礼司に尋ねてみるより他は無いという結論に達した。しかし母親が閉口するほど口の堅い男の口を、たたの伯母に過ぎない自分が割らせることができるのかと、彼女は憂鬱になった。
窓の外からは、鈴虫やこおろぎや松虫といった秋の虫たちの大合唱が聞こえてくる。九月の初旬は、昼間は盛夏と見まごうほどの陽射しが照りつけるというのに、宵を迎える頃には、虫たちのハーモニーがひんやりとした風に乗ってあちこちに届き、季節が移ろい始めたことを人間に悟らせる。
虫たちの奏でる涼やかな音色に耳を傾けながら、里沙子はふと、虫の鳴き声はオスがメスを求める求愛行動だという話を思い出した。オスは、己の求愛に応えるメスを確保するとぴたりと鳴くのをやめ、草むらで情事にふけり始める。女を求める時にしか男が饒舌にならないのは、人間も虫も変わらないのだと里沙子はひどく醒めた心境になって、さかりのついた虫たちの鳴き声に、苦々しさを覚えた。
里沙子が蘭の死を知ったのは、翌日の夜中だった。早朝に栄一から急に呼び戻された妹を見送った時から里沙子の胸にはどす黒い予感が渦巻いていた。そしてその予感は、芳子からの電話で現実になった。
「事故じゃなかったのよ。妊娠高血圧症だったの……。今夜お通夜があって明日お葬式ですって……」
ケイタイの向こうで涙声でつぶやく妹に、里沙子は
「わたしも、行こうか」
と尋ねたが、芳子は
「いいの。あちらには礼司がお姉さんの甥だってことは言ってないの。そんなこと知っても、あちらが嫌な思いするだけでしょう? それにわたしたちも、『参列は遠慮して欲しい』って言われてるの。それでも一応行くだけは行こうと思ってるんだけど……」
と嗚咽を抑えた声で答えた。
「まさか、礼ちゃんだったとはね……」
「礼司転勤するでしょう? 転勤先にアパート借りて、彼女だけ先に住まわせてたらしいわ。それで週末ごとにそこを訪ねてたみたい」
双方が家を捨てずとも駆け落ちが可能だった事実に、里沙子が感心して、「なるほどねえ」とつぶやくと芳子は
「知り合ったのは去年の夏らしいわ。彼女が短大の入試説明会に一人で来た時に、たまたま礼司がその近くに仕事の用で行って、道を聞かれたのをきっかけに、仲良くなったんだって」
と二人の出会いの経緯を説明した。
「おとなしい二人が、そんな些細なきっかけでよくもまあ深い仲になったわね」
「わたしもびっくりよ。でも礼司はそれ以上は何も話さないし、うちの人もずっと押し黙ってるし、もう誰一人口きかなくて頭がおかしくなりそう」
「今はしょうがないわよ。それだけショックなことがあったんだもん。混乱してるのよ。その内少しずつ聞けばいいじゃない」
里沙子がゆっくりと諭すように言うと、芳子はしばらく押し黙った後
「そうね……。わたしもちょっと焦り過ぎたかも知れない。うちに帰って落ち着いたら……、そう今彼女の実家の近くのホテルに泊まっててそこのロビーからかけてるのよ。だからそろそろ切るけど、また帰ったら電話するわ」
と悲嘆の中にもわずかな落ち着きを取り戻した声で答えた。
「分かった。無理かも知れないけどなるべく気を落とさないようにね」
「うん。ありがとう。夜中にごめんね」
ケイタイを切ると里沙子は顔を上げ、壁掛け時計を眺めた。時計の針は十二時を回っていたがそのまま寝床に入る気にならず、里沙子は部屋を出た。部屋を出て廊下を抜け階段を上る。
上りきって一番手前が蘭の住んでいた部屋だ。ふすまを開け、照明のスイッチをパチンと押す。パッと蛍光灯に照らされた室内は、たった六畳の和室だというのに、荷物が無いせいかやけにガランとして見える。畳のあちこちに見える家具の跡が、無機質な灯りに照らされる様が侘しい。この部屋の唯一の装飾品である空色のカーテンの鮮やかさが、変に場違いで物悲しい。
この部屋に三ヶ月前までは蘭が住んでいたのだと、里沙子はしんみりと考えた。この部屋に自分の甥が恋した娘が住んでいた。この部屋に甥の子供を孕んだ娘が住んでいた。けれどここに蘭が暮らしていた時は、里沙子はそんなことには露ほども気付かずにいた。そして里沙子が事実を知った今、蘭と子供は最早この世のものではなくなっている。人生とは何と皮肉なのかと里沙子は思った。
里沙子は蘭の存命中、甥の子を宿した彼女に何一つしてやることができなかった。一つ屋根の下に暮らしながら、里沙子と蘭は、下宿の女主人と下宿人という極めて淡白な関係しか結んでいなかった。いや蘭は他の学生たちと比べても、どこか里沙子に対し一線を引くような素振りを見せていたから、里沙子はむしろ蘭に対し、少々苦手意識を持っていたくらいだ。
他の学生たちとは時折交わされる、世間話や学校でのあれこれなども、里沙子はついぞ蘭の口からろくに聞かないまま永遠の別れを迎えてしまった。それを残念に思った時、ふと蘭は知っていたんじゃないだろうかと、里沙子は思った。蘭は自分が礼司の伯母であることを知っていたんじゃないだろうか。
これは充分考えられることだ。恋人に自分の住まいについて話すのは、ごく自然なことだし、その時礼司の口から彼と里沙子の血縁関係を聞いた可能性は充分にある。だからこそ蘭は、ここを出て行ったんじゃないだろうか。礼司の子供を身ごもってしまった自分の立場がいたたまれなかったんじゃないだろうか。
蘭が出産を希望したのも子供可愛さだけではなく、恋人の子供を堕ろした後、恋人の伯母が営む下宿に、のうのうと住み続けることができなかったからじゃないだろうか。そう思った時、里沙子は思わずその場にへたり込んだ。これでは何もしなかった以上ではないかと里沙子は思った。
もし自分が礼司の伯母ではなかったら、蘭はもしかしたら、中絶を決意したかも知れなかったのだ。そうすれば少なくとも蘭の命だけは助かったのだ。けれどでは蘭は中絶をするべきだったのかと問うてみても、里沙子には分からなかった。
蘭は出産を選択したため自らの命を落とした。しかしそれは結果論だ。出産か中絶かを選択する際、その時点で母体が健康であったなら、誰が選択基準に母体の命を考慮に入れるだろう。論じられるのは胎児の命だけだ。だがその胎児の命を優先して選択したために胎児もろとも母体が消え去ってしまうなんて、人生とは命とは何と皮肉なものだろう。
窓の外から鈴虫の声がリーンリーンと弱々しく聞こえてきた。こんな時刻になっても相手にあぶれ、それでも執拗にメスを求める鈴虫の声は痛々しく切ない。なぜそうまでしてお前はメスを求めるのかと、里沙子は心の中でつぶやいた。なぜそうまでして交尾をしたがる? なぜそうまでして種を残したい?
リーンリーン。鈴虫は里沙子の問いに答えない。ただひたすらにメスを求めいたずらに声を張り上げる。
地方都市の二つ隣の小さな駅に里沙子は一人降り立った。ホームは二つだけの、降りる人もまばらな駅だ。改札を抜け駅の出口に立つと里沙子は、ここが礼司と蘭が二人で……、数ヵ月後には三人で暮らそうとしていた町なのだと、感慨深げに辺りを見回し、日傘を差した。
駅前のロータリー付近には、タクシー会社と小さなパン屋が店を構えているだけで、通りかかる人の数も少ない。ロータリーを越えると大通りにぶつかるものの、果たしてこれを大通りと呼んでよいものかと、人をちゅうちょさせるようなささやかな通りだ。
バッグから、昨日芳子にファックスされた手書きの地図を取り出し、里沙子は歩き出した。目指すアパートは駅から徒歩で十分ほどだと聞いている。地図に従い、ささやかな大通りを東に進み最初の信号をすぐ南に折れると、つつましい小道が眼前に続いていた。
芳子から再び電話があったのは、あれから二日後のことだ。葬儀の際に蘭の両親から受けた冷ややかな態度やその後の礼司の様子などを、芳子は口早に伝えると
「悪いんだけどさあ。礼司の様子見に行ってもらえない?」
と里沙子に持ちかけた。
「あの子今、彼女が住んでたアパートに行ってんのよ。実は今回こんなことがあったから、急な家の都合ってことにして、礼司の会社にお願いして転勤の件を延期してもらった訳。こんな状態で、あの子を一人県外にやるのも心配でしょう? それであっちのアパートを一旦引き払おうと思って、できれば礼司が夏休みの内にと思って、本当は明日にでも行くつもりだったんだけど、何とまたお葬式が出ちゃったのよ。わたしたちの仲人をしてくれた主人の上司が急にね……」
「まあ。悪いことって重なるもんねえ」
この買い手市場の時代に、随分融通の利く会社もあるものだと思いながら、里沙子がつぶやくと、芳子は
「それでわたしたちは昨日こっちに帰って来たんだけど、あの子はまっすぐ、アパートに向かったのよ。わたしたちも明後日には向かうつもりなんだけど、その間礼司を一人にしとくのが不安なの。別に荷物まとめたりとかはしなくていいから、ちょっと側にいてやってくれないかしら」
と哀願するような声を出した。
「それは構わないけどでもいいのかしら。わたしが行っても」
「側にいてやって欲しいの。こんなこと他の人には頼めないしお願い。あの子にはわたしの方から連絡しておくから」
昨夜のそんなやり取りを思い出しながら、里沙子は秋の陽射しの下を歩いた。時折自動車やバイクが、思い出したように現れては脇をすり抜けて行く。反対側からは老人の乗った自転車が、ギイギイと嫌な音を立てながら通り過ぎて行く。
皆生活しているのだと里沙子はぼんやりと思った。皆それぞれの悩みを抱えながら、それでも大抵の人間は、その苦悩を生活の中に溶け込ませながら生活している。里沙子は、甥と自分のただ二人だけが、この小さな町の中で、唯一生活から浮かび上がっている人間のような気がして心もとなさを覚えた。
いやそんなことは無いだろうと、里沙子は必死に考えた。この町にも自分たちと同じくらい、いやそれ以上の苦しみを抱えた人が存在するだろう。
そう思おうとするのにできなかった。憂鬱の支配を受け里沙子は、自分だけが懊悩に魅入られているかのように錯覚していた。この錯覚は、非常に不遜なものだと知っていながら。
目当てのアパートはすぐに見つかった。築二十年くらい経っていそうな、すすけた感じの小さな建物だ。その裏手は荒地になっており、コスモスが秋の訪れを告げるべく咲き乱れている横で、「高慢」の花言葉を持つ向日葵が、季節の変化を全く意に介さずにのん気に咲き誇っている。
部屋番号を確認すると、里沙子は表札に目を走らせた。礼司の苗字だけが無造作にマジックで書かれたプレートに、そっと世間から身を隠し、暮らしていた二人の生活が思い浮かぶ。里沙子は胸を痛めた。
チャイムを押すと程なくドアが開けられた。伯母の顔を見て、「……こんにちは」と無感動な表情でつぶやく礼司は、五日前に比べると明らかに頬がこけやつれている。里沙子は胸を締め付けられるような思いがした。「調子どう?」と尋ねる。礼司は「……うん」とつぶやいてのっそりとした足取りでキッチンを抜け、その奥の一室に入った。
頭にブラシも当てていないのか、後頭部の髪がうねっている。肩を落とし歩く体を包んでいるのは、寝巻きにもなりそうな黒い半そでのTシャツにスウェットだ。里沙子は冷静に甥の後ろ姿を観察すると、彼に続いて部屋に入った。六畳の和室に足を踏み入れると奥にも四畳半の和室があり、布団が敷きっぱなしになっているのが、半開きになったふすまの向こうに見て取れた。
二部屋共、ろくに家具がそろっていないばかりか、わずかにそろえられたテーブルやカラーボックスは、材質も色もバラバラの上、ボックスに入りきらなかった本やらバックやらがむき出しのまま部屋の隅に重ねられており、何やら雑然とした印象を受ける。
急ごしらえに作られた愛の巣の侘しさに悲哀を覚えながらも、里沙子は
「外から見るとちょっと古そうだけど、中は案外広くて綺麗なのね」
と世辞を言った。これから引き払う住居の賛辞を述べたところで、仕方が無い気もしたが、若い二人が限られた時間と予算の中で、それでもなるべく住みよい場所をと願い捜しただろう労力に、せめてものねぎらいの言葉をかけてやりたかった。
礼司は「そうかな……」とつぶやくと畳に腰を下ろし、無言で伯母の方に、座布団を押し進めた。
「あらいいわよ。礼ちゃん使いなさいな」
「いいから」
少し怒ったように言う甥の態度に、里沙子はそれ以上断り辛くなり、座布団の上にぺたりと腰を下ろした。安物の薄っぺらい座布団が、緊迫していた二人の生活を物語っているようで里沙子は鼻の奥がつんと熱くなったが、それを誤魔化すように
「もうじきお昼だよね。何か食べに行こうか」
と明るく提案した。
「食べたくない」と礼司は、虚ろな目を宙に向けたまま答えた。芳子から礼司の食欲不振は聞かされていたので里沙子はさして驚かずに
「今朝は、何食べたの」
と尋ねた。
「食べてない」
「昨日の夜は?」
「コンビニのおにぎりを、半分食った」
無精ひげを生やした顔を向けて答える礼司に、里沙子が
「この五日間、ろくに食べてないんでしょ」
と心配そうに尋ねた。礼司は「うん」と小さくうなずいた。
「何か食べないと、体に毒よ」
「……何か食べたかったら、おばさん行って来ていいよ」
「礼ちゃんが食欲が出たら、その時一緒に食べるわ」
甥に合わせ昼食を抜くくらい、里沙子にとっては造作も無いことだった。それよりも里沙子は、礼司が食欲を湧かせた時に、一緒に目の前で食事をすることが肝要であることを知っていた。
「オレずっと、食べたくなんないかも知んないよ」
「でも昨日おにぎり食べたんでしょ。落ち込んでいくら食欲が無くたって、ほんの時々ほんのわずかでも人は食欲を感じるものよ。その時に一緒に食べるわ」
「もう二度と、食欲が湧かなかったら?」
甥が絶望的な質問を舌に乗せると、里沙子は「湧くわ」と彼の目を見て断言した。
「何で、そんなことが分かるんだよ」
思わず食ってかかる礼司に里沙子は寂しげに微笑むと
「礼ちゃん忘れたの? わたしも夫を亡くしてるのよ」
とつぶやいた。礼司がハッと口をつぐむと里沙子は
「外に行くのが面倒だったら、何か作ろうか」
と立ち上がった。
「今は……、いいよ……」
甥が答えるのを聞いて、里沙子は彼がほんの少しだけ心を開いたことを悟った。「今はいい」ということは、後になったら食べるかも知れないということだ。
礼司が自分の食欲を、後になったら湧くかも知れないと、肯定的に捉え直したことを受け、里沙子は
「そう? じゃあ後で何か食べましょう。その時の気分で、外に行くかここで食べるか決めればいいわ」
と言ってキッチンへ向かい念のために冷蔵庫を開けた。
冷蔵庫の中には、あまり食材は入っていなかった。もっとも豊富に食材が入っていたとしても、四~五日もの間出し入れが無かった冷蔵庫を過信するのは禁物だ。扉部分の牛乳パックを手に取ると、消費期限が三日も前に切れている。
食欲を無くし体力の落ちている甥が、うっかりこんな物を飲んで、腹を下してはおおごとだ。里沙子はそれを流しに捨てると
「食べてないと喉が渇くでしょう。ジュースか何か買って来るわ。何がいい?」
と言いながら礼司の方へ向き直った。
「……スポーツドリンク系が、飲みたい」
「そう。じゃあすぐ戻るから待っててね」
里沙子はそう言い残すと、アパートを出て足早に歩き出した。来る途中にコンビニを一軒見た覚えがあった。五分ほどでその店を見つけると、里沙子はつかつかと店内に入って行った。
レジ付近にはちょうど昼時のため、作業員らしき男たちが、弁当を持って列を作っていた。やはり何か食べ物も買って行こうかと里沙子は思ったが、落ち込んで食欲を無くした人間が、出来合いの食品に食欲を感じることは考えにくいと思い直し、スポーツドリンクと麦茶のペットボトルを買い求め、そのままアパートへと戻って行った。
小さな玄関を抜けキッチンへ入ると、流し台の上に、先ほどは無かったコップが二つ並んでいた。里沙子の外出中に礼司が棚から出して置いておいたのだろう。里沙子は冷凍庫から氷を取り出すと、それをコップの中に入れ、上からドリンクを注ぐと
「はい。礼ちゃん」
と甥にコップを手渡した。
すると彼はゴクゴクと喉を鳴らして飲み干したので、里沙子は慌ててキッチンに、ペットボトルを取りに戻った。それを持って里沙子が礼司の傍らに腰を下ろすと、彼は
「おばさんもさあ……、食べれなくなった? おじさんが死んだ時」
と遠くを見ながらつぶやいた。
「そうね。しばらくは食欲が出なかったわね」
と里沙子は当時を回想しながら答えた。
「食べれる物といったら、水っぽい物やさっぱりした物をほんのちょっとだけで……。食べてないと喉はやたらに乾くから、飲み物は飲めたんだけどね。だから朝からお酒ばっかり飲んでたわ。でも空きっ腹でお酒飲むもんだから胃をやられちゃってね。辛いから酔いたいのに体はアルコールを受け付けてくれないし、本当に苦しかったわ」
「……そうなんだ……。知らなかった……」
義伯父の葬儀の際の、伯母の毅然とした態度から、里沙子を気丈な女だと思い込んでいた礼司は肝を潰した。礼司は単純な性格で物事を表面でしか捉えない癖があった。
一方その整った顔貌から、ともすれば情の冷たい女だと思われることが多い里沙子は
「おばさんはさ、どうゆう訳だかしっかりしてるように見られちゃうんだけど、本当は全然。逆境にめちゃくちゃ弱いの」
と照れたように弱さを口にした。
配偶者の死を激しく悼んだからといって、別段恥じ入る必要も無いと思われるが、里沙子は長年の姉という立場の経験から、目下の人間に感情の乱れを告げることに、つい恥を覚えてしまう傾向があった。
「どうやって……、立ち直ったの」
「そうねえ。おばさんはその時とにかく胃が辛かったのね。それでせめてこの肉体的苦痛からは逃れたいって思ったの。胃が治ればまたお酒に逃げることもできると思ってね。それで食べなきゃ胃が荒れるのは知ってたから、とにかく食べようと思って、色んな人と食事に出かけたり料理を工夫したりしてたら、何だか少しずつ元気が出てきたの。食べることによって体が持ち直してきたから、つられて心も元気になったみたいね。それに食事って、やっぱり生活の張り合いの一部だから、その食事を自分にとって好ましい物に変えるようにしたのがよかったのかしらね」
この行き当たりばったりな立ち直りの経緯には、甥に少しでも、食べる気を起こさせようという伏線が張られていたのは言うまでもない。
しかし世にも単純な礼司は、伯母の経験を教訓にするためには、まず自分も胃を荒らさねばならないかのような強迫観念を抱いてしまい
「オレもこのままだと……、胃が荒れるのかな」
とおびえたような顔をした。
「ストレスが体のどこに出るかは、体質もあるだろうから、胃に来るかどうかは分かんないけど……。でも礼ちゃんはお母さんの手料理を食べればいいんだから、いいじゃないの。おばさんはおじさんが死んだ時、料理を作ってあげる相手がいなくなっちゃったから、作る気が失せちゃって、食欲も湧かなくなっちゃったんだけど、礼ちゃんは作ってくれる人がいるんだから」
「オレ……、元気になんなきゃいけないのかな……」
先ほど湧いたとんちんかんな不安を、里沙子に解消された途端、礼司は今度は逆のことを言い出した。いや礼司の憂苦は単純な喪失感のみではなく、自身の罪悪感にも端を発していたから、彼の不安の根源は、この憂苦から立ち直ってもいいのかといったところにあった訳だ。それをこの口下手な若者は実に短くも分かり辛い言葉に宿して口にした。
「元気になりたくないの?」
「蘭と子供は死んじゃったのに……、オレだけ元気になっていいのかと思って……。このまま食べずに死んだ方がいいのかなあとか思いつつ、おにぎりを食ってる自分がいる」
礼司は遠くを眺めながらつぶやいた。まだ多くの経験を持たないこの若者は、自分の命を否定しそうになるほどの罪悪感の中にあっても尚、人間に巣食う肉の欲の存在に、大きな戸惑いを覚えていた。
「でも礼ちゃんが死んでも、彼女と子供は戻って来ないのよ。それにもし礼ちゃんが死んだら、悲しむ人が大勢いるのよ」
「でも蘭はオレのせいで死んだんだよ。オレの子供ができたせいで」
礼司が振り絞るような声を出すと、里沙子は
「妊娠は礼ちゃんだけの責任じゃないでしょう。避妊しなかったのは二人の責任だわ」
と客観的な意見を口にした。
もしかしたら芳子の言う通り、避妊の責任は男の方が重いかも知れない。だがそれは女は自分の体に孕むからなのだ。もし女の避妊に対する責任が男より軽いとしたら、その代わり女は、自分の体と子供に対する責任を担うはずだと、彼女は考えていた。
すると礼司は逡巡した挙句
「……あいつ、子供欲しがってたんだ」
と言い出した。
「蘭は……、親と上手くいってなかったから、結婚願望っつーか新しい家族が欲しいみたいな気持ちが人一倍強くて……」
「じゃあ礼ちゃんは彼女の言うままに子供を作るつもりで……、セックスしてたの?」
てっきり望まぬ妊娠だったとばかり思い込んでいた里沙子が、驚いて問い返すと、礼司は
「オレは……、まだ二十一だから、ぶっちゃけ結婚とかってまだピンと来なかったんだけど、女の子が『付けないで』って言ってるのに、男の方から『それでも』とは言いにくいっつーか」
と言いにくそうにつぶやいた。
「礼ちゃん……。人の命が誕生するか否かの瀬戸際に言いにくいも何も無いでしょう」
「でも……、だからオレ子供ができたって知った時責任取らなきゃと思って。蘭と二人で子供を育てようと思って」
その時里沙子は思い出した。芳子が、「母親としては息子に避妊を教えるのって抵抗があるのよね」と言ったことを。あの時里沙子は「確かにね」と芳子の思いを肯定した。安易な命の誕生というものへの危機感を欠いていたのは、自分も芳子も、同じだったのではないかという気がした。
だとしたら今こそ自分は、命に対する軽薄な考えと向き合うべきじゃないだろうか。どうせなら今目の前にいる甥を、巻き込むべきじゃないだろうか。
にわかにその考えに駆られた里沙子は
「だったら、どうして」
と敢えて強い口調でなじり始めた。
「どうして週末同棲なんて半端なことしてたの? どうして親にも隠してたのよ」
「蘭に口止めされてたんだ。親に反対されて、この上オレの親にまで反対されたら困るからって。だから堕ろせなくなるまでは言わないでくれって……」
里沙子は黙って礼司の顔を見詰めた。張り詰めたその顔には、里沙子には無い若さがあった。思慮に欠けた浅はかな無鉄砲さを伴った若さがあった。里沙子はハーッと溜め息を吐くと
「礼ちゃん。妊娠や出産って大変なことなのよ」
と、ゆっくりと話し出した。
「今回蘭ちゃんがあんなことになって礼ちゃんも分かったと思うけど、妊娠や出産って、どうかすれば母体の命を奪う危険なものよ。出産時に命を落とす人もいれば、産後の肥立ちが悪くて亡くなる人もいるし、母体は無事だったとしても、流産や死産で心に大変な傷を残す場合もあるの。そうかと思えばマタニティーブルーが酷い人は、欲しくて欲しくて授かった子供だったのに、耐えられなくて堕ろしちゃう場合もあるのよ。そこまでいかなくても、つわりで入院する人もいれば出産後に体質が変わって体が弱くなる人もいるし、産後うつになる人もいる。妊娠や出産って家族が欲しいからって、準備と知識と覚悟の無い男女が安直に手を出すもんじゃないの。ましてや避妊を言い辛かったなんて理由で、軽々しく飛び込む世界じゃないの」
「じゃあ……、堕ろすべきだったってこと?」
礼司は、やや非難がましい目つきを伯母に向けた。この思慮深さに欠けた正義感の持ち主は、自分の軽弾みな行為によって、一つの命が誕生しそして二つの命が消えてしまった事実に背を向けたまま、堕胎という行為に対し、非難の心を持つことができるという独善者の特徴を持っていた。
しかし礼司は、心の奥底では自分の過ちに気付き始めていた。そうでなければなぜ礼司が罪悪感を抱き得ただろう。
思考と疎遠な人間が、自己の分析ができないままもがいている現状をおぼろげに悟った里沙子は
「違うわ。避妊するべきだったって言ってるの。ねえ礼ちゃん。父親と母親と子供がいればそれで家族じゃないのよ。子供ができたからって必ずしも家族にはなれないの。現に子供ができたからって結婚した人たちが、子供がいるにも関わらず大勢離婚してるでしょ。それどころか統計によると、子供のいない夫婦の方がむしろ離婚率は低いのよ。妊娠は家族を作るための魔法のアイテムにはならないの。だから子供を作るよりも、まず男女が家族にならなきゃいけないの」
と懸命に説明した。
しかしこの世にも単純な若者は、精神論がとんと苦手だった。そのため男女の精神的な結びつきの大切さを説かれているのだとは、夢にも思わず
「まずは、籍を入れるべきだったってこと?」
と愚にもつかない質問をした。
「そういう、単純な問題じゃないのよ」
とつぶやいた後、里沙子は頭を悩ませた。どうも礼司は抽象的な話題が苦手なようだ。しかし今は抽象論を交わさねばならない。そこで里沙子は
「ええと礼ちゃん、『EASY COME EASY GO』って知ってる?」
と尋ねた。
「ああ、歌のタイトルでしょ?」
甥の返事を聞いて里沙子はまずったなと唇を噛んだ。若い子には、横文字を使ったインターナショナルな説明の方が食いつきがいいのではないかとの試みから質問したのだが、若い礼司が、その古い邦楽の存在を知っていたとは計算外だった。
いや場合によっては、その曲を知っていた方が話が早いのだが、それは歌詞に対する洞察力を持っている人間を相手にした場合に限られる。
言葉への洞察力に長けているとは、お世辞にも言いがたい礼司に限っては、むしろその曲を知らないでいてくれた方がやり易かったのだがと思いつつ、里沙子は
「いや音楽の話じゃなくて、言葉として知ってるかってこと」
と再度質問を繰り返した。礼司は「さあ?」ときょとんとして答えた。
「英語のことわざなんだけどね。日本語では、『悪銭身につかず』って訳されたりするんだけど、要は、簡単に手に入ったものは簡単に出て行ってしまうってことなの」
「ふうん」
「赤ちゃんをただ作るだけなら、簡単なことだわ。義務教育を終えてない子供にだってできることよ。そんな簡単な方法であなたたちは家族を作ろうとしたけど……、その家族はあっさりと、手の中から消えちゃったでしょう。必ず手に入れたいものは、苦労して努力して手に入れなくちゃ駄目なのよ」
里沙子が少々説教がかった口調で言うと、礼司は「そうか……」とつぶやいた後
「あいつその歌好きだったんだよなあ。よく部屋で聴いてた。そんでそのタイトル通りに逝っちゃったんだなあ」
と言って不意に目に涙を溜めた。
里沙子は素早くティッシュを渡すと
「お母さんには内緒にしててあげるから、泣いちゃいなさい」
とけしかけた。礼司は伯母から背を向けると背中を丸め小刻みに肩を震わせ始めた。
里沙子はその背中をさすってやりながら、二十一歳なんて赤ん坊と同じだわと、ぼんやりと思った。呆れるほど安直で考え無しで短絡的。どうしてもっと思慮深さを持てないんだろう。
心の中で散々悪態をついた後里沙子は思った。けれどそんな子供の世話を、わたしは本当はしてみたかったのだ。
不意に部屋の外から、幼児の泣き声とそれをなだめる母親の声が響き、そして消えていった。わたしも今あの母親と同じことをやっているのだろうかと里沙子は漠然と考えた。声を殺して泣く甥の背中を、ひどく愛しく感じた。
その時、ブーッと大きな音を立てて礼司が鼻をかんだので、里沙子はちょっとびっくりしてその顔を見た。礼司はティッシュをゴミ箱に投げ入れながら
「あいつ……、『EASY COME EASY GO』の意味知ってたのかな」
と鼻の詰まった声でつぶやいた。
「墓前に行って、教えてあげればいいじゃないの」
「……おばさんは……、死後の世界とか……、信じてる?」
真の意味での宗教を持ち得ない、日本という風土で育った若者がそう尋ねると、里沙子は
「なあに? 死後の世界が無いならお墓参りは無意味だから、無意味なことはしたくないってこと?」
と礼司の発言が、合理性によるものかどうかを確かめようとした。
「したくない訳じゃないけど蘭の親……、『もう関わらないでくれ』って言って、お墓の場所教えてくれなかったし、それにお墓に行ってもオレの声が届くか分かんないし」
「だったら、写真に呼びかければいいじゃないの」
里沙子が部屋の中を見回すと、やや塗料のひび割れたカラーボックスの上の写真立てに、蘭と甥が並んで微笑んでいる姿があった。写真の中で笑う蘭の頬はバラ色に染まり、とても幸福そうだ。蘭のこんな喜びに満ちた笑顔を里沙子は初めて見たと思った。
蘭の親子関係がどういうものだったのか、里沙子は詳しく知らない。ただ記憶の糸を手繰る時、両親と共に初めて下宿を訪れた蘭の表情がやけに暗かったこと、荷物を運ぶだけ運んだら、後は部屋の整理も手伝わずに、まだ日の高い内に、両親がそそくさと帰ってしまったこと。それにも関わらず残された蘭が、せいせいしたような表情を浮かべていたことなどが思い出されるだけだ。
けれどこうして、蘭の満面の笑みを写真の中に見つけた今、彼女は幸福だったのかも知れないと里沙子は思った。人生の中でおそらく一番幸福な時に、蘭は愛しい我が子と共に旅立って行った。これはもしかしたら非常に幸福なことだったかも知れない。
もちろん生きていれば、礼司と更なる幸福をつかむことも可能だったかも知れない。けれど安易な幸福の追い求め方をする者は、いつか必ず、自分の愚かしさを目の当たりにする日が来る。その時に蘭と礼司が、共に手を携えそれを乗り越えることができたかどうかは分からないのだ。
蘭は少なくとも、男との破局の悲哀は覚えず、また大切な人に先立たれる苦悶は知らずに逝くことができたのだ。それはもしかしたら幸福なことなのかも知れないと、里沙子は思った。
その写真立てに礼司もしばらく視線を向けた。そして
「写真に向かって呼びかければ、蘭に届くと思う?」
と真剣な面持ちで里沙子に問うた。
「もし死者の霊というものが存在するんなら、必ずしもお墓に行く必要は、無いんじゃないの? 第一肉体を離れた存在が自分の屍にどれだけ関心を示すやら。ただわたしたちは肉体を持った存在だから、お墓とか写真とか、そういう肉体による五感に訴える物を目の前にした方が、死者に対して呼びかけがし易いじゃない。だからお墓参りとか故人の写真に花を飾ったりするのって、死者のためっていうよりも、残された人が自分のためにやることだとおばさんは思うわ。だから必ずしも写真に向かわなくても、蘭ちゃんに対して呼びかけることもできると思うし」
「……死んだ後も、魂は存在するのかな……」
大抵の人間ならば持ち得るそんな疑問。けれどそんな疑問を持ちながら、実際にその疑問の解明を試みないまま、今日まで生きることのできた、この非常に日本人的な若者がそう尋ねると、里沙子は
「さあねえ。存在して欲しいっていう人間の勝手な願望かも知れないわね。でも死後の魂の存在を否定する証拠は無いし、存在するのかも知れないわよ。可能性があるから死者に呼びかける。それでいいじゃないの」
とサバサバと答えた。
それを受けて礼司が「うーん……」と煮え切らない返事をすると、里沙子は
「ねえ礼ちゃん」
と礼司の、芳子ゆずりの丸い目を見詰めた。
「わたしたちは死後の世界に限らず、確実に約束されてることなんて何一つ無いのよ。明日倒産するかも知れない会社のためにサービス残業して、振られるかも知れないのに、異性に恋を打ち明けて、数年後には害があるって発表されるかも知れない健康法を、実践するのが人間なのよ。疑い出したら何もできやしない。わたしたちはせいぜい駄目だった場合にリスクが大きいと思われる事柄を、避けて通るくらいしか手段が無いの。でも死者に呼びかけたからって、仮に霊が存在しなかったとしても被害は無いじゃないの。だからわたしは、主人の魂がどこかに存在してる可能性を考えて主人に呼びかけてるわ。例え届かなくたっていいじゃないの。郵便物だって紛失騒ぎが起こることがあるんだから。生きてる人間に対する通信だって、確実は約束されてないけど、そんなの仕方が無いことでしょう」
笑いながら言う里沙子に、礼司は
「でもオレ、届けたいよ」
と悲痛な声を出した。
「オレは自分の気持ち届けたい。『悪かった』って言いたい」
「わたしだってそうよ。あの日主人が事故に遭うと知ってたら、もっと優しくしたのにって何回も思ったわ。でも人の命がそれほどはかないものだってこと、わたしたちは知ってたはずでしょう。今日一日の命すら約束されてる人は誰もいないの。だから一日一日を、なるべく後悔しないように生きなきゃいけないの。人間は愚かで弱くて、身勝手な生き物だけど、その中で精一杯生きなきゃいけないの」
不意に涙がこみ上げそうになるのを辛うじて飲み込みながら里沙子が言うと、礼司は
「でもオレは、蘭と子供の側で蘭と子供と一緒に精一杯生きたかったのに……」
と、うなだれた。
「わたしだってそう思ったわ。日々の大切さなんて、主人を失ってから悟ったって意味無いと思ったわ。でも……、わたしが無意味だと思ってしまったら主人の死は本当に無意味になってしまうと思ったの。主人の死によって感じたあの苦しみの日々が、無意味になってしまうことがわたしには耐え難かった。だからわたしは、自分で主人の死に意味をつけることにしたの」
「おばさんは強いんだよ。オレにはとてもそんな風には思えない……」
先ほど里沙子が飲み込んだ涙の苦さを知らない礼司が反論すると、里沙子は
「違うわ。弱いからそうしたのよ」
と答えた。
「あの辛さを無意味なものだと思ってしまったら、自分が壊れてしまうと思ったからよ。だからわたしは、主人が死をもってわたしに、日々を大切にすることを教えてくれたんだと考えたの。それにそう考えてしまえばそれは真実になるのよ。だって人にものを教わる時って、教える側の人間が必ずしも教える意思を持っている必要は無いんだもの。そうでなきゃ反面教師なんて言葉も生まれないでしょう」
里沙子はそこで呼吸を整えると
「礼ちゃんも彼女の死が辛いなら、彼女の死が、自分に何を教えようとしてるのか考えなさいな。そうすればそれが彼女からの最後のプレゼントになるはずだわ。いいこと? 礼ちゃん。彼女の死を犬死にするか否かはあなた次第なのよ」
と、ゆっくりと言い聞かせるように甥に告げた。
「……でも、何を教えようとしてるかなんて分かんねえよ」
「一つは分かったじゃない。『EASY COME EASY GO』の意味よ」
そう言いながら里沙子は、やはりそのことわざを用いたのは正解だったと考えた。「世の中にはあらゆるよい格言がある。人はそれらの適用にあたって、くじけるだけである」はパスカルの言葉だが、少なくとも今回自分は、その適用にくじけなかったと里沙子が満足していると、礼司が「あとは……?」と自身無さげに伯母に問うた。
「あとは自分で考えなさいな。あなたの恋人なんだから。まあヒントは生前の彼女との会話の中に、ある場合が多いと思うけど」
「会話かあ……。オレあんまりしゃべんない方だから、蘭ともそんなにたくさん会話しなかったんだよなあ……」
「あらじゃあ一つ発見できたじゃない。大切な人とは目一杯会話しておくこと。これがもう一つよ」
そもそも人間は、痛嘆の中で思考して到達した論理により、己が世界を変えることが可能だが、夫の死による痛嘆により得た論理が、甥の痛嘆をも照らし得る事実を、里沙子は彼のために非常に喜ばしく感じた。
しかしそれを受けた礼司が
「でも恋人同士って、黙ってても理解し合えるもんなんじゃないの?」
と暗愚な質問をしたため、里沙子は天国から一気に俗世に堕とされたかのような、不愉快な気分になった。
「じゃあ礼ちゃん、半年間、一言も口きかないアベックがいたらどう思うの?」
「それは、極端だよ」
「ちっとも極端じゃないわよ。黙ってても理解し合えるんなら、半年と言わず一生一言も話さずにいても、理解し合えるはずじゃない」
あまり会話を交わさないまま、恋人に先立たれた今になっても尚、蘭と言葉を交わさなかった自分を自己弁護する甥を、里沙子は不快に感じた。「自分の気持ち届けたいよ」と悲痛に叫んだ男が、一方では言葉を届けることが可能だった蘭の生前に、会話をしなかったことを後悔しない矛盾が、里沙子には到底理解できなかった。
「いや、ある程度の会話は必要だと思うけど……」
「ある程度であれ、会話が必要だと思うんなら、黙ってても理解し合えるなんて矛盾した妄想抱くのはやめなさいよ」
思考と隔たった人間特有の、曖昧かつ誤解を生じさせ易い、不誠実な言語表現が大嫌いな里沙子がぴしゃりと言ってのけると、礼司はその迫力に驚き
「いやオレが言ってるのはそういうことじゃなくて、恋人同士だったら、少ない言葉で理解し合えるっつーか……」
としどろもどろになって答えた。
しかし自信無さげな口調とは裏腹に、礼司は内心ムッとしていた。そもそも礼司にとって言葉とは、別に的確である必要は全く無く、雰囲気で大体の内容が伝わればそれでよいものであり、自分がそう思う以上、他人もそう思うべきものであるはずだった。礼司はそんな論理によって言葉を軽視していたので、言葉を使う価値を知らず、従って多くの会話も愛さなかった。
そんな礼司にとっては、彼の言葉の雰囲気を悟らず、四角四面に言葉の正確さを追及せんとしながら、一方では平然と「アベック」などと死語を用いるこの伯母は、察しが悪く重箱の隅を突くようなうっとうしさを持ち、尚且つ古臭い存在に思われた。
ところが里沙子に
「じゃあ彼女と、少しだけ会話をしてた礼ちゃんあなたは、彼女のことを全部理解してたの?」
と皮肉った質問を投げられると、礼司はうろたえた。
言葉を軽んずるがゆえに、適切な言葉の使用もおぼつかず、好戦的な受け答えを思いつくことができなかったのだ。そこで礼司は
「……全部って言われると、困るけど……」
と小さくなって答えた。
里沙子はハーッと溜め息を吐くと
「ねえ礼ちゃん。こんなこと言いたくないけど、わたしはあなたが彼女を本当に愛してたとは思えないわ」
と言い出した。
「そりゃあ彼女のことを好きだったろうとは思うわよ。今とっても、辛いだろうとも思うわよ。でも……、彼女の全部を理解した訳でもないのに、彼女とろくに会話も交わさず黙ってても理解し合えるなんて幻想に取りすがってたなんて……。理解してもいない恋人に対してある程度の会話でいいだなんて、結局彼女に対して、ある程度の愛情しか持っていなかったってことじゃないの」
悲しげにつぶやく里沙子の言葉に、礼司は思わず黙り込んだ。そもそも真面目ではあるが考えが浅い礼司にとっては、愛と恋の違いとは、本気の恋と遊びの恋の違いのことだった。礼司にとっての本気の恋とは本命に対する恋のことであり、蘭とゆくゆくは入籍を考えていた自分は本気の恋心、すなわち愛情を持っていたはずだった。
しかし伯母に自分の愛情の不足を責められた今、礼司はそれに対する反論を思いつかず
「オレ……、あんまり話すの得意じゃないから……」
と逃げ腰になった。
「だったら黙ってても理解し合えるとか、ある程度の会話でいいなんて発言で、自分を正当化するのはやめなさいよ。会話が苦手な自分と、男らしく正面から向き合いなさい。いい? 礼ちゃん。大事なのは上手く話すことじゃないの。自分を理解してもらうために一生懸命伝えること、相手を理解するために真心込めて耳を傾けることが大切なの。あなたを大事に思ってる人はあなたの言葉が聞きたいの。あなたのお母さんだって、あなたが何も言わずにここまでのことしでかして、どれだけ心を痛めてると思うの?」
「……ごめんなさい……」
自分の思考を、的確な言葉に表せないどころか、そもそも言葉にするほどの深い考えも持ち得ない己が凡愚を認めたくないがゆえに、今まで言葉を、軽蔑する振りをしていたという、自分自身すら気付いていなかった歪んだ感情を言い当てられ、礼司はうなだれた。
その哀れな姿を認め、傷心の甥に対しさすがに言い過ぎたと思い直した里沙子は
「それはお母さんと彼女に言いなさい。あなたを想ってる人は、あなたの言葉が聞きたいんだから。わたしもそうよ。だから礼ちゃんの気持ちが知りたくてつい言葉がきつくなっちゃったけど、でも相手とつながっていたいと思うと、人は色んな言葉を駆使して相手の気持ちを引き出そうとするもんなんだって覚えてて頂戴。簡単なことよ。人は嫌いな相手にはわざわざ話しかけたりしないでしょ。逆に言えば、好きな人には何かと話しかけるものだし、そうあるべきなの」
と口調を幾分和らげた。
「でもじゃあ何で世の中には、『黙ってても分かり合える』とかって、言う人がいるんだろ」
「そりゃあ長年連れ添った相手だったら、黙っててもある程度分かる部分はあるわよ。その事実が歪んだ思想になって世の中に広まったんじゃないの? 恋人とか伴侶とか、そういう自分にとって大切な人への理解を、ある程度のレベルで構わないと思うなんて、おばさんは歪んでると思うわ」
そもそもある程度しか理解しなくても構わない相手と、よくも付き合ったり、結婚したりするものだと呆れながら里沙子は言った。そういった姿勢は、里沙子にとっては不真面目なものに思えた。
一方、礼司は伯母に感化され言葉の大切さを悟り始めた。そこで
「オレは……、別にある程度の理解でいいとかって思ってた訳じゃないけど、ただ何だろう? 蘭とはずっと遠恋だったからあんまり会って話すこともできなかったし、蘭が短大に入ってからはすぐに子供ができちゃったから、何かお互いを理解するとか、そんなこと考えてる余裕が無かったっつーか……」
と口下手なりに何とか説明を始めた。
「だから急いで子供を作っちゃ駄目だって言ってるの。お互いをよく知って、理解し合わなきゃ、本当に人生のパートナーになれる相手かどうか分かんないでしょう。子供が生まれてから、自分と相手がそぐわないことが分かったらどうすんの? 仮面夫婦になろうが離婚しようが、自分たちは自業自得かも知れないけど、そんな親の元に生まれた子供はいい迷惑だわ。考えが足りなくて自分だけが失敗するのは勝手だけど、子供にいらぬ気苦労をかける親なんて、人として最低じゃない」
「でも結婚相手と初めて会った時って、『頭の中で鐘が鳴った』とか『花火が上がった』とかって言う人いるよ」
リアリストの里沙子は、そういった表現が大嫌いだったので怒りに燃えた。しかし怒ってばかりいるのも疲れる。そこで
「……礼ちゃんの周りって、随分……、ファンタスティックな人が多いのね……」
と無難な表現を返した。
「えーでも芸能人とかでも、『相手と会った時にピピッと来ました』って言ってた人、結構いたじゃん」
「ピピッと結婚した人のほとんどがピピッと離婚してるじゃない。正に『EASY COME EASY GO』だわ」
単なる幼稚な一目惚れを、鐘だの花火だのといった美辞麗句を用いて表現する輩に、礼司が洗脳されていたのかと考えると里沙子はげんなりした。そういう人間は、一人で勝手に失敗していればいいのだが、そういう人間に限って周囲を巻き込むのだ。昔、「ピピピ婚」という言葉を流行らせた芸能人のように。
「……そういえば、そうだね……」
「あのさあ礼ちゃん、結婚をおとぎ話みたいな感覚で捉えるのやめなさいよ。結婚は現実なのよ。結婚っていうのは、お互いが現実的に努力して幸せを築いていくもんなの。何なの? その鐘とか花火とかって。その人たちは予知能力でもある訳?」
達観力の無い人間に限って、表面のみで即座に断定的に、人間を判断する傾向にいい加減うんざりしていた里沙子がそう言うと、礼司は
「いや……、普通の人だけどただその人が、『人間は誰でも一生に一度魔法にかかる時があってそれが結婚だ』って言ってて……」
としどろもどろに答えた。
この世にも単純な若者は、経験者の発言を鵜呑みにするにあたって、さしたる根拠を必要としないという非常にサラリーマン向きな一面を持っていたが、ここに来て突然、同じく結婚経験者である伯母の反論にぶち当たり、非常に困惑し始めた。
「生涯独身を貫く人もいれば、再婚を繰り返す人もいるのに、何が『誰でも一生に一度』なのよ? そんな訳の分かんない発言を信じて、礼ちゃんは人は魔法によって結婚するとでも思ってた訳?」
「いや魔法を信じてる訳じゃないけど、ただその人が、『結婚なんてつまらん』って言ってて『あの時は魔法にかかったんだ』って言ってたから、結婚を決める時って、そうゆうもんなのかなあって」
礼司が黒魔術師もびっくりするような神秘的発言をすると、里沙子は
「……ちょっと待ってよ。いい魔法じゃなくて悪い魔法っていう解釈なの?」
とつぶやき、そして
「あー馬鹿馬鹿しい。その人は、見る目もなくうかつに結婚した自分のふがい無さを棚に上げて、捏造した超常現象に責任転嫁してるだけじゃないの。何だってそんな反省心の無い人のセリフに感銘受けちゃうかなあ」
と、ほとほと呆れ果てた顔をした。
「……そう言われてみると……、そうだよね……」
「もう礼ちゃんは、何日もろくに食べてないから、頭に栄養が回んなくてそんな単純なことも分かんないのよ。この辺でいっちょ何か食べなさい」
食欲を無くす前には、果たして礼司の頭に栄養が回っていたのかどうか、甚だ疑問ではあったが、里沙子は無理やりこじつけた。すると先ほどまでの会話のキャッチボールならぬ会話の千本ノックで頭が疲労しきった若者は、まんまと伯母の誘導に引っかかり
「……そうだね。何か……、あったかいモンがいいな」
と食べ物を所望した。
里沙子はしめしめと心の中でほくそ笑むと、キッチンに向かった。あちこちを漁ると棚からは乾麺と乾燥ワカメ、冷蔵庫からはネギと冷凍された鶏のガラが出てきたので、里沙子はうどんを作ることにした。本当はもっと色々食べさせたいところだが、何日もろくに物を食べなかった人間というものは、いきなりあれこれ並べても、胃が受け付けないものだということを、里沙子は経験から知っていた。
それよりもまずは、一食を完全に食べきらせて、自分は食べることができるという自信を持たせることが先決だった。仮に一杯のうどんで礼司が物足りなさを覚えれば、それはむしろ好都合というものだ。
小さなテーブルに向かい合ってうどんをすすっていると、礼司がぽつんと
「今日は……、来てくれてありがとう」
と唐突につぶやいた。
「なあに? 改まって」
「だって……、オレのためにわざわざこんな所にまで来てもらって、オレの話聞いてくれて……」
話を聞いてもらう以上に話を聞かされた礼司が礼を言った。里沙子は
「主人が亡くなった時あなたのお母さんに随分助けられたもの。今日はその恩返しよ」
と答えながら、五年前の悶絶に満ちた日々を思い出した。
急性胃炎を起こし、床に転げ回ってもだえ苦しむ里沙子の背を、さすってくれた温かい手。胃カメラを上手く飲み込むことができず、ゲエゲエと喉を鳴らし涎を垂らす里沙子を励ましてくれた力強い声。あの手と声の持ち主である妹に、今日自分は本当に恩を返すことができただろうか。自分が甥に示した態度は適切なものだっただろうか。
礼司は、伯母が壮絶な回想の中にいるとも知らず、噛み砕いたうどんをごくんと飲み込むと、「……そっか……」とぼそっとつぶやいた。
「でも今日ほど、主人に先立たれたことをよかったと思ったことは無かったわ。わたしにそういう経験があったから、礼ちゃんの痛みをちょっとは分かってあげられた訳だし」
「おじさんが死んだことを、よかったと思うの?」
「嫌な経験も、こっちの心がけ一つでよかったと思える何かに変えられるってことよ。もちろん今だって主人に生きてて欲しかったとは思うけど、そんなこと言ったって、現実は変えられないでしょう。だったら自分の気持ちをコントロールするしかないじゃないの」
里沙子が恬淡と語ると、礼司は
「おばさんはやっぱ強いよねえ。何つーか合理的だ」
と感心した。
「そうやって自分に言い聞かせてるだけよ。わたしから見たら、窮地に立たされた時に、ひとっ言も前向きな発言をしないで、ひたすらネガティブな思考に翻弄されてる人の方が、強いと思うわ。ダークな世界に自分を追い込んで生きてるってことだもの」
「でも……、いったんダークな世界の住人になっちゃうと、そこから逃れる方法があるってことにすら、気付けなくなったりするよ」
うどんの栄養が早速脳に行渡ったのか、突然鋭い指摘をした甥に、いささか面食らいつつ、里沙子は
「そうね……。わたしも主人を亡くしてしばらくはダークな世界の住人だったわ」
と、つぶやいた後
「その気付きも、蘭ちゃんが教えてくれたことの一つになるんじゃない? 人は突然の不幸に見舞われた時、手も足も出なくなっちゃう弱い存在だってこと。だから誰か悩みを抱えてる人に出会った時は、その人の弱さを充分に認めて、手を差し伸べてあげるべきだってことを、礼ちゃんは教わったのよ」
と微笑んだ。
丼を片付けようと立ち上がった里沙子に、礼司は
「オレが、やるよ」
と声をかけたが、彼女は
「いいわよ。今日くらいおばさんに甘えなさいな」
と断った。
食器をキッチンに運びスポンジを手に取った時、窓の外から部屋の中へ、虫の声が運ばれて来たことに里沙子は気付いた。
「もう、夕方なのね」
と言いながら里沙子が振り返ると、日の陰り始めた部屋の中、礼司はごろんと横になって目を閉じていた。里沙子は礼司に近づくと
「礼ちゃん、寝るならお布団で寝なさいな」
と声をかけた。
礼司は「う……ん……」とつぶやくと薄く目を開け、のそのそと奥の部屋に向かい、敷きっぱなしになっていた布団の中に潜り込んだ。ここ数日、ろくに睡眠もとっていなかったのだろう。ゆっくり眠るといいと里沙子は思い、そっとふすまを閉めてキッチンに戻った。
リーン。リーン。スイッチョン。スイッチョン。虫たちの歌声は先ほどよりも更に大きくなったようだ。丼とコップを洗いながら、虫たちの奏でる官能の調べに耳を任せていた里沙子は、小難しいことを考えずに己の肉欲に溺れることのできる虫ケラを、妬ましく思った。
虫はいいわよねえ。責任とか愛情とか人生とかそういう面倒くさいことを考えずに、シンプルに自分の本能に従ってればいいんだから。そう思ってハーッと里沙子が溜め息を吐いた時、奥の部屋からゴオーッという大地を揺るがすかのようないびきが響き渡り、彼女はびくっとして体を硬直させた。
ゴオーッ。ゴーッ。その地鳴りのような凄まじい音は、虫たちの奏でる音楽をあっという間にかき消してしまい、里沙子は唖然としてしばしその場に立ち尽くした。
ゴオーッ。ゴオーッ。その音にはひとかけらの情緒もありはしなかった。これが先ほどまで恋人の死を悼んで涙していた人間の発する音とは、里沙子には到底信じ難かった。里沙子は不意にプッと噴出すと、一人くすくすと笑い出した。
これが人間の音だ。これが人間なのだ。蘭を想い礼司が流した涙はもちろん本物だろう。けれどその後で発せられたこの力強い騒音。虫たちの恋のささやきをかき消す、無遠慮なこの音も人間の音、これこそ人間の命の音なのだ。
互いの体の、最も不浄な部分の結合により命を与えられた人間は、女の体の、最も汚らしい部分を通り抜け、猿のようにシワくちゃな顔を血まみれにさせたまま、やかましい産声を張り上げる。醜くも騒々しく誕生する人間の一生は、生涯生臭くかしましくそして何と力強いことか。わずかな命しか約束されていない虫の声の美しさとは対照的に、虫の数十倍の寿命を与えられた人間の発する音は、何と耳障りで力強いのだろう。
礼ちゃん、と里沙子は心の中で呼びかけた。
礼ちゃんあなたはわたしのことを、「強い」と言って散々羨んだけど、あなただって充分強いわよ。大丈夫よ。少なくともあなたは恋人と子供が亡くなった四日後には食事をして、そして自力で眠りを得てかくも頑強な音を発しているんだから。わたしなんか主人が亡くなって二ヶ月は、お酒無しでは一睡もできなかったのよ。
でもそんなわたしも、こうして苦しみを乗り越えたわ。人は自分で思っているよりもずっと弱いけれど、同時に自分で思ってるよりもずっと強い生き物だわ。人は嫌になるくらい醜悪で騒がしくて弱い生き物だけど、同時に強さも与えられているのよ。
里沙子は心の中でそうつぶやくと、もう一度くくっと笑い出した。人間の呆れるほどの弱さと呆れるほどの強さが、おかしくてたまらなかった。そしてもし死者の魂というものがあるのなら、蘭とその子供の魂も今頃笑っているに違いないと里沙子は確信した。
西日の陰り出した狭いアパートの片隅で、里沙子と蘭と子供の三人は、声を立てて笑い始めた。礼司は一人夢の中で、三人の笑い声に呼応するかのように高く低くふてぶてしい音を響かせ続けた。
過去に、実際に私の周辺で起こった駆け落ち事件をヒントに、8年前に書いた小説を手直ししました。
読み返してみると、最後の方の会話文が長いですね。もっと会話を減らしてストーリーを重視すればよかった気もしますし、どうなんでしょう?読んだ方、感想をお聞かせ下さい。