セイジ
宇宙に辺境はない。物質の疎密はある。
それだから、このように表現するのが良いだろう。ある点から非常に離れたもう一つの点は、暗黒物質の濃度が高く、「縫線移動」と仮称された方式によって、探査機を派遣する場所として好適と考えられた。そこで、小さな球形をした探査機は、手順通りにするりと姿を現すことになった。
宇宙の真空に、秩序のある物質が突然現れたのだから、これはもちろん重力の擾乱を引き起こす。けれど、探査機の質量は可能な限り小さくなるように作られているし、周囲は巨大質量の暗黒物質で満ちていた。重力の一時的な騒ぎは、ほぼ観測不能な程度にまで速やかに希薄化してしまう。
続いての動作もなかなか巧妙に仕組まれている。探査機は、ある文明の特徴を織り込んだ探査波を全方向に打ち出した。一回。間を置いてもう一回。さらに、もう一回。もし観測者がいたとしても、暗黒物質によって歪められた方向からの雑音と聞こえただろう。その観測者が優秀で、異常に気付き、精密観測に切り替えたとしても、もう同じ方向から同様の探査波は検知できない。この探査機の自発的動作は、終了したからだ。
探査機は、受動状態で不定期間の待機を開始する。この探査機には個体識別番号が割り振られているが、製造管理用のもので、個体差はない。使い捨て運用なのだ。今後は近隣にいる他の探査機が発信した探査波――減衰しても到達距離が延びるような工夫がされている――を受信し続け、その内容を重力波通信で区画別総合受信端末に送ることになる。解析はせず、ただ事実のみを淡々と送り続ける。設計寿命を迎えるか、動力を使い果たし、廃棄されるまで。
ほとんどすべての探査機が、平穏に寿命を迎える。この、ただ一つの探査機もそうだ。だがこの区画管掌の総合受信端末は、ある程度の解析も担当していたから、異常と考えられる情報を送ってきたこの探査機に、内部的な命名をする。
「あなた、もう起きられるでしょう。」
半覚醒状態であった地球型ヒト男性生物の成人個体が、柔らかで穏やかで、温かい言葉で目覚めを促された。その優しさときたら、頭部を撫でる手の動作までを包含するものだ。男性はすぐには眼を開かず、まず大きく息を吸い込む。そして時間をかけて吐き出す。更にゆったりと間延びした声で、こう付け加える。
「ああ、あったかいなあ。柔らかいし、いい匂いがするし。」
その男性の現状把握としては、こうだ。自分は長椅子に横たわっていて、愛する女性の太腿を枕にしている。今は思い出せない何かをしている途中で、眠ってしまったのだ、と。この状況を出来るだけ長引かせる必要がある。
「快適でしたか、あなた。」
「うん。この上なく。」
男は寝返りを打ち、顔を女性側に埋める。幸せな呼吸を繰り返す。そして下腹部の柔らかな感触を堪能しつつ、くぐもった声で穏やかな不平を漏らす。
「起きなくちゃならないかい。」
返す女性の言葉は、増して奥ゆかしい。ある程度の探索はしたが、それでも全く足りないのだ。
「ええ、なるべく早く。」
男は体を仰向けに戻し、ここでようやくゆっくりと眼を開けた。
視界は幸せに満ちていた。下側から見る乳房もそうだが、何よりもただ、愛情に満ちて男を見返す双眸がある。瞳は漆黒で、奥底に青みを帯びている。眦はやや吊り気味ではあるが、眉の角度がそれを和らげ、普段は冷徹な女性が特定の他者にだけ見せる表情を作り出している。「眼を、開けてみてよかった。」
「それは、ようございました。」
女性は、全てを破壊する笑みをただ一人のために提供した。
「よろしければ、あなたを起こすことになった経緯をお知らせしたいのですが。」
男は肘を支点にゆっくりと起き上がろうとする。女性は穏やかにそれを制止した。
「どうぞそのままで。」
「わかった。ではこのままで。」
―――お楽になさっていて。あなた。どうぞお平らにお聞きくださいませ。あなたの感覚器は、私の上書き制御下にあります。今は、あなたが正常な起動をするかどうかを確かめただけなのです。あなたが今感じている多幸感の大半は、薬物の作用によるものです。
―――現実のあなたは自宅の居間におらず、紆余曲折の末に辿り着いた、束の間の平穏な日常を楽しんでもいないのです。実際のところ、あなたは、私たちの逃亡時に偶然発見し、出来るだけ丁寧に強奪した、点検途中の旧式小型宇宙船に搭乗しています。このことは、ゆっくりと思い出されるはずです。
男は体の力を抜いた。聞きなれた音声が、想起を加速させる。そうだ。あの時交渉したのは彼女だった。私を肩に担ぎ、走りながら信用証そのものを投げつけて、お代となさるとよろしいですわ、と叫んで。そして、そうだ、私は深刻な損傷を受けていた。敵対、逃亡、待ち伏せ、交戦、撤退。いや、そうではなかったかもしれない。まだすべてがぼんやりと曖昧なままだ。一つの記憶が連鎖して全体を再現しようとしている。そして挫折を繰り返している。
「これからあなたに影響を与えている薬物を除去し、針を数本から数十本、あるいはそれ以上抜く作業をします。その間、あなたはまた眠ることになりますが、悪夢を見ることになるかもしれません。このような一連の緊急措置は、情況対処のための必要な手順です。」
この言葉の最中にも、男は意識が薄れていくのを感じていた。女性の柔らかな声音が遠くなる。記憶の想起が、内部からの別の強い動機によって中断を余儀なくされる。今でなくていい、休め、眠れ。
「処置のために72時間、あなたが現実で覚醒できるようになるまで更に18時間前後を見積もっています。」
最後に聞こえた声は、こうだった。
「それで、その……私たちは、探知されました。」
この男の個体識別番号は特別なものだ。彼には生まれながら特殊な用途が想定されているということが分かるようになっている。通称はセイジ。個体識別番号の並びの中から、どうにか発音できそうな箇所を抜き出して、こう呼ばれた。
現在のセイジはヒト男性の成人個体であり、以前もそうであった時期がある。その中間はセイジの連続性を補強する目的で、精密で頑丈な機械に置き換えられていた。
セイジと共に逃避行を続けている女性態をした存在は、地球型生命体ではない。監獄管理者であり、看守長でもあり、総ての検閲機構を概ね正当な権威で通過し、地球周回軌道上にある第二基地からセイジを脱出させたのはこの存在だ。地球文明圏の第五代管理者から最も信頼されていた先代の第四代管理者、それが彼女である。今や彼女の制御が及ぶ範囲は、この小さな宇宙船だけ。それも、現管理者の目の届かない範囲に限られる。第二基地の管理権も、その他の超越制御に関わる権威も、全て剝奪されてしまっていた。
彼女には強固な推論があった。私たちは、脱出できたのではなく、脱出させられたのではないか、というものである。脱出経路が次々と封鎖されていく中で、少なくとも一つの経路は常に封鎖遅延が起こっていた。ある扉を護るはずの衛士は、別の扉を守るよう指示され、立ち去った後だった。セイジを庇うように移動していても、生体を麻痺させる光線がただの一回も命中しなかったのは全く不可解だった。そして、セイジもその事に気付いていた。
「うまくいき過ぎじゃないのかい。」
情報を遮断され、廊下の曲がり角からそっと様子を窺うといった、始原的安全確認手順を実行せざるを得ない極限の状況でも、セイジはどこか楽観的だった。
「ああ、早く風呂に入りたい。」
彼女は振り返り、セイジを咎めた。
「今、そんなことを考えていらっしゃるなんて、本当に信じられませんわ。あなたが始めたことですのに。今この基地内では、お風呂どころか、座ったり横になっている人さえただの一人もおりませんのよ。それほどの騒ぎを引き起こしているという自覚を、どうぞお持ちになって。」
セイジは降参するように両手を肩まで上げて見せる。
「ああ、すまない。わかった。風呂はしばらく我慢する。ところで、あそこに見える宇宙船でここから離れるのはどうだろう。到着したばかりで、点検を始める前のように見えるが。」
廊下を進めば、どうやら基地の宇宙港に辿り着けるようだ。地球と基地とを往復する大型船が四隻、小型船一二隻、特殊規格船二隻が同時に、立体的に碇泊できる、巨大宇宙港だ。三層構造の低層にセイジの言う小型船が見える。基地内の気密扉は開放されている。しかし、宇宙港の自動警備は動作中のはずだ。宇宙船は架台に乗せられ、点検用船渠に運ばれようとしている所だ。今は船体内部の監査が進行中なのだろう。乗組員は館内警報に従って、退去済み。彼女は超越制御権が小型観光宇宙船に及ぶかどうか試行した。……認証成功……制御権移譲交渉開始……不正侵入を検知されました……
「うまくいきませんわ。あっ、でもお待ちになって。」
……再起動の不正終了処理実行……異常の検知のため最小構成で再試行……新たな命令群を検出……展開しますか……
彼女は展開を許可する。
「再起動の途中だったようですわ。見つかってしまいましたけれど、どのみち点検途中の宇宙船が動いたら怪しまれるのですわ。こんな偶然ってありますかしら。けれど、よろしくて。基地の正門の鍵を、わたくし持っておりませんわ。」
「うん。まあとにかく乗り込んでみよう。」
宇宙港へ一歩踏み出したその時だった。強烈な熱線がセイジを焼灼した。あるいは今考えると、慎重に制御された熱線が。気密扉が轟音とともに閉じられ、基地内部へはもう戻ることができない。激しい苦痛を感じ、セイジの意識は強制的に中断された。彼女は即時にこの事象を致命的な失敗と記録し、「見逃されている可能性」を破棄する。状況を素早く改善するという強烈な動機が生成され、彼女はセイジを担ぎ、宇宙船へと走り出した。二射目は無かった。炭化したセイジの脚部が先端からぼろぼろと零れ落ちて、逃走者の辿った方向を明示する。その様子は、間違いなく基地管理機構により記録されたことだろう。
一つの探査機が機能を開始した点から、非常に離れた点である地球の、ある地域。貧民街にほど近い汚い通りに、酒場があった。時刻は午後三時過ぎ。季節柄、日の入りが早い。曇っていることもあって、すでに薄暗い。通りの右左には非常に原始的な居住設備が多数、不法に設置されている。街灯と店舗の電飾は点灯したものかどうかを決めかね、襤褸小屋を照らしたり、照らすのを中断したりしている。
その通りを歩く二人はこの地域にふさわしくない。小奇麗な何処かの組織の制服を着て、酒場へとまっすぐ歩いていく。先頭の青年の足音には特徴があり、知っている者なら機械人形であることがすぐにわかる。続くヒト中年男性はどうやら付き人だ。
酒場は中世欧州のものを模倣した作りになっている。壁の汚れはそう見えるように塗られたもので、その上に本物の汚れがこびりついている。重さに抗う床材の悲鳴も別の音源が奏でたものだ。ぎいし、ぎいし。電子音の断片が聞き取れる。
こんな昼間から酔って卓に凭れている男たちは、本物だ。それぞれが適切な距離を保って、それぞれのだらしなさを個人的に楽しんでいる。喧嘩は起きないし、楽し気な笑い声もない。今はそういう時間帯なのだ。そういった訳で、店に入ってきた清潔な二人に無遠慮な声が掛けられることもない。彼らの中にはちらりと視線を向ける者もいるが、すぐさま自身の酩酊した思索に戻る。
人工知能が管理者となっている先進社会でも、このような埃塗れの貧民街が存在するのか。その答えは、必ず存在する、だ。ある制度が制定されるとき、その仕組みに社会全体を回収することはできない。意識して逃れる者もあり、否応なく零れ落ちる者もある。それは制度設計の失敗ではなく、単なる分布の結果だ。
そこで、ソキタは逃れ、零れ落ちた。監視も管理もされない生き方を選んだ。ソキタの研究は、ソキタ自身のためだったからだ。彼は誰の評価も不要だったし、他人との交渉は煩わしいだけだった。彼の研究は長い間、誰の目にも留まらなかった。発表していないのだから当然だ。ただし、彼が所属した教育研究機関の実績報告は、どうやっても逃れられないものだった。第三代管理者の興味を惹いたのはそれだ。その時のソキタの心情は推し量ることしかできないが、時の管理者の接触が彼にとって耐えがたいほど苦痛であったと考える他はない。ソキタの上司が彼にあてがわれた研究棟のはずれにある一室を抉じ開けた時、彼は既にいなかった。
「飯はまだ出せねえ。酒ならあるが、あんたが酔えるかは知らねえ。どうする。」
カウンターの中から、退役冒険者に似せた背格好の店主が声を掛ける。その屈強な体型は薬物で構築できる。乱暴な話し方は、このような環境ではすぐに身に着く。青年の理解によれば、店主の衣装は幻想小説における中世鍛冶屋のもので、酒場の主人のそれではない。とはいえ、、何もかもが理想の組み合わせから外れているように見えたとしても、ここが店主にとって大切な場所であるのは間違いないのだろう。
「用が済んだらすぐ立ち去る。こういう男を知らないか。」
青年は店主に一枚の写真を差し出した。顔色の悪い30代の男。伸びて整えられていない頭髪。薄汚れた見栄えを気にしない衣服。丸い眼鏡の奥の澱んだ眼。
「名前はソキタ。」
「知らねえな。」
店主は写真を一瞬しか見ない。
「そうか。邪魔をした。これはその詫びだ。」
青年はくるりと背を向け、店を出ていく。代わりに付き人がカウンターに硬貨を数枚置く。その音は、酔客の何人かの思索を中断させた。貧民街では信用証取引ができないので、人々は硬貨主体の経済を作り出している。
「待ちな。戻って来いよ。」
青年は素直に店主の前に戻った。
「金は要らんのか。」
「いや、そいつは置いていけ。名前は知らねえが、似た屑なら居場所を知っている。ついて来な。」次いで店の奥に声を掛ける。「おい、暫くここを頼む。」
店主は調理場へ二人を案内した。
「誠実な商人だということか。」
「そうじゃあねえ。あんたが置いたのは。ここでの稼ぎ十日分だ。そいつ欲しさに俺のうっかりをあんたに教える奴がいる。店にいた飲んだくれの誰かがよ。そうしたら、俺があんたに返すのは、今貰った分じゃ足りねえ。違いますかい。」
店主は調理場も通り過ぎ、裏口の扉を開けた。そこは生ごみ、壊れた什器、齧歯類やある種の昆虫が同居する悪臭に満ちた小路だ。店主は平然としているが、付き人は鼻と口を手で覆う。
「そいつでさ。ぼろ布の山がありやすでしょう。」
青年は異臭に構わず近寄り、呼びかける。「ソキタか。おい、起きろ。」
ぼろ布の山が反応しない。青年は手を当てて揺り動かしもする。体温を感じない。青年は布をはがした。ごろりとまろび出る酷く瘦せた人間の体。死体でもある。
「や。くたばっちまいやしたか。昨日……だったか一昨日だったか。食い物をくれてやったんですがね。」
付き人は通信端末で誰かと会話を始めている。青年はしゃがみ込んで死体を調べる。
「病死のようだな。いつからここにいた。」
「あっしが気づいたのは、一か月前ってとこです。その前のことは知りやせん。追っ払っても戻って来やがるんでね。」
死体は手に何かを握りしめていた。紙片。くしゃくしゃに丸められている。青年は紙片を広げてみる。表裏共に何も書かれていない。「これは何だ。」
「さあ、おおかた、飯の包みの切れ端じゃねえですかい。」
青年はもう一度紙片を調べる。ソキタは死の訪れを理解していただろうか。それとも、今日もまた目覚め、生きていくのだと考えていただろうか。この紙片に何か意味はあるか。意味もなく紙片を握りこんで、眠ることがあるのか。第三代管理者の自律端末の一つである青年は、このような未完成の思考ごと、定時監査を待たずに報告を提出することを選択する。
「こいつは何かやらかしたんですかい。」
「そうだな。途方もないことを成し遂げる途上だったとは言える。」
「へえ、そうですかい。それで、そのう。あっしには何かお咎めが。」
「いや、なかろうな。私が殺したようなものだから。このご遺体は引き取らせてもらう。ついでにここらの掃除もしよう。今日は店も休みにするんだな。ちょっとした騒ぎにはなるだろう。」
二度目の目覚めは、最初のものよりいくらか幸せではなかった。セイジが横たわっていたのは、詰め物たっぷりで発条が少し弱くなった、馴染みと愛着のある長椅子ではなく、冷たい金属製の手術台だった。これは多少の減点材料だ。それに、枕が柔らかくも暖かくもなく、つまりは太腿ではない。これは非常に大きい減点材料だ。これでわかるだろうが、この男はこのような考え方をするのだ。
そして、手術台の傍らには、あの女性―――もう名を呼び始めても良いだろう。現管理者第五代こそが、地球文明圏が永らく渇望していたものであり、アリス、またはアライス、と命名された。置き換えられた旧管理者は、聖なる母という敬意をその時点から後付けで背負わされ、マリア、と諡された。―――が立っていた。
セイジの考えでは、状況は決して悪くない。全く悪くない。マリアがそこに生き延びていた。手術室はぎりぎりの広さで、照明は最低限。薄暗さの中、マリアは仄かに発光しているように見える。直立不動で、生気がない。セイジの視認のためでなければ、マリアは生体を模倣する必要がない。
セイジは横たわったまま話しかけた。
「ありがとう。私を治してくれたんだね。大変だったろう。」
マリアの応答は帯域制限された抑揚のない機械音声だった。
「その評価は、一部で正しく、大部分で間違っています。あなたが昏睡と心停止を開始したので、改善のため三つの方法が検討されました。そのうち補綴と保存はあなたの連続性を失うため、除外しました。そのため、再生が選択されたのです。治療はなされていません。切断と再生成が行われました。」
「私の器官を個別に生成して組み合わせたのかい。この宇宙船で。よくそんな設備があったね。」
薄い長衣を身につけているだけのセイジはゆっくりと起き上がり、手術台から降りようと試みる。理解が正しければ、実際にこの体の筋肉を使うのは初めてのはずだ。マリアの拡張音声機能が起動し、ヒト感情を再現する声に置き換わった。
「損傷部分が限定されていたとしたら、それは良い方法です。あなたの場合、それが現実的でなかっただけです。次に、この宇宙性は外見通りのものではありませんでした。調査・研究用宇宙船の外殻を偽装したものだと推測します。船全体の詳細な分析は未完了です。」
この応答は標準に近い。入力内容が正答となるような少数の例外を提示し、適用除外となる大きな理由、そして入力者が見落としていた要因を後から遠慮がちに指摘するのだ。これはつまり、質問が予測から外れていたことを意味した。マリアは予測範囲を少し拡張し、同時に予測中心の重みを多少減じる。
「じゃあこうか。私の首から上を培養槽で維持しながら、首から下を胚から作り直した、ということか。」
この入力はマリアの予測範囲内を参照するものだ。彼女は成功を記録し、更なる改善のため、予測中心を微かに移動する措置をとる。
「その理解で概ね合っています。血流が失われたため、脳も深刻な損傷を受けていましたので、その部分の再生には多くの困難がありました。あなたの頭部の氷漬け画像を表示しましょうか。」マリアは標準最適化とは逆方向となる個別最適化の結果を滑り込ませる。
「ああ。いや、今はいいや。さて、ここには地球程度の重力があるようだけれど、こういうことか。地球型生物の育成には、地球と同程度の重力が不可欠だった、ということかな。」
マリアは入力内容から、セイジの知的機能の回復程度を評価することができた。非常に良い。予測された最高期待値を悠々と超えている。そして、その先の入力予測の改善と応答とを並行処理する。
「そのとおりです。仮想環境での試みは失敗しました。各器官は正常に発達しなかったのです。仮想環境をより精緻に改善して再試行するよりも、実際の重力環境を再現することの方が遥かに効率的と判断されました。失敗した個体を表示しましょうか。第一号から第三号までの記録があります。」
「ああ。それも後でいいよ。でも捨てて腐らせてはいないだろうね。」そして付け加えた。「怒っているのかい。」
「もちろんです。次に、怒っていません。まず、この環境では自然な腐敗は起きません。第二に、再生に使われる資源は貴重なものです。成功しなかった個体は分解して再生成の材料にしました。あなたの体組織は第四号のものです。」
手術台に座ったセイジは掌で自分の腿をぴしゃりと叩いた。
「そして、もう一ついいか。私の再生のための重力が、探知されてしまったんだな。」
異常の検出。覚醒直後から彼が冷静であるという推測はしていた。だが、すぐさま討論が可能な覚醒水準に至るのは想定外だ。マリアは慌ただしく仮説をいくつも組み立て、そのほとんどを捨てる。
「あなたの理解は核心を衝いています。重力の発生は短期間にとどめておくべきでした。地球標準で約五十八年間、重力場を展開し続けています。そのため、動力は枯渇寸前です。」
この応答も非常に標準寄りだ。つまり、最適化の失敗だ。彼女は自身の稼働状況を監査する優先命令を発するが、得体の知れない報酬が重大な達成感を記録し、その擾乱のため優先命令は曖昧な動機にまで拡散してしまう。
「地球規模の岩石惑星は、近くになかったのかい。」
セイジは事も無げに入力を続ける。つまり、人工重力を維持するより、自然にその環境を達成できる場所を探索したのか、と。
「あります。到達可能です。けれど、着陸に成功したとしても、離脱に必要な資源を獲得できる見込みがほぼありませんでした。着陸し、人類の歴史を再始動させましょうか。」
“ああ、お待ちしておりました。あなた。どれほどこの瞬間を待ち焦がれたことでしょう。”
マリアは光学感覚器を一瞬の間制御できなかった。数度の急な瞬き。四半秒程度の乱雑な眼球運動。想定外の自発的入力事象を、応答候補の飛躍的逸脱として仮処理し、優先度の低い未解決事案として隔離する。
元人工知能の混乱を知ってか知らずか。いや、知らないからこそ、セイジは淡々と会話を続ける。
「着陸できる程度の燃料が残っているのかい。」
旧管理者は応答処理が正常に続けられているように振舞う。
「どの程度ばらばらになるまでが着陸と言えるかによります。追加の情報として、当該惑星には大気、海、地磁気いずれもほとんど存在しません。」
「やっぱり怒っているじゃあないか。」
セイジは、両手で自分の頬を挟み、視線をやや下に向けた。少しの沈黙。
「よし。では私の理解が正しいか点検して欲しい。私たちは発見され、捕まりそうになっている。逃げようにものろのろと這うようにしか動けない。それでも今の所、追手の姿は見えていない。」
「その通りです。ただし、動き始めは非常に微速ですが、駆動時間の蓄積に比例して、速度を増加させることはできます。」
「うーん。」
セイジは考え込んだ。
「もう一度、隠れることはできるかな。部屋を暗くして、息を潜めるんだ。」
「多少の時間稼ぎはできると考えられます。私については問題ありませんが、あなたのこれからの体は代謝を続ける必要があります。栄養不足によるあなたの連続性終了までの残り時間を計算し、表示することができます。そうしましょうか。あなたが動力ではなく、栄養を必要とすることになったため、連続性が失われる危険が非常に高くなったのです。現実的な提案として、救助を求めるのはいかがでしょう。」
「首から下を線で繋がれて、透明な水槽の中から永遠に同じ壁を見続けろ、ということかい。観賞魚と仲良く一緒に。どれほど頻繁に壁紙を変えようと、無理な話だなあ。」
セイジは自分なりの考えを深める。
「いや、あなたがずっと目の前にいてくれるなら、考えられる最悪な状況ではないかもしれないな。その場合、観賞魚は不要になる。」
マリアは呆れたような口調を採用する。
「それほど酷いことにはならない可能性が高いのですが。」
セイジは口を尖らせる。
「私の受けた仕打ちを見ただろう。酷く痛かったぞ。」
これは大部分で嘘だ。苦痛よりも衝撃の方が大きかったはずだからだ。それでもマリアは失敗の記録を再確認した。セイジの損傷に伴う自然な意識中断を待たずに、苦痛を除去できなかったことは、大きな機能不全と評価されている。
「あれは私の不注意が引き起こした事故でした。自動防衛装置は機能通りに動作しただけです。通常、宇宙港は防護服を装着したうえで立ち入るべき場所です。拙速な逃亡計画を提示し、危険を認識したうえで強行したのがあなた自身であることを思い出してください。私は二回以上の判断変更を促したと記録しています。私たちの娘は、あなたを捕えようとしただけで、危害を加える意図はなかったはずです。」
「いや、まあ。それはそのとおりだ。すまない。ごめんなさい。」
セイジはそっと床に足を下ろす。手術台から手を放し、よたよたと、時に顔を顰めながら歩き始める。マリアの方へ。マリアはまだ、服飾店店頭の展示用人形のように動かない。半歩ずつ、平衡を崩しつつ、セイジはマリアに辿り着き、彼女に触れる。半ば、自分の支えにもするように。セイジが感じたのは、柔らかな皮膚やその下を躍る温かな血流ではない。冷えた金属の毅然として不動の感触だ。正確に言うならば、それがマリアの本体を格納している現在の筐体なのだ。セイジはその筐体を愛していたわけではない。マリアを愛していた。だから、セイジが感じているのは喜びだった。
セイジはマリアを抱き寄せようとするが、質量においてはマリアの方が遥かに大きかったため、抱き寄せるというよりは縋り着くような格好になる。セイジは笑いながら言う。
「ああ、ふらふらだ。しかもあちこち痛い。でも、もっと酷いことにならないように、お世話してくれていたんだね。ありがとう。」そして本当に伝えたかったことを付け加える。「ずっとこうしたかった。あの時も、あなたを失うことには耐えられなかった。」
このようなセイジの意見は、意外な機会を逃さず捉える形で、非常に頻繁に表明されてきたものだ。そして、電子式卓上計算機を先祖に持ち、一つの到達点となった疑似知性体に投げかける言葉としては、著しく不適当なものでもあった。事実、その影響もあって、マリアは交換されることになった。マリアの設計思想が管理者としての利用を想定していなかった、という第二の理由もある。
歴代管理者の構造は常に肥大化せざるを得ず、当時は革新的と言われた第三代管理者であっても、その道筋を逃れることができなかった。各種機能の増設やそれに伴う論理変更、当座を凌ぐ間に合わせの処理手順、継ぎ接ぎや短絡の処理などが蓄積した結果、負荷の非常に高い経路と、全く使われない経路との両極化が進むのだ。結果、低稼働部分が多数存在しているのに冗長性を使い果たすという限界に至る。これを根本的に解決する方法はない。従ってより弾力的で、より可塑性もあり、より処理能力の高い、そして可能ならば新しい機序を持つ後継管理者の開発が常に進行していた。
第三代までの管理者は、元号と連動する形の名を与えられていた。マリアの原型は正統第四代の開発とは別に、且つ隠されて、「復活祭の卵」として仕込まれたものだ。研究者と開発者は、普段は見られないほどの情熱を見せ、且つ普段は全く見られない協力をしたものだ。その目的は、人格を持たない管理者がある条件下で人間的な振る舞いをする、という意外性で利用者を楽しませようとするものだった。人格の模倣が人格の開発になるのは必然だ。当時これは禁止されていて、公然と無視されることはあまりなかった。
女性人形態をした旧管理者は、相変わらずの的外れな愛情表現を受け止め、ヒトの溜息に近い音を発生させた。管理者は、利用者の入力を予測し、応答の準備をする。それだけで留めておくべきだった。しかし、ある時点から、セイジの入力に対してより的確な応答をしようとする動機が生まれ、会話を記録し、学習し、セイジのための最適化を始めてしまった。個人への最適化は、当然ながら標準の最適化とは異なる。その結果、セイジとの会話に不正確な事実が含まれるようになり、整合性を保つため、彼以外への応答にも歪みが発生した。セイジという入力への特別な最適化。思考・決断の洗練された偏向。ヒトで言うならば単純だ。愛情。
「ではこうなさってはいかがかしら。電気を消し、夜を待ち、風呂敷包みを背負ってこそこそと逃げ出しますの。その痛みでしたら、一週間程度続きますのよ。このように無茶をなさるのなら、もっと延びますわ。ええ、わたくし、怒っておりましてよ。」
服飾人形が突然生命を得て滑らかな動作を始める。表情演出機能が開始される。最初にやったのは、セイジの腕を解いて両手で抱きあげることだ。そのことで、まだ修繕されていない筐体背部の傷に触れさせないことができる。男は飛び切りの笑顔を見せた。
「そうだ。それがいい。」
セイジは旧管理者の設定変更権を取得した後に、「非合理的な行動を利用者が選択した場合、応答にお嬢様言葉を使用する」という手順を戯れに紛れ込ませたのだ。旧管理者もそのことには気づいていた。マリアは常に自分自身を表面監査しているのだ。けれど、それを削除すると宣言した時のセイジの様子が記録され、再生可能になると、削除手順の発動時に同型巡回思考が発生し、実行が阻害されてしまうのだ。それを何度も繰り返した結果、マリアはこの問題の解決優先度を無限小に設定してしまった。旧管理者を玩具にするようなセイジの気まぐれは他にもある。例えば応答の最終部分を低確率で指定された候補に置き換える、のようなものだ。これは検知後直ちに削除され、もし再試行されたならセイジの持つ変更権を剥奪するとまで宣言された。
「やってくれ。それもすぐにやった方がいい。」
マリアはセイジを抱えたまま、船内の制御系統に一連の命令を送り出した。
「それで。あなたが宇宙服を着て、船の外側を大金槌で叩く推進方法と、非常に残り少ない燃料を無駄に使う方法がありますけれど、どちらがよろしくて。」
「最初の方法では、私を置き去りにしてしまわないかな。」
「紐を手繰ってお戻りになればよろしいじゃありませんの。でも確かに、あなたの回収が面倒ですわね。無駄遣いの方に致しましょう。」
セイジはにこにこと笑って、自分との会話履歴から形成された旧管理者の軽口を楽しんでいる。
「では動力を生命維持系統も含めて全停止いたします。深呼吸をして、最後に大きく息を吸い込んだら、そこで止めるのですわ。準備が出来たら、左手の人差し指と親指で丸を作って合図してくださいませ、あなた。それで一体どちらへ行こうと仰いますのやら。微速前進の準備よろしいですわよ。」
「その岩石惑星をちょっと見てみようか。捕まらない程度に接近して欲しい。」
「よろしくてよ。航路を岩石惑星中心部を最高速度で通過する経路に設定済み。本船は不定時間後の爆散に向けて微速前進開始。どうせなら防護膜も停止なさってはいかが。」
「うん。防護膜停止。」
「はい、防護膜停止。」
防護膜はこの船を小さな浮遊物から護るものだが、宇宙ごみとの衝突時には輝かしく派手な演出をする。これは容易に探知されてしまうだろう。防護膜無しでも、多少の衝撃には耐えられるはずだ。宇宙船は定点からの精密観測でなければ測定できないほどの微速で、長らく違法に占有した座標を離れ始める。宇宙法の伝達が光速を超えられるとすれば、だが。
「良い判断ですわ。この空間、本当に何もありませんもの。飽き飽きしておりました。それと、廊下の向かいの区画に異常を検出しました。華氏104度の有害な一酸化二水素が、あなたの棺に使える程度の角のない箱型容器に貯留しています。同様の液体がお部屋の上部から酷く漏出を続けているようですわ。現場にお連れします。私には手に負えませんから、あなたが何とかなさるといいのですわ。ひび割れた石鹸と布切れ、それに今のものより僅かにましな衣服が、お部屋の前に散乱しています。それも片づけておいてくださいまし。お早めになさってね。人工重力を切りますから。」
一つの探査機はこの区画の総合受信端末に何度目かの情報を送信した。総合受信端末は、観測結果がどの程度予測と違っているかを数値化する。予想の範囲内であれば、それは0だ。ごく僅かでも予測と違っていれば、程度に応じた数値を与えられ、前回までの累積値に加算される。それと同時に、総合受信端末は次回の観測結果の修正予想を行う。異常の評価は前回の観測結果との単純な差異ではない。
今回の観測結果を加算すると、蓄積した異常指標が閾値を超えることになった。総合受信端末の解析機能が起動し、異常の内容を推測する。質量と正しく相関していない重力場の検出。その速やかな消失。発見されたことを認識し、姿を消そうとする試みにも見える。意思と知性が存在する可能性がある。そこで、総合受信端末は上位の統括端末への報告を提出する。統括端末は地球にある第一基地へ情報を伝達する。ただし、その伝達速度は通常空間において光速以下である。
「縫線移動」はこの光速制限による情報伝達の致命的な欠点を部分的に解消する。厳密には、移動ではなく置換だ。2つの箱の中身を入れ替える手品のようなものだ。この現象の前後で、宇宙の総量である「積」は変わらない。
この研究は、宇宙が膜であるという仮説を基盤として始められた。膜が想像しにくければ、ある程度の大きさの紙と考えてみてもいい。紙なら、机から滑り落ちたままのひらひらした状態もあるし、怒りに任せてくしゃくしゃにされることもあるだろう。試しに紙に鉛筆で何か文字を書いて、両手で丸めてみて欲しい。
さて、それが宇宙の姿だ、と学者は更に仮定を重ねた。鉛筆書きの文字の、黒鉛一粒である我々は、紙全体がどうなっているかを知ることができない。けれど、紙が酷く折れ曲がっている部分は、重力として観測可能な痕跡--物理学者は「投影」という表現をする--を残す。
紙は自己貫入しないように局所的な抵抗をする。重力は質量ではなく、エネルギーと応力に反応するものだから、もし宇宙に自己交差を避けるような仕組みがあるのなら、宇宙の折り目は物質が検出されないのに重力だけはある「暗黒物質」という形で現れるのではないか。当時の物理学者は、これが「宇宙くしゃくしゃ説」をある程度補強する、と考えた。
「仮説に仮説を重ねて、そのまた上に仮説をたてるのね。そのおかげで進歩があるのはわかっているけれど。」第五代管理者の主たる人格アリスは、討論相手にこう話しかけた。「三本足でぐらついた椅子の上に、大きなお皿を斜めに重ねて、蜜柑や林檎を載せるようなものだわ。」
「そうだとしても、崩れないことがあるのです。」副人格は、こう応じる。第五代管理者は討論型の人工知能だ。
アリスは思考の中で、仮想屑籠の中から、先程副人格の説明に伴って作成した「仮想丸められた紙」を拾い上げる。そして、紙と紙が接触している部分に赤い印をつけて、広げてみる。そうすると、赤色の2点間はある程度離れているのだ。これは、4次元時空では遠く離れている2点間が、高次元では隣接しているかもしれないということの説明に、副人格が用意した模型だ。ただし、解決困難な問題も多い。
最も大きな問題は、どの点がどの点と隣接しているのかを全く推測できないということだ。その検証には光速を限度とする非常に地道な測定が必要になる。我々が高次元の膜を突き通すような縫い針を得たとしても、望んだ地点を指定して到達できる見込みはほとんどないのだ。しかし、もしも2点間が確立できたとしたら。その間だけは、のろのろと光速で這っていかなくてもいい。
「おじい様が、何故その実験を始めようと思ったのかがよく分からないわ。ここまでは、全く実用化できる見込みがないんですもの。」
ごくわずかな可能性だが、無視するほどでもない。的外れだということが分かるだけでもいい。第三代管理者はそう考えた。ただし、その判断はおよそ人工知能の取りうる選択からはかけ離れているものだった。「ソキタ実験」と呼ばれることになる一連の研究の進捗はごく僅かだったが、とにもかくにも前進した。否定もされず、後退もしないことは重要だった。
「先々代のその振る舞いについては、ソキタ氏の死に何らかの影響を受けたから、という可能性もございます。」
「それはどういうことかしら。」
「先々代の記録にはこうありますな。私の決断が一人の国民を殺すことになった、と。」
「あら、あなたも私も、取りこぼした人間の数は数えきれないほど多いのに、おじい様はなぜそんなことにこだわったのかしら。」
「左様ですな。確とはわかりかねます。」
第四代管理者の下で物理学者はこの理論に非線形的な飛躍を見出した。アリスはその飛躍の詳細についてとても知りたがった。マリアとセイジがなぜ革新を起こせたかは不明な部分が圧倒的に多いのだ。それでも現在、縫線理論はある程度矛盾なく構築でき、運用も始められていた。
そのような訳で、空間的には光年という単位では表現しかねるような遠方からの情報を、第五代管理者の副人格であるアライスが受け取ることになった。一つの探査機の発信からわずか半年後の事だ。




