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第八章 アメリカ帰り

アメリカ留学から来原彦太郎たちが帰国して東京開成学校に入ります(のち彼は木戸孝允の木戸家を継ぎます)。アメリカで本場のベースボールを学んでいた彼は、さっそく学校で指導者のように技術を伝えます。そんな中、第二回海外留学生派遣に杉浦重剛が選ばれ、ウイルソンの提案で、横浜居留のチームと親善試合をする事になります。いよいよ、日米初のベースボール試合に向けた動きが始まります。

 カーン。

 乾いた音が、東京開成学校の校庭に響いた。午後の講義も終わって、誰かがバットとボールを持ち出してさっそくベースボールを始めたらしい。心躍る思いで豊太も校庭に出てみたが、様子がいつもと違う。校庭では見慣れぬ三人が、一人はバットでボールを打ち、残りの二人がそれを追いかけている。それを少し遠巻きにしていつものベースボールをする連中の何人かが眺めている。バットを手にしていた生徒がその様子に気付いて「どうです、一緒にやりませんか?」と声を掛けて来た。豊太に遅れて山岡義五郎もやって来たのだが、右手でバットを肩に担ぎ、左手にボールを持っていた。

「あー!」

 声を上げたのは、バットでボールを打っていた生徒である。山岡に向けて指差しているのだが、それは明らかに山岡の手にしている道具に向けられたものであった。

 小村達の海外留学と入れ替わるようにしてこの三人は入学して来た。バットを持っていたのが来原彦太郎、後の二人が大久保利和、牧野伸顕で二人は兄弟である。来原彦太郎は安政四年生まれの十七歳、大久保利和は豊太と同じ安政六年生まれで、牧野伸顕は二歳下の文久元年生まれである。この三人、薩長の重臣の血縁で、来原彦太郎は長州藩の総帥であり参議木戸孝允の妹の長男で弟である正二郎は木戸孝允の養子になっている。大久保利和は薩摩の総帥内務卿大久保利通の長男、牧野伸顕は次男で、生まれてすぐに大久保利通の義理の従兄弟である牧野家に養子に入り牧野姓となっている。明治四年、この若き三名は岩倉使節団に随行して渡米、期待を背負いそのままフラデルフィアの中学校に学び、この度帰朝して東京開成学校に入学したのである。このフィラデルフィアでベースボールに親しみその面白さに熱中した、何よりバットとボールを持ち帰ったのがその証でもあった。

「ほー、ボールを三つも。どれどれ、いや本場アメリカのボールを手にするのは久々だなあ」

「バットも、いつ折れるか心配しておったからなあ。いや、嬉しいなあ」

 自己紹介もそこそこに、道具が彼らの距離を一挙に縮め、自然とキャッチボールが始まり会話も弾む。

「え、このボールが国産?」と来原が山岡を相手に驚くので、その経緯を話して聞かせると、「神田の靴屋もなかなかの腕前ですね。僕達が持ち帰ったものと遜色ないですよ」と手にしたボールをしげしげと眺めた。

 この帰朝した三人のうち、自然と年長の来原が中心となってフィラデルフィアの中学で自分達が夢中になったベースボールゲームの様子を話した。

「スローで投げては駄目なのだ、ボークを取られるぞ。ピッチ、投げ与えるのだ、腕を曲げぬように!」

さっそく熱心な指導が始まり、身振り手振りを交えながらの説明に英語が混じるので、聞いてもよく分からないことも多々あった。が、ピッチャーの久米祐吉は、「こうか?」と下手から振り子のように腕を曲げずに投げて見せる。彼は古市公威と同じ嘉永七年生まれで、山岡義五郎と法学予科第一級で机を並べている。年長という事もあって、体力は一番あるし、ボールコントロールも良いのでピッチャーをする機会が多い。

「そうそうナイスピッチ」とバットを持って打席から来原が頷く。ワンバウンドしたところをキャッチャーの豊太が捕球し久米にボールを返す。なまずことウイルソンは、あまり細かな指導は行わず、生徒が楽しめればそれで由とした。これまでは、ウイルソンを真似たり、自己流でやっていたのだが、東西対抗戦などゲームをやるようになり、神田界隈から見物人も大勢あつまるようになると、俄然向上心も湧いてくるのが人情でもある。来原の指導に熱心に耳を傾けていたが、「僕も見てくれ」と希望する者が増えた。

「んー、では僕が打ちますから皆さんの守備の様子を見せて下さい」

 この日は十一人集まっていたので、来原がバッターで、牧野伸顕がランナーとなってファーストベースに向かい、他の者は守備位置についたのだが、一番運動量の要求されるショートに山岡がつくと、「ほー」っと来原は感心したようにその姿を眺め、センターが誰も居なかったので、「利明、センターを守ってくれ」と指名した。

「伸顕、いつ走ってもいいぞ」と来原は声をかけると、キャッチャーの豊太は緊張した。牧野が盗塁をするとセカンドにボールを投げるのは勿論豊太である。この頃のルールは今と違って、ピッチャーはどういった体制からでも牽制球を投げる事が出来たので、ランナーはほとんどベースに釘付けとなり盗塁の成功率は低かった。それでも、キャッチャーが素早くセカンドにコントロールよく投げる技があっての話ではある。さっそく久米がボールを投げると同時に牧野が走り、来原はバットを振らず見送る。両手で捕球した豊太は素早く左手でセカンドに投げると、ボールはベース上に立っていた佐々木忠次郎にワンバウンドで渡った。

「アウトだ!」

 来原は審判も兼ねている。牧野はそのままファーストベースに戻りランナーを続ける。

「君、いいボールコントロールだね。あ、でも君はサウスポーなのだね、ショートは無理があるなあ、残念だ」

どうやら、豊太にショートを守らせてみようと一瞬思いついた様子であったが、叶わぬと思ったのか、如何にも残念そうであった。今と違って、守備は各々ベースを守っている者が置かれているベースから離れる事はしなかったので、内野ゴロはショートが処理する機会が多かった。後年「遊撃手」と和訳されるのも頷けるがそれだけ運動量が要求された。左利きは補給してファーストに投げる際に不利になるので、右利きの者が適任であった。来原が残念がるのは、豊太の肩とコントロールの良さを惜しんだのである。

その後も器用に来原は右に左に打ち分け、牧野はベースを回った。内野ゴロは山岡が捕球する機会が多かったが、どうにもお手玉が多く、また送球も逸れる事が多かった。

「カキーン」と快音を残して打球は大きな放物線を描いてボールがセンターを超えて行った。

「いやー、済まない。ついつい力が入ってしまった」

 そう声を出して、豊太に向けてペロッと舌を出した。と、その時である、ボールがノーバウンドでホームベースで跳ねて豊太がしっかりキャッチした。そこにランナーの牧野が走り込んで来たので豊太はタッチしたのだが、驚いたのは来原である。

「アウトだ。ナ、ナイスバックホーム!」と、センターの大久保に大声で叫んだ。

「違う違う、僕が返球したのでは無い、彼だ、青山だ」とセンターを守っていた大久保が声を返して直接ホームに返球した学生を指差した。遠目に見ても体格がよさそうで来原には何か感じるものがあった様子である。

「伸顕、センターを変わってくれ、そして利明にバックホームした彼を此処に呼んで来てほしいと伝えてくれ。利明は彼を知っている様子だからな」

 やがて大久保が、彼を伴って来た。名を青山元、大久保と同じ理学部予科五級との事で、遠巻きにベースボールを眺めていたらボールが飛んで来たので、見よう見まねで投げてみたらしい。

「君、ベースボールをやってみないか?」と来原が青山に勧め、少し躊躇している青山に無理やりバットを持たせて「打ってみて」とバッターボックスに立たせた。

「カキーン」と快音を残して、久米の投げたボールはレフトの頭を超えて飛んで行った。青山の表情は、豊太が初めてバットを握って打った時と同じ表情をしていた。

 その日から青山元はベースボールの仲間に入り、主にショートを守るようになった。

来原たちがアメリカから持ち帰った本場ベースボールに刺激を受けて豊太たちの練習にも熱が入っていたその頃、ウイルソンにベースボールの手ほどきを受けた杉浦たちは、第一回海外留学生として送り出された十一人に刺激を受けて学校側とひと悶着を起こしていた。

「法学部の成績が第四番は留学出来て、第五番は留学する事が出来ないのか。わずか一番違いでなぜ留学が出来ないのか。法学部では三名と言っていながら四名にしたのに、なぜ五人に出来なかったのか。六人に改正出来なかったのか」

 要は、選ばれなかった自分達も海外留学をさせろと運動を始めたのである。斎藤修一郎のごり押しが認められた事を逆手に取った屁のような理屈である。斎藤たちが猛烈に運動したように彼等も猛烈な運動を行ったので、ベースボールから足は遠のいた。

 明治九年の年が明け、二月の定期試験が終わる頃、遂に第二回海外留学生の派遣が決まり杉浦も選抜された。人数は十人で、第一回の留学先が主にアメリカであったのでその後塵を拝したくない対抗心も働いて杉浦を中心に強くイギリスを希望しその通りになった。物理学部の山口半六と沖野忠雄の二名はフランス留学であったが、杉浦たち八名の留学先はイギリスとなり、出発は六月と決まった。

「少し腕が鈍ったのでは無いですか?」

 杉浦の打った打球は、ショートを守る青山の所にボテボテと転がり、難なくファーストの豊太に渡ってアウトとなり、残念そうに引き上げる杉浦に豊太は声を掛けた。東京開成学校正門の前庭に植樹された桜が新緑となった頃、久方ぶりに杉浦がグラウンドに顔を出したので、試合形式で練習を行ったのだが、カンが狂うのかバットに当て損なってばかりであった。

「キエー!」

 気合がグラウンドに木霊し、高めのボールを要求した青木元五郎の打った打球はショート青山の居ない一塁と二塁の間を鋭く抜け、ライトの田上省三が捕球した時にはすでにファーフトを駆け抜けていた。青木元五郎は杉浦より一歳年長で貢進生として大学南校に入学した。

「気合が足らぬのだ、杉浦!」と、遠慮なくベース上でからかう。

「青木さん、ちゃんと打って下さいよ」と、バットを構えた来原が指導するように声を掛ける。

「ヒットになったのだから文句は無かろう。僕が編み出した打法なのだ」

 先日三月二十八日「廃刀令」が布告され、官立である東京開成学校では厳しく生徒に指導した。厳密には帯刀を禁止されたのであって所持は認められていたのだが、官立の学生が帯刀して外出していたとあっては面目が立たないので寄宿舎内での所持は認めず、すでに少数であったのだが所持していた学生の刀は学校側が一旦預かる事になり、青山は数少ない刀の所持者であった。「刀狩りでは無いか」と憤慨していた青木は、鬱憤晴らしもあってか夕食に集まって来た学生達の前で、吊るしておいた大根を気合一閃スパッと切り落とす技を披露してから刀を学校に預けた。その時閃きがあったらしく、秘技として「大根切り打法」と名付けて悦に入っていたのである。恐らく「悪球打ち」が得意なのだが、元々体躯にも恵まれ、守っては肩も良かったのでキャッチャーをやる事も多かった。

 試合形式の練習も終わってから、珍しく参加していたウイルソンが学生たちを集め、改めて杉浦の海外留学生選抜の祝福を述べ、イギリスにはベースボールは無いので、自分と同じようにバットとボールを荷物に加えるようユーモアを交えて話した。杉浦も渡航はアメリカ経由であるので、神田の靴屋で作ったボールでは無く、本場アメリカで道具を仕入れてイギリスに渡ると返しウイルソンの笑いを誘った。そして、ウイルソンは壮行試合を提案したのだが、対戦相手は何と横浜にあるアメリカ総領事館のベースボールチームと対戦してみないかという提案であったので学生たちは驚きの声を上げた。ウイルソンの話では、領事館でベースボールチームが結成されていて東京開成学校の外国人教師にも声がかかって以来親交を深めているらしく、メンバーの中にはプロベースボールチームで鳴らした選手もいるとの事である。

「プロ?」

 初めて聞く単語に問い質すと、ベースボールが盛んなアメリカでは地域や職場の仲間内でベースボールクラブが幾つも誕生し初めのうちはメンバー制でチームを運営して他チームとの試合を愉しんでいたのだが、やがて実力差で弱いチームは負けてばかりなので、優秀な選手が居れば報酬を与えてそのチームの所属として試合に出場させるようになり、話によるとウイルソンが大学南校の教師として来日する以前にはすでにプロベースボールチームが誕生していたらしい。

「ベースボールで給金が貰えるのか?」

 まったく想像もつかない様子で質問が飛び交う。

「来原君は知っていたのか?」

「はい、実際のゲームを見た事もあります。ゲームを見る為にはお金を支払ってから球場に入ります」

「成程、見物人から金をとる訳か。野外なので芝居小屋の歌舞伎なんぞより沢山実入りがありそうだな」

「そうなのですよ。ゲームは人気で確か九チームあったはずです。僕はフィラデルフィアのミドル・スクールに三年いた時にベースボールの手ほどきを受けましたが、そのフィラデルフィアにもプロチームがあって盛んでしたよ。あとはシカゴ、ボストン、ニューヨーク、ワシントンなどの都市にありましたよ」

「受けて立とうでは無いか、なあ杉浦」

 何故だか、留学とは縁が遠そうな山岡が興奮気味に声を上げると、集まっていた連中も「やろう、やろう」と賛同し、ウイルソンから校長補の濱尾新にこの企画の了解を取り付け次第、アメリカ総領事館チームに対戦を正式に申し入れる事になった。校長の畠中はアメリカで開催される博覧会のため四月二十五日に文部大輔田中不二麿の随行として派遣され濱尾新が校長代理を務めていた。

「勝てるのだろうか」

 夕食後、食堂にベースボールメンバーが集まっての関心はその一点である。恐らくウイルソンは、第二回留学生派遣を名目とした「親善」の意味合いが本来の提案だったのかも知れないのだが、何しろ開成学校に集まった連中は負けず嫌いが相場である。当然、やるからには「勝たなければ意味が無い」のであるのだが、それにしても「プロ」という単語がどうにも実態が伴わず、相手の実力の程が分からない。何しろ学生たちにとってはウイルソンが本場アメリカベースボールの標準なのであり、その標準がランナーとして二塁に走る時など一塁手が追いかけ追いつきタッチされた勢いで足がもつれて前のめりに転んでしまうのである。

「ここは、敵情視察が必要だな」

 誰かが呟くと、「そうだ、そうだ」と皆が賛同し、そしてその視線は来原に集まった。

「えー!」っと視線が集中した来原が驚きの声を上げる。

「えーでは無い。この中で本場のベースボールを一番知っているのは君ではないか、敵情視察に適任なのは当然だろう」という事で皆の意見は一致した。

 校長補濱尾の快諾を取り付け、ウイルソンがアメリカ領事館チームとの試合を正式に申し込みに横浜に行く事になり、学生の代表として皆から推戴された来原が同行する日曜日の朝なってどういう訳だかもう一人学生を連れて行きたいとウイルソンが言い出したので、たまたま居合わせた大塚彦六郎に声がかかり来原と三人で横浜に向かい、ウイルソンはそのまま横浜に残ったので夜二人して寄宿舎に戻って来た。さっそく食堂で敵情視察の成果を聞こうという事になりその輪に豊太も加わった。どうやら成果は抜群で、昼食の歓待を受けた後には、総領事館チーム同士の試合を見学出来たらしい。

「それはお手柄では無いか! 大塚」と、山岡が手を叩き急遽横浜を往復した彦六郎を労い「で、勝てそうなのか?」といきなり本題を問うと、皆の視線が彦六郎に集まった。

「そ、それは」と彦六郎は答えに窮する。それはそうであろう、急に横浜に同行させられしかも総領事館というそこは彦六郎にとってはまさに外国で、しかも歓待を受けるなど夢心地のようなもので、気が付けば寄宿舎に戻っていたのである。そして「か、格好からして違います」と素直な感想を述べる。

「格好? なんだそれは」

「あはは、それはそうですよ。僕達のように草鞋に袴姿ではありませんからね、運動用の靴を履いて上下ともベースボール用のユニフォームを着ています」と、来原が助け舟を出した。

「ユニフォーム?」

「アメリカでは、チーム毎に特徴のある服装で試合をするのですよ。見た目にも分かりやすいですからね」

 来原の説明を聞いて、一同一応想像はしてみたもののそれ以上関心を集める事も無く、「それで、試合をして勝てそうなのか?」と、山岡が代表するように話を本題に戻した。

「ゲームを見る限りでは、僕達東京開成学校チームとは互角では無いですかね。ただ、残念な事にプロに所属していた選手が不在でしたので、彼が加わった時には手強いでしょうね」

「ええ!」と一斉に驚き、「プロの選手が横浜に居るのか」と声が上がる。

「試合を見ながら領事のマジェット氏が、今日此処に彼が居ないのは残念だと話していました。そして、開成学校との試合には必ず彼を連れて行くと。彼が出場すれば我々の勝利は間違いないと」

「ちょっと待て! 今、領事のマジェット氏と言ったな?」

 山岡が、領事という言葉に反射的に反応したので「はあ、そうですけど」と来原は怪訝そうに答えた。

「りょ、領事と言えば、その初代のアメリカの領事はあのハリスであろう? 口を利けるのは外国奉行のみだと聞いた事があるぞ」

 流石に戊辰戦争の時に十二三歳であった連中は、来原の世代と僅かに三歳程度の差なのだが時代から受けている衝撃感に差が在る様子で、驚いている。

「いや、ベースボールを一緒に観ようと誘われましたので、そのような雰囲気では全く無かったですよ」

「時代が変わったのだ」と山岡と同じ世代の青木元五郎が言った。

「そうかも知れませんが、ベースボールという競技の前では外国奉行しかとかそういった堅苦しいものは一切無くなりますね」

(そう言うものなのか)と豊太も俄かにアメリカを身近に感じるようになった。

「連れて行くとは、開成学校のグラウンドで試合をすると言う事なのか」

 気を取り直した様子で山岡が聞く。

「ええ、ウイルソン先生から開成学校の広いグラウンドの事は聞いていて、是非ともこのグラウンドでプレイしたいとの事でした。まあ、我々が横浜に乗り込むとなると汽車賃とか色々面倒な事もあるので、彼らに来て貰うのは歓迎ですね、校長にも否は無いでしょう」

「それで、そのプロの選手の事をもう少し詳しく聞かせてくれ」

「アメリカではワシントン・オリンピックスというチームに在籍していたプレイヤーらしいです。元々財務省に勤めていて明治二年に横浜領事館勤務となり日本にやって来たそうで、今は副領事との事です」

「役人なのか!」

「そのようですね、文武両道を絵に描いたような人物のようです。僕も是非会いたかったですね」

 豊太も興味津々で聞きながら、実際に試合をするとなるとどういったメンバーになるのか想像したのだが、ふと雪合戦の光景が浮かんでワクワクした気持ちになった。

「相手にとって不足なし! で、その元プロの選手の名は?」と、杉浦がまるで源平合戦のような調子で問い質した。

「名前は、確かヘンリー・デニソン」と来原は答えた。

 五月十六日、校長補濱尾新、監事井上良一の立ち合いで杉浦達十人に海外留学生派遣の内達があった。「君らは速やかに行李を用意して帰省の備えをせよ。その費用は学校からこれを貸与して後で清算するであろう」と言われたので杉浦は二十円を借りて帰省し、六月二十日に再び上京した。渡航準備で多忙であったのだが、やはりベースボールの事が気になったのであろう、山岡に声を掛け豊太と彦六郎に来原彦太郎も加わりも神田明神の「天野屋」で席を囲みアメリカを迎え撃つ段取りを聞いた。注文は勿論甘酒である。

「杉浦さんにアメリカとのベースボールゲームを見せる事が出来ずに残念です」と来原彦太郎は悔しそうに言った。結局、アメリカとの試合は七月八日となり、杉浦達が渡航する六月二十五日の後になったからである。

「お待ちどう様」と四人の前に甘酒が運ばれた。

「これは美味い!」と来原が一口飲んで湯呑みを眺めた。

「あれ、初めてだったかな」と杉浦が少し驚いた顔をして、「ここの甘酒はだな、セイロで蒸かした米を冷まして麹菌を植え付けよくかき混ぜて地下のムロへ落とす。麹の発酵に地熱を利用している訳だ。この室で三日間寝かせるのだが、その間温度の上昇を抑えたり、酸素の吸収をよくする為に真夜中や明け方の作業が繰り返されておる」と、初対面で豊太が聞いた同じ話をして「天下一なのだ」と締めた。

「よくご存じですね」と来原は驚き「なるほど化学を専攻される訳ですね、そうで無いとそこまで調べませんよね」と感心した。それを聞き、豊太は初めて彦六郎と此処で杉浦から「天野屋」の甘酒の美味さについて話を聞いた事を思い出しながら、成程杉浦が詳しかったのはそういう事だったのかと今さらながら納得した。

「それで、勝機はありそうか? 君は、アメリカでの経験もあるので率直に言ってみてくれ」と杉浦が来原に聞いた。

「こればかりはやってみないと分からないですね。何しろ僕が開成学校に入って一番驚いたのは、山岡さんがバットとボールを持っていた事ですよ。それだけでは無い、ルールを理解してゲームまで行っている。しかも紅白戦に神田の住民が集まって観戦して応援する様子は決して引けを取りませんよ、ただですね」

「ただ、何だ」

「例の、ヘンリー・デニソンと云う元プロの選手の存在ですね。会えなかったのが残念なのですが、僕はフィラデルフィアで実際にプロの選手達によるゲームを見ましたが、よく打ちますし、守備もなかなかのものでしたよ。あのような選手が一人居るだけで随分チームの様子も変わってくると思います。先日、横浜で彼等のゲームを見学出来ましたが、ヘンリー・デニソン抜きであれば勝てそうな気がしますよ。なあ、大塚君」

「なまず(ウイルソン)が向こうチームに沢山居ると思えば良いのですよ」と彦六郎が胸を張って答える。

「なまずが九人のチームなら勝てそうだな」と山岡が頷く。

「まあ、なまずより上手なプレイヤーも多く居ましたから油断は出来ませんよ」

「こちらのメンバーは決まったのか?」と杉浦が聞く。

「はい、先日山岡さんに声を掛けてもらって皆が集まり自薦他薦含めて決めました。まず一番バッターは石藤君でファーストを守ってもらいます」

「それは良い考えだな。石藤は足も速いし左利きなのでファーストベースに一歩分近い。ただ、いつも守っているキャッチャーでは無いのか?」

「捕球がしっかりしてますからね、安心してボールを投げる事が出来ますよ。取り損ねるとせっかくのアウトがセーフになってしまいますからね、勿体ないです」

「そうそう、大塚のようにな」と山岡が茶々を入れると、彦六郎がほっぺを膨らます。

「山岡はどうなのだ?」

「それが、青木元五郎がアメリカに目にもの見せてやるのは自分しか居ないと言い出してな、そこで僕もそれは自分も同じだと言ってやって睨み合う格好になってな。そこで石藤のファーストに皆異存無しだったので、僕が一計を案じて彼の嫌いなキャッチャーなら君で良いぞと言ったら即座にキャッチャーで構わんと返答しおったので決まってしまった。まあ、先日の練習で足の親指の爪を剥がしたばかりもあって譲ってやったのだ」

「赤足(裸足)で走り回るからだぞ。まあ、僕や山岡の一つ年長者だ、花を持たせて良かったでは無いか、力量は君と同じだ」

「でも、大根切り打法は止めて下さいねとお願いしました」と来原が眉を寄せると、豊太も頷いた。

「僕からも釘を刺しておこう。アメリカに目にもの見せてやる手段を勘違いしておるからな」と山岡も同調した。

「ピッチャーは、やはり久米祐一かな?」

「そうです。一番体力を使いますからね、久米さんボール球は少ないですし、九回投げ切っても涼しい顔ですからね」

「体力と言えばショートも大切だな、守りの要でもあるし。来原君、君が適任だろう」

「いえ、僕はレフトを守ります。杉浦さんは青山元をあまりご存知ないですかね?」

「留学の事で君達とベースボールをする事から遠ざかっていたからなあ、でも評判は聞いているぞ」

「西洋人に比べて体格も遜色無くて、打っても守っても開成学校で一番ですよ」

「それはヘンリー・デニソンとか云う元プロに対抗出来るのでは無いか?」

「いや、僕がアメリカで見たプロの選手は遙かに凄かったのですよ」

 青山を知る豊太には、来原の云うプロプレイヤーの凄みを想像して息を呑み、彦六郎は「勝てるかなあ」と弱音を吐いた。

「ば、馬鹿者!」と山岡が弱音を打ち消すのに精一杯の顔で怒鳴った。そしてアメリカに勝って杉浦の留学に花を添えるぞと根拠の無い意気込みを伝え、景気づけに残った甘酒を一気に飲み干したのだが、話すのに夢中で冷めてしまった分今一つ気勢が上がらない様子であった。

 六月二十五日夕方七時頃、法学部は穂積陳重、岡村輝彦、向坂兌、杉浦の化学部は他に桜井錠二、工学部は関谷清景、増田礼作、谷口直定の八人はイギリスへ、物理学部の山口半六、沖野忠雄の二名はフランスへアメリカの郵便汽船「アラスカ号」に、各々かばん大小各一個ならびに小革嚢一個の荷物を携え乗船した。

 杉浦の留学先イギリスはビクトリア女王の後半期でその文化が頂点に達していた時期とも云われている。彼はサイレンシーストルの農学校、マンチェスターにあるオーエンス・カレッジで化学を学んだのであるが、帰国後は東京大学予備門長となってからは学校教育に関わるようになり、当時の門下生には夏目漱石が居た。「日本主義」を主張して日本の言論界をリードすると共に青少年の教育に尽力した。

さあ、いよいよ次回は記念すべき第一回となる日米ベースボール対決になります。

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